101 偽りの子供
首に触れるベルフェゴールの手が、ゆっくりと下へ下へ移動する。
やがて手は心臓部分で止まると、指から伝わる鼓動を愛おしそうに見つめながら、舌舐めずりした。
「ご主人様、一体何処で気づかれたんですか?」
信頼関係が崩れたのに、まだ下僕ごっこを続ける気か?胸元に触れる奴の手を振り払いながら、私は小さくため息を吐く。
「最初こそ、ケビンがアリアナ様を攫ったのかと思っていたよ。……でも、ふと疑問に感じた。誰がケビンに契約の事を伝えたのかって」
始末すると決定しているのに、ご丁寧に本人へ侯爵が伝えるとも思えない。ケビンが隠れて話を聞いていた可能性も考えたが、それなら契約開始の一週間前に事を実行する筈だ。そう潰していけば、残るはアリアナだけだった。だが馬鹿らしい答えだ。そう思い自分で答えを出したのに信じきれなかった。……それが本当にあっていたので、先程は少々驚いてしまったが。
振り払われた手を労わりながら、ベルフェゴールは此方に目を細めた。
「本当に頭の良い方だ。……でも、貴女が悪いんですよ。二年前に契約して頂けていれば、私達だってこんな面倒な事はしなかった」
「二年前って……諦めるって言葉知らないの?」
「私達にそんな考えがあると?あの日から、女王も私も貴女を陥れる事しか考えていません」
二年前、ベルゼブブとベルフェゴールに持ちかけられた契約に、私は契約書の中身も見ずに拒否した。既に五人の悪魔と契約しているし、これ以上持つ必要性が感じられなかったからだ。
だが、高慢な悪魔にとって、ただの人間に契約を断られるのはとても屈辱的らしい。特に上位悪魔はその感情が大きく……賭博場で賭けに連勝し、金もたんまり頂いたのも相まり相当憎まれた。なので賭博場に行くのも、相当面倒な事になると思っていたが……いや、面倒にはなったか。
ベルフェゴールは熱のこもった吐息と共に、湿った声を出した。
「ここ半年、貴女は本当に隙まみれだった。契約している悪魔達に同情した程です。特にレントラー家の青年には無防備すぎる。ですので最初は、その青年を使おうとしましたが……あの青年は少々、難しいので」
私がパトリックに無防備?何を言っているんだ?だが妙に納得してしまうのと、彼の名前が出た途端に胸がざわめく。否、今この疑問を考えてもしょうがない。
既に契約は結ばれている。三日以内にアリアナを見つけなければ、私は蝿の悪魔達に喰われてしまう。ここまでの大舞台を仕掛けたのだ、何をされるか分かったもんじゃない。本当に悪魔ってのは、諦める事を知らないらしい。苛立ちで頭を掻きながら小さく舌打ちした。
「別に違法悪魔を見つける時と変わらない。私はアリアナ様達を見つければいいんでしょ?」
「ええその通りです。貴女はいつもと同じ事をすればいいんです」
「……見つけて差し出した途端、やっぱり対価変更ってのはなしだからね」
「そんな事できる筈がありません。そこの愚かな人間と違って、貴女とはちゃんと契約をしているのですから」
愚かな人間とは、ヴァドキエル侯の事だろう。彼はその言葉に怒鳴る気力もないのか、絶望に打ちひしがれた、光のない目で天を仰ぐ。ギデオンはそんな兄に寄り添わず、軽蔑した目を向けていた。自分の子供を犠牲にしてまで、栄光を得ようとしている兄に失望したのだろう。悪いことをしてしまった。
ベルフェゴールは彼らを見ず、私をまっすぐ見つめている。
美しい笑顔で、私を愛撫する様に見る獣の目。奴は自分の胸へ手を置いた。
「三日間、是非私を下僕として使ってください。一緒にアリアナ嬢を探して、女王へ献上しましょう。……もし、見つけれなかった場合は……賭博場の哀れな豚と同じ様にリードを付けて、どうぞ私達に嬲られてください」
その光景を想像したのか、ベルフェゴールは涎を垂らしながら歪に笑った。
《 101 偽りの子供 》
夕食と風呂を済ませた私は、一人掛けのソファに座り、ギデオンから預かったアリアナの髪飾りを眺めている。
コインと一緒に置かれていた髪飾り。注目させるならもっと別の方法で、もっと他のものがあった筈なのに、何故アリアナはこの髪飾りを側に置いたのだろう?
そんな事を考え込んでいると、小さく部屋の扉のノックが鳴った。既に使用人達も仕事を終えているだろうし、一体何の用だ?入るように声を出せば、ゆっくりと扉は開く。
扉の向こうには、思っていた高さに姿はなかった。……だが、下に顔を向けるとフォルがいた。かなり大きめな寝巻きを身に纏っているからか、肩がズリ落ちている。廊下は寒いだろうに素足でやってきた様だ。てっきりサリエルとかレヴィスあたり、もしくは大穴で公言夜這いしに来たケリスかと思った。
「フォル、どうしたの?」
優しく声を掛けると、フォルは上目遣いでおずおずと声を出す。
「今日一人で寝るの、さみしくなっちゃったのぉ……」
「ウッッッ」
おっと、いかんいかん奇声を上げる所だった。いやぁ私も何年も生きていると、幼い子供の愛らしさが染みる。枯れたと思っていた母性が爆発しそうだ。
私は必死に顔を整えて、ソファから立ち上がりフォルの元へ向かった。
「いいよ、一緒に寝よう。ステラには内緒ね」
「やったぁ!」
大喜びしながら腰にまとわりつくフォルへ笑いながら、私は部屋の明かりを消していく。フォルは離れると寝具の中に潜り込んで遊びはじめた。よしよし、私も潜り込んでやろう。
全ての明かりを消した後、私はモゾモゾと動く寝具の側に寄る。それを見越したかの様に寝具の動きが止まった。……あぁ成程、フォルは勢いよく出て驚かそうとしているのだろう。なんて愛おしい生き物だ。ベルゼブブ達だって、この位可愛かったら癒し要員で契約してやったのに。美しい男は求めてない、性欲じゃねぇ癒しを寄越せ。
……と考えている最中、突然寝具から手が伸びてきた。力強いその手は、私の腕を掴み勢い良く寝具の中へ招く。反射的に目を瞑ってしまう。
「うぉっ!?」
「はは、先程から随分と可愛らしい」
寝具の中から聞こえる、低い男の声。可愛らしいフォルの声とは違う、大人の男のもの。
目をゆっくりと開ければ、男がいた。四十代ほどの見た目で、眩い金髪とエメラルドの目。そんな美しい紳士が、腕を掴みながら私に覆いかぶさっている。
エメラルドの目を細くして、紳士は私に微笑んだ。
「主は本当にいい匂いだ。思わず噛みつきたくなるよ」
色気ある声でそう言えば、体に擦り寄り甘えてくる。……色々衝撃だが、この目の前の美麗な紳士はフォルだ。言葉遣いも姿も違うが、この擦り寄り方はフォルだと分かる。
上級悪魔は、完全に人間の姿に化ける事が出来る。だがその姿は一つだけで、他は化けたとしても相当疲れるらしい。……つまり今、フォルは頑張って大人の姿になっているのか?ちょっと背伸びしたくなったのか?そう考えるといじらしく見えてきた。だんだん擦り寄り方がいやらしくなってきたのが気になるが。
「フォル、その姿疲れるでしょ?元の子供の姿に戻りなよ」
甘えるのは構わないが、別にこの姿でなくて良いだろう?そう思っての善意の言葉だった。
だがフォルはその言葉には苦笑いを浮かべて、眉を下げながら答えた。
「主、違うんだよ。人の形だとこの姿が素なんだ」
「えっ」
「子供の姿でいる方が疲れる。だから夜は基本的にこっちなんだ」
「そうなの!?」
そうか、だから寝巻きが大人用なのか!三十一年間明かされなかった、衝撃の事実だ。まさかフォルの人の姿が中年紳士だったとは。今度からフォルさんとお呼びした方が良いだろうか?
フォルは体を動かして横に寝転がると、微笑みながら骨張った手で頭を撫でた。
「今日もよく頑張ったね」
よくフォルも「えらいねぇ」と言いながら頭を撫でてくれるのと同じだ。だが今は癒しではなく色気が爆発している。先程まであった母性はどこかへ引っ込んでしまった。
異常に瞼が重たくなっていく、いかん寝るな、聞きたい事があるんだ。
「フォル……どうして……」
「何だい、可愛い子」
「………んぅ……」
「こら、可愛い鳴き声しか聞こえないよ」
何かを言われている様だが、喋る事もできずに強烈な睡魔に襲われいる。可笑しい、今まで意識ははっきりしていたのに、急に何故睡魔が……。
ただ、私が何を言いたいのか察したのだろう。
フォルネウスは、私の耳元で小さく声を吹きかけた。
「きっと「どうして子供の姿でいるの?」と聞きたいんだろう?」
その通りなので、睡魔に負けそうになりながらゆっくり頷く。フォルネウスは少し考えながら、頭を撫でる手は止めない。
「そうだな……色々あるんだよ。……例えば、君が子供の僕に見せる笑顔が堪らないとか」
その返答は思いがけないもので、それでいてとても好感が持てる。流石紳士だ。
フォルネウスはそれから、私の意識が遠のくまで頭を撫で続けてくれた。
だがその後、私の意識がほぼないと分かれば、頭を撫でるのを止めた。
それと同じく、寝間着のボタンを取られる音と、興奮した男の声が聞こえたが…………もういい、聞かなかったことにしよう。眠たいんだ。