112 扉
学校へ向かう馬車の中、私はベリル団長から借りた調査資料を見たまま、向かいのレヴィスへ淡々と声をかける。
「レヴィス、第四の契約を使う」
馬車の窓から景色を見ていたレヴィスは、その言葉へ目を細め、口元に手を添えて私を品定めする様に見つめた。まるで肉の、どの部位を食べようか悩んでいる様な姿だ。全くもって主人を見る目ではない。
悪魔は私へ首を傾げて、色気のあるため息を溢す。
「……いいよ。何して欲しい?」
美しい笑みを溢す奴へ、私は簡潔に内容を伝えた。……やや目を見開いているので、予想外の内容だったのだろう。だが最後まで聞けば、レヴィスは頷いで了承した。契約成立だ。
……さて、契約成立したのはいい。だがここからが問題だ。資料を自分の隣に置き、私は腕を組んでじっとりとレヴィスを見つめる。
「で?対価は何にするのか聞いてもいい?」
「今言うのか?」
「別に契約違反じゃないでしょ?」
最近、この馬鹿悪魔達はやけに男女の仲に持ち込もうとする。その理由はとても悲しい事に知ってしまったが、私は望む未来へ転生したいのであって、馬鹿共に答えるつもりはさらさらない。地獄にオーシャンとココナッツジュースはあるか?ねぇだろ?
……ないのだが、流石に極上の顔に気持ち有りで行動にうつされると、私にも準備が必要だ。前回のサリエルなんて、馬鹿みてぇないい声で、朝方まで耳元で愛を囁いてきやがった。あれは非常にクるものが……ああ思い出すな。また耳やら顔が赤くなり、調子こいた馬鹿共を相手するのは骨が折れる。
私の質問へ、レヴィスは少し考える様なそぶりを見せた。
「まだ決めてないんだが……本当なら交尾、って言いたい所だが……今回の内容だと過剰対価になるからなぁ」
「交尾言うな」
「じゃあ性」
「それ以上言うな」
ご主人様の鋭いツッコミに感謝もせず、レヴィスは唸りながら下を向き考える。眉間に皺を寄せて考える姿ですら、まるで芸術作品の様に美しい。……よく何十年もこの顔に口説かれて、落とされずに済んだな、私。
沈黙の馬車の中、聞こえるのは車輪が進む音だけ。だが、何かを閃いたのかレヴィスは顔を上げた。とびっきりの笑顔を向けてくるものだから、とんでもない事を考えたのだろうと身構えてしまう。
「俺の事「愛してる」って言って」
「えっ」
「嘘でもいい。ちゃんと思いを込めて俺に「愛してる」って言って欲しい」
あまりにも予想外すぎる。だがレヴィスはいつもの調子で言ってのけるので、今度は私が眉間に皺を寄せた。その表情に奴は、苦笑しながら頬杖を付いた。
「何でそんな顔するんだよ。いい対価だろ?主は言うだけなんだから」
「……そりゃあ、そうだけど」
「何だよ、じゃあ卑猥な言葉でも言ってくれんの?」
「却下」
即座に拒否した私へ、レヴィスは声を出して笑う。
……えっ、本当にそれいいの?まさかそんな対価を求めてくるとは……いや、確かに最高の対価だ。血が出るわけでもなく、精神削られるわけでもない。ただ言うだけで終わる対価だ。今までが何だったん?と思わず言いたくなる程だ。お前どうしたん?とも言いたくなる。
…………だが……嗚呼、うーん………ああ駄目だ、もう言おう。
「別の対価にして欲しいんだけど」
「はぁ?」
まさか拒否されると思わなかったのか、不機嫌そうに声を出す悪魔を真っ直ぐ見つめて、私は大きくため息を吐いた。
「お前に嘘は付きたくない。ちゃんとお前にそういう気持ちになったら、言う」
「…………」
溜息混じりに、憎らしく吐いた声にレヴィスは目を開いた。灰色の目玉が落っこちそうだ。あまりの馬鹿面に呆れた表情を向けながら、隣に置いた資料を再び手に取った。
「お前達に嘘を付かれるのはどうでもいいけど、私はそういう嘘……私の感情に、嘘は付きたくない。……っていうか悪魔の癖に「嘘でもいいから愛を囁いて」とか言うな、女々しいわ馬鹿め。自慢の顔面やら体やら使って、私を落として言わせてみせろ」
資料を見たまま、奴へは顔を向けずに吐き捨てていく。奴が今どんな顔をしているのかは知らないが、それでも契約で危害は加えないだろう。
はーやれやれ、人間に恋した悪魔ってのは、随分と馬鹿な事を考えるものだ。
「人間を欺くのが悪魔でしょ?お前が欺かれてどうする」
長年過ごして、何度も悪魔達には騙され、苦しめられた。……でも、それが彼らだ。私はそんな彼らだからこそ、これまで友とも恋人とも思わずに過ごしてこれた。
そんな悪魔が人間らしい事を言うな、やめてくれ。情を抱かせないで、これまでと同じく敵と思わせてくれ。
そのまま次のページを捲ろうとするが、捲る手を上から握られる。何だと前を向けば、目の前にレヴィスの顔があった。変な声出た。
レヴィスの灰色の目は、真っ直ぐ私を見つめている。その表情は普段と違い穏やかなものではなく、サリエルの様に無表情だ。……暫くして、整った口が開いた。
「なぁ、対価変えていい?」
「……また馬鹿みたいな事言わないでよ」
「うん、言わない」
おお、やけに素直じゃないか。真顔のレヴィスさんから何の対価を求めらるか分からないが、まぁここまで言ったのだ。悪魔らしく、大方血とか髪とかだろう!私はご機嫌に笑みを浮かべながら、素直で可愛い悪魔を見た。
「何を望むの?」
悪魔は、真顔で対価を語った。
「学校に着くまでの三十分間、アンタが喘ぐ程に愛を囁いてやるから、全部受け止めろ」
「えっ」
「アンタのそういう、悪魔相手に素直すぎて滑稽な所が……堪らねぇんだよなぁ」
とんでもない対価に反論する前に、私の視界には奴しか映さなくなった。おい悪魔共、いいのかそれで。
……まぁいいか。嘘を囁いて、うっかり真実になるよりは。
◆◆◆
朝。いつもの様に朝早く出勤し、準備室で珈琲を淹れながら今日の授業の予定を確認する。国立学校に勤めて数年、一度もこの習慣は変わっていない。
この学校の生徒は優秀だ。それ故に教師も優秀で、なおかつ全て完璧でいなければならない。珈琲を片手に、昨日準備していた小テストを見直す。今回はかなり難易度の高いものを、前回アノニマスに出した問題、その応用を入れている。
「あの女……教師の僕に歯向かいやがって……」
イヴリン・アノニマス。姉上が直々に連れてきた平民の女。姉上が見つけてきただけあって、相当優秀な生徒だ。目つきの悪い、可愛げのない顔。だが女は目立ちたがり屋なのか、僕が出した問題の解答と共に指摘までしてきた。あの時の得意げの表情が今でも思い出せてしまい、怒りで思わず持っていたグラスを強く握ってしまう。
「……はぁ、子供相手に苛立つなんて」
あの生徒の事を考える暇はない、小テストの確認以外にもやる事は沢山あるのだ。……最近はどうも調子が可笑しい。それも全て「デボラの呪い」なんてついている事件の所為だ。小さく息を吐いて心を落ち着けようとする。
デボラ・シュナイザー。まさか彼女の名前を再び聞くとは思わなかった。詳しくは被害にあった生徒のプライバシーに関わるので聞いていないが、相当な人数が被害を受けている様だ。……彼女の名前の付いた事件など、聞きたくもない。胸が痛んでしまうから。
その時、準備室の扉を叩く音が聞こえた。
こんな早くに一体誰だ?グラスを机に置き、扉へ向かう。……途中で再び叩く音が鳴る、今度は扉の向こうから青年の声が聞こえた。
「ユベール先生。朝早くから申し訳ございません、入れて頂いてもよろしいですか?」
「何か用ですか?」
「はい、今日の提出物について確認したくて」
ドアノブを回そうとした手を止めた。……可笑しい。どの受け持つクラスへも、今日の締め切りの提出物はない。何かの授業と勘違いしているのだろうか?しかも今は早朝、始業時間まで大分時間があるので、普段は門の警備員位しかいない。こんな早くから、何故この青年はいるんだ?
「今日期限の提出物は、どのクラスにもありませんが?」
扉越しにそう告げると、声の主は黙ってしまう。そのまま立ち去っていくと思ったが、今度は先程よりも強く扉が叩かれた。
「先生、入れてください」
穏やかな声なのに、背筋がゾクリと震える。ドアノブからはもう手が離れ、代わりに内側からロックを掛けた。何故か、そうしなければならない気がした。
ロックが掛かる音が聞こえたのだろう、外の人物によりドアノブが何度か回される。ゆっくりと数回、段々とそれは回数が増え、勢いがあるものへかわる。
恐怖で、僕は扉から離れていった。何処かに隠れればいいのに、目線を扉から逸らす事が出来なかった。青年は冷静さを失くし、荒々しい呼吸で扉を叩き続ける。
「先生……先生、先生入れてくださ………おい、聞こえてるんだろぉ?入れろよ……なぁ……入れろって!!!」
声の主は苛立ちで声を荒げている。助けを呼びたいが、この準備室は学校の一番奥にあり、早朝のこの時間に通る者などほぼ居ない。ここまで奴が暴れて声を出しても、助けがこないのだ。おそらく周りに奴以外誰も居ない。
「……っ、た、助け」
自然と誰かに助けを求めていた。だがそれを受けてくれる人など何処にもいない。
ガンッ!……そう激しく大きな音が鳴った。どうやら扉に体当たりしている様だ。流石に鍵をかけていても、歴史ある古い扉は何度も耐え切れないだろう。
青年は乾いた笑い声をあげて、再び扉に体当たりする。
「デボラだって、命乞いをしただろ?なぁ、あの人にお前は何をしたんだよ?」
「何を言って……」
僕の言葉を阻止するように、もう一度大きな音がなる。荒々しい呼吸を懸命に抑え、奴は静かに声を出した。
「皆、ちょっと騙したら素直に教えてくれたよ……お前に嘘の証言を頼まれたって。あの日、本当は誰もデボラ・シュナイザーが屋上へ向かった姿なんて見てないって」
「……それは」
「お貴族様にとっては、孤児の子供なんて成績表よりも低いのか?なぁ、生まれがそんなにも大事?」
足に力が入らず、床に座り込んでしまう。
やがて扉の金具が緩み、微かに外の光が見えた。
その光は、すぐに遮られる事になる。
…………此方を覗く、狂った男の顔の所為で。
もう終わりだ、そう目を瞑った時、突然外から男の慌てる声が聞こえた。それと同時に暴れる音、床に叩かれる音。他の男の声。
……最後に、小さく息を吐く音。
「もういいでしょう。貴方が先生を殺したって、何の意味もない」
冷たく囁かれる、やけに冷静な女の声。この声の主はよく知っている。