ただの夢
『私は、貴方の妻になる気はありません』
春の花が咲き誇る温室。いつもと同じ席に座る彼女は、漆黒の目でまっすぐ俺を見据えた。
最近、何度も呼んでも城に来なかった彼女が漸く訪れて、さぁ久しぶりに語ろうとした最中だ。小さな口から発せられたその言葉に、俺は目を見開いた。
深呼吸をして、彼女は再び口を開く。
『これまでも何度か、陛下より提案されていました。最初こそ私達の仲を勘違いしたのだと思っていましたが……今日、この提案は貴方たっての願いだと聞きました』
『…………』
『本来なら、私の様な立場の人間は断れないでしょう。……ですが、申し訳ございません。私は誰かと添い遂げる気はありません』
普段の親しみのある声とは違う、まるで初対面のような声色。そこから発せられる言葉が信じられない。
そうだ。陛下に、父上に彼女を妻にしたいと願い出たのは俺だ。
彼女と俺は想いあっている、でも立場が邪魔をして俺達は一歩が踏み出せないと。……父上は彼女を有益な存在と見ていたから、とても喜んで自分が提案すると言ってくれたのだ。
だが何度も父上が提案しても、彼女はいい返事をしなかった。しかしそれは恥ずかしさからだろう。いつかは心を決めて、頷いてくれるだろう。……そう、思っていたのに。
『……どうして』
ようやく出た言葉は、とても短いものだった。それでも彼女には想いが通じた様で、少し考える様に目線を下にした彼女は、優雅にティーカップを手に取る。
『むしろこちらが聞きたい。平民の私に、次期王の妻が務まるとでもお思いですか?』
『何言ってるんだ、お前は知識も、所作だって何処の令嬢にも負けないだろ!?』
もう出会った頃の彼女とは違う。読み書きも、知識も、そして所作も全て俺が教えた。今の彼女なら高位貴族にだって渡り合える。そうなる様にしたんだ。
だが彼女は目線を下げて、首を横に振った。
『人並みに礼儀作法が出来ても、結局私が平民なのは変わりません』
『そっ、そんなの適当な爵位を与えればいいじゃないか!お前は俺を死から救ったんだ、普通なら伯爵位を得る偉業なんだぞ!!』
そんなのは理由にならない。彼女への怒りで、叫ぶように声を出してしまう。
『それに俺の妻になるなら、望む爵位だって、領土だって与えてやる!』
荒れた呼吸で、必死になって彼女を求める姿はさぞ滑稽だろう。次期王にふさわしくないだろう。
それでもいい、彼女が手に入れられるなら、俺はどう笑われてもいいんだ。
突然現れた異邦人。彼女は死を待つのみだった俺に、光と温もりを与えてくれた。
謎の病に突然蝕まれ、俺の栄光は全て過去のものになった。自慢だった銀髪が抜け落ち、体は痩せこけ死臭がした体など、皆恐れて触れようともしなかった。
それまで親しくしていた貴族も、囃し立てていた大臣達も感染を恐れ見舞いに来ない。やっと来たとしても、俺が死んだ後の話を枕元でする。
やがて俺は、誰も信じることができなくなり、早く天から迎えが来ないか考えるまでにもなった。
だけど、彼女は俺に触れてくれた。髪が抜け落ち汚れた頭を撫で、優しく慈しんでくれた。……俺の体も、心も救ってくれた。
何度も何度も城に呼んで、気づかれても良い位に好意を曝け出して。必死に取り繕った優しい王子様を演じた。
彼女が俺へ頬を赤めらせて「アレク」と呼んでくれた時……どれだけ嬉しかったか、知ってるか?
『何度も申し上げていますが、私に爵位はいりません。ずっと平民のままでいいです。……貴方の妻になる気は、一切ありません』
『何で……俺の妻になれば、一生不自由ない生活が保障される!この国の全てがお前のものになる、お前の望むものは全て手に入れられるんだぞ!?』
テーブルを強く叩けば、彼女の為に淹れた紅茶が溢れた。
この場に俺以上の地位の者は居ない。側にいた城の使用人達は、皆恐怖で顔を下に向けた。……目の前の彼女だけは、俺をまっすぐ見据えている。
『も、もしかして、側室になると思っているのか?お前をそんな地位にはさせない!大丈夫、お、俺が父上に掛け合ってちゃんと』
『殿下』
『なっ、……何で、何でそんな風に呼ぶんだ?いつもみたいに、アレクって呼んでくれよ』
『…………殿下』
『イヴリン!!』
これ以上聞きたくなくて、咄嗟にイヴリンの手を掴んだ。彼女が持っていたティーカップは地面に落ち、悲鳴を上げながら割れる。使用人達は俺に怯え、静かに温室から立ち去っていく。
『っ……』
『……イヴリン。俺の気持ちなんて知ってるだろ?……愛しているんだ。この世で一番愛してる』
情けないその声に、強く手を掴まれた彼女は、耐えるように唇を固く閉じている。……嗚呼ほら、やっぱり知ってたんだ。そりゃそうだ、お前は俺よりも頭がいいんだから。
『俺とお前は、想いあっているんだ。じゃあ、俺の妻になるのは当たり前だろう?』
だって、あんなにも俺を見ていたじゃないか。耳元で囁けば恥ずかしそうにして、俺に熱の篭った目を向けてくれたじゃないか。必死に隠してたって、あんなの誰だって分かるよ。
愛してる、本当に愛してるんだ。お前が魔女でも、化け物でもいい。お前だったら、なんだって良いんだ。
『……なぁ、意地張ってないで言ってくれよ……俺の事、好きだって。愛してるって』
一言、その言葉だけ言ってくれればいい。
そうすれば俺が叶えてやる。何を犠牲にしたって、俺の側にいれるようにしてやる。
掴んでいる、彼女の手に汗が滲む。嗚呼、やっぱり俺の事が好きだったんだ。大丈夫、俺が守ってやる。もう震えない様に、ずっと守ってやるから。
けれど、彼女が固く閉ざした口を動かす前に。……後ろから、誰かが俺の頭を掴んだ。
『……もういい、こんな茶番はくだらない』
何処かで聞いた事のある、その美しい声。誰だと問う前に、目の前にいたイヴリンが顔を真っ青にさせて叫ぶ。
だが意識が遠のく中で、何を叫んでいるのかは分からなかった。
「……っ」
ふと、頬に当たる風と、揺れるカーテンから入り込む光。ゆっくりと瞼を開ければ、そこは慣れ親しんだ執務室だった。
どうやら椅子に座ったまま、居眠りをしていたらしい。……随分と鮮明で、懐かしい様な夢を見た気がする。明確に思い出せるのは、夢の中にイヴリンがいた事。だが内容はあまり思い出せない。しかし、夢とはそういうものだ。
「彼女が夢に出るなんて。はは、年甲斐もなく必死か」
息子が彼女を求め始めて……痛い所を突かれて、年甲斐もなく欲が溢れてしまったのかもしれない。胸が痛むと分かっていながら、誰もいない執務室で虚しい独り言を呟く。
脳裏に響くのは、そんな息子が温室で告げた鋭利な言葉。只の真実だ。
嗚呼そうだよ、私はずっとイヴリンが好きだ。
好きで好きで、愛してる。……でも彼女は私も、誰も愛さない。
だからこそ、彼女を求めるのは自分だけにしたかった。
大きく背伸びをした後、公務の続きをする為に机に体を向ける。そのまま資料に目を通そうとしたが……その上に、大きな鳥の羽があった。
今まで見た事がない、純白の美しい羽だった。
本当はここからも書く予定(前話の続きを)でしたが、あまりにも長くなりそうだったのでここで区切ります。