その一
引用に当たって、翻訳本であっても、原著をいちいち記さなかった。またKindle版についてはそのことを記し、ページはPC版で表示されるページ数に付近、と記載した。
三部で完結。
「なろう小説」の読者は比較的読解力が低いために、現実対応能力が乏しい傾向にあり、安易な願望充足的な作品を好むのではないか、という論のもと短い文章を書いた。
「なろう小説」を読んでいる人はバカだといいたいのか――。
そんな言葉が飛んできそうであるが、そんな気持ちはない。
言語をうまく操れなくても、立派な人は世の中にはいる。
だがもし、現実に耐えかねて小説に逃避するなら、それはやめろ、そんな気持ちを込めて短い文章を書いた。
読解力を伸ばしたいなら、苦手な文章を苦労して読むことである。(※1)
現実にうまく対処したいなら、地道に現実と対話を重ねることである。
逃避することはなんの役にも立たない。
(※1)『産業能率大学総合研究所』、『【新井紀子氏 特別インタビュー】~AIの進化とともに生きる~いまこそ求められる「正しく読む技術」』、2021年11月21日、最終アクセス2022年3月06日、https://www.hj.sanno.ac.jp/cp/feature/202111/12-01.html
「なろう小説」を好んで読む人の読解力が低いというデータはない。あくまで仮説である。
「なろう小説」についてここで殊更説明する必要もないだろう。
「小説家になろう」で人気を博しており、一定のパターンや文体の共通性をもつ小説群、とでも了解していただきたい。
もし「なろう小説」が、いわゆる普通の小説だと思って読んでいて、自分が「小説を読むことを趣味とする、文学趣味のある人間である」と考えているならば、それはちょっと待ってほしい。
「なろう小説」はよくも悪くも「フツーの小説」とはまったく別物である。
以下、その比較のために手元にある、広く世で読まれている小説の冒頭を引用してみる。(最初の三つは児童文学の域だ。心してかかってくれ)
『それほど昔のことではない。その名は思い出せないが、スペインはラ・マンチャ地方のある村に、槍や古びた盾を部屋に飾り、痩せ馬と足の速い猟犬をそろえた、型通りの紳士が住んでいた。家には四十を過ぎた家政婦と、まだ二十歳前の姪、それに畑仕事や使い走りをするだけでなく、痩せ馬に鞍もつければ、植木の刈りこみもする若者がいた。そして、われらの主人公となる紳士は、やがて五十歳になろうとしていた。骨組はがっしりとしていたものの、やせて、頬のこけた彼は、たいへんな早起きで、狩りが大好きであった。名まえはキハーダ、あるいはケサーダであったといわれているが、この点にかんするさまざまな意見をまとめてみると、どうやらケハーナと呼ばれていた、というのが本当のところらしい。
ところで、知っておいてもらいたいのは、この紳士が、ひまさえあれば(もっとも、一年じゅうたいていひまだったが)、われを忘れて、むさぼるように騎士道物語を読みふけったあげく、ついには狩りに出かけることはおろか、家や畑を管理することもすっかり忘れてしまった、ということである。そして、読書が病みつきになった紳士は、こともあろうに、読みたい騎士道物語を買うために、広大な畑地を売りはらってしまった。』(※2)
『むかし、むかし、人間がまだいまとはまるっきりちがうことばではなしていたころにも、あたたかな国々にはもうすでに、立派な大都市がありました。そこには王様や皇帝の宮殿がそびえたち、ひろびろとした大通りや、狭い裏通りや、ごちゃごちゃした路地があり、小金や大理石の神々の像のある壮麗な寺院が立ち、世界じゅうの品ものがあきなわれるにぎやかな市がひらかれ、人々が集まってはおしゃべりし、演説をぶち、話に耳をかたむける、うつくしい広場がありました。とりわけ大きな劇場もそういうところにはあったのです。
劇場のようすは、いまの屋外競技場ににていました。ただ、どこからどこまで石材をつんでつくってあるというてんだけが、ちがいます。観客席は、すりばち型に、上にゆくほどひろがりながら重なっている石段です。建物ぜんたいを上から見ると、まんまるなものもあり、楕円形のものも、半円形のものもありました。こういう劇場は、円形劇場とよばれていました。』(※3)
『最初におことわりしておきますが、マーレイは死んでいました。そのことに、疑いの余地はありません。マーレイを埋葬したことを証明する記録簿には、牧師さんと教会書記と葬儀屋と会葬者代表とのサインが、きちんとそろっていました。会葬者代表としてサインしたのは、スクルージでした。そしてスクルージといえば、ロンドンの王立取引所でもよく知られた名前で、およそスクルージが署名したとあれば、その信用は絶大でした。つまり、マーレイ氏が死んだことは、ドアに打った飾り釘が死んでいるのと同じくらい、たしかなことだったのです。
もっとも、まちがいなく死んでいるものの見本に、どうしてドアの飾り釘なんかを持ち出すのかと聞かれたって、私にもそんなことはわかりゃしません。私だったら、金物のうちで一番死んでいるものは何かと聞かれたら、棺桶の釘だと答えるでしょう。』(※4)
『七月初めの酷暑のころのある日の夕暮れ近く、一人の青年が、小部屋を借りているS横町のある建物の門をふらりと出て、思いまようらしく、のろのろと、K橋のほうへ歩き出した。
彼は運よく階段のところでおかみに会わずにすんだ。彼の小部屋は高い五階建ての建物の屋根裏にあって、部屋というよりは、納戸に近かった。賄いと女中つきでこの小部屋を彼に貸していたおかみの部屋は、一階下にあって、彼の小部屋とははなれていたが、外へ出ようと思えば、たいていは階段に向い開けはなしになっているおかみの台所の前を、どうしても通らなければならなかった。そして青年はその台所の前を通るたびに、なんとなく重苦しい気おくれを感じて、そんな自分の気持ちが恥ずかしくなり、顔をしかめるのだった。借りがたまっていて、おかみに会うのが怖かったのである。
しかし、彼はそんなに臆病で、いじけていたわけではなく、むしろその反対といっていいほどだった。ところが、あるときから、彼はヒポコンデリーに似た苛立たしい不安な気持ちになやまされるようになった。』(※5)
(※2)セルバンテス,牛島信明(訳編)、ドン・キホーテ、岩波少年文庫、2000、p11 抄訳版からの引用である。
(※3)ミヒャエル・エンデ, 大島かおり(訳), 「モモ」、岩波少年文庫、2005、p11
(※4)ディケンズ、脇明子(訳)、「クリスマス・キャロル」、岩波少年文庫、2001、p7
(※5)ドストエフスキー、工藤精一郎(訳)、「罪と罰(上)」、新潮文庫、1982、p5
どれも世界では名作とされているもので、特に上の三つの作品は、出版社によれば対象年齢が小学生から中学生となっている。
読んでみていかがだっただろうか。読みづらかっただろうか。すらすらと読むことができただろうか。
この文章を読んでなにを考えただろうか。難解だったろうか。それとも簡単だったろうか。
もしくは何かを試されていると感じて、イライラして、このページから去ることを決意しただろうか。
このサイトの小説群(特に最近のもの)と比べてどうだろうか?
上記の作品たちが多くの「なろう小説」より難しく書かれていることに多くの方が同意してくれるのではないかと思う。
私はこう思う。
果たして「なろう小説」は本当に「いい作品」なのだろうか?
もちろん感じ方は人それぞれである。何を読んだって書いたっていい。
冒頭の比較だけで作品の価値が決まりはしない。
一方で、世間には「なろう小説」批判というものがある。(私もそのくくりに入るのだろう)
その擁護のためにいわゆる「みんな違ってみんないい」の論理を持ち出すことは妥当なのだろうか?
もし少しでも疑問を抱いたなら、ご自身で考えてみてほしい。
あなたもこのページを訪れる前にこんな言説を見たことはないだろうか?
「なろう小説」は充足願望のための小説だ、というものだ。
別に充足願望自体が悪いものではない。多くの他ジャンルの小説において、現実では満たされなかった願望が、空想で叶う作品を描いている。
それでもここで私が「なろう小説」の質を問題にしたいのは、「なろう小説」内での問題の解決方法が、安易で幼稚で、即物的だと感じるからである。
あなたには現実で満たされないものが何かあるのだろう。それはみんなも同じである。
そんな現実から逃避するために「なろう小説」を読んでスカッとしているのかもしれない。
でも、安易な解決方法に頼って、もっと悲惨な結末を迎えることは世の中にたくさんある。
心の問題も、それと変わりない。本当の問題から目を背けるためだけに質の低いエンタメに頼っていては、いずれどこかでだめになる。
現在の日本社会を思い返してほしい。少子化問題や社会保障問題について結局目を背け続け、抜本的な改革を経ずに今日まで来てしまった。
個人についても同様だ。世の中には書ききれないほどの問題があり、もはや解決不能だと思われるものも多くあるだろう。
しかし、そこで安易な道に逃げてはいけないのである。ただ、それは状況を悪化させるだけだからだ。病気から目をそらしても、日に日に体はむしばまれていく。
冒頭、長々と引用したのには訳がある。読解力の話がしたかったからだ。
最初にも書いたが、私は、「なろう小説」に夢中になる人々(および書き手側)には、どこかで現実に対する虚無の感情に加え、読解力の水準の低さ、がみられるのではないかと考えている。
読解力のなさというのは、現実での成功を妨げ、そうした中で鬱屈した人々の一部が「なろう小説」に向かう。それほどおかしな仮説だろうか?
もちろんそうでない方もいるだろう。自信が望む成功と、現実とのギャップももしかしたら、「なろう小説」に人々を向かわせる大きな原因かもしれない。
いちいち書かないが、読解力がなくても現実に成功したうえで「なろう小説」が好きな方もいれば、読解力があって「なろう小説」が好きな人もいる。成功、読解力、「なろう小説」好きのパターンもあるだろう。
ただ、それは少数派ではないのか、というのが私の意見だ。
もし仮に現実で成功していれば、創作の中に逃避する必要もない。
もし仮に読解力があれば、もう少しマシな(せめて児童文学に見劣りしない程度の)文章を書き、楽しむのではないか。
(これに対してなにか統計があるわけではない。しかし、冒頭でも示した通り、少し考えれば、教育の行き届いた現代において児童向け文学より平易で安直な作品が長い期間、青年や大人の間で人気を博するという事態は、なにかあるのでは? と仮説を立てるのに十分だろう)