その三
「なろう小説」の読者は比較的読解力が低いために、現実対応能力が乏しい傾向にあり、安易な願望充足的な作品を好むのではないか、という論のもと短い文章を書いた。
さて、私自身は、一時ネット小説に興味を持ち、先行作品をいくつか読んだが、あまり面白いと思えなかったのでそれ以降、一切ネット小説の類を読んでいない。
健康に気を配り、暴飲暴食を避けるような気持ちで、ネット小説にはあまりかかわらないようにしている。
今後全く読まないつもりもないが、きっかけがなければ積極的に読みにはいかない。そんなスタンスだ。
そう思うに至った思考の流れのひとつを皆さんと共有したいと思っている。
現代の小説は、科学技術やコミュニケーションツールの発展によって情報の移動スピードが速まった結果、文章の長さがどんどんと短くなっていっているらしい。(※11)
(※11)島田雅彦、「小説作法ABC」、新潮選書、2009、p146
「なろう小説」はその流行の先端を行っていると言っていいだろう。
「なろう小説」には時代劇のようにお決まりの展開が数多くある。
作者と読者は出発点と目的地をほとんど共有しているので、文章が非常に簡素であっても読者を獲得できる。
その非常に簡素な文体の上に簡素な構造の物語を載せているわけである。
私は彼らの間で共有されているものを見るにつけて、作者やそれを読む読者への相互不信が透けて見える。
「どうせ読者は主人公がヨイショされなきゃ読まない」
「どうせ難しい文章は読まれないのだから一生懸命書いても仕方ない」
「ストーリーを少しでも難解にすると読まれない」
読者側は読者側で
「いつも同じような展開。キャラの設定もどこかで見たようなもの。でもだから、作者の創作能力なさに安心できて、作品に浸ることができる」
という欲望がどうも透けて見えてしまう。
まるでお互いに依存しあう共依存の関係だ。無意識的に憎み合っているとすら感じる。先に述べたように「なろう小説」には負け組小説の一面もある。負け犬たちが傷をなめ合うと同時に、その傷をなめ合うためだけに傷口を広げているようにも見える。
少なくともはた目からみてこんな不健康な関係からはいち早く抜けたほうがよい。
もし、仕事や家庭に悩みがあって、それを解消するためにドラッグや酒におぼれる人がいたら全力で止めるだろう。
「なろう小説」に関しては、被害の程度は違っても精神の被害は免れないのではないだろうか。
本当の意味での小説家になりたい人が、このような共依存的な環境を求めるだろうか? それになったとしても読者には見下される。
読者としても、本当の快楽を求めるときに、その提供側が意識的、無意識的に読者を見下している環境で自分が読書をしたいだろうか?
(全員が全員見下している、といっているわけではない、念のため。)
人間はひとり一人違うものである。社会は複雑なものである。思想家の西部邁は「複雑なものを見るには、こちら側も複雑な思考をしなくてはいけない」と言った。
皆さんはこれを聞いてどう思われるだろうか。
所詮エンタメにはそのような難しいことはいらないとお考えだろうか。
そんな簡単にあなたの退屈や鬱屈した気持ちは晴らされるものなのだろうか。
私は複雑な問題をより簡単に解決しようとして、泥沼にはまっているようにしか思えない。
それが、「なろう小説」の文章や作品の構造に現れているように感じる。
当然、言論の弾圧のようなものは望まない。多種多様な作品が存在できることは大切だ。
それでも、あまり好ましくない性質を備えた作品が自然と壊死していくような環境が望ましいとも思う。
もしかしたら、上で指摘した構造はほかの作品にも当てはまることがあるかもしれない。そもそも、現実にうまく対応できないから、創造の世界に逃げ込む側面があるだろう。
しかし、「なろう小説」で顕著であることは否定できないように思う。