1. 大ピンチは突然に
チリンチリンとドアにつけられた小さなベルが鳴る。それと一緒に冷たい空気がすっと外に流れてきて、汗だらけの体を包み込む。溶けるんじゃないかと思うような暑さの中をこの喫茶店まで歩いて来たから、本当にありがたい。僕はしばらくドアの近くで動かずに涼んだ。
向かいのケーキ屋さんでは小学生くらいの女の子がいちごのショートケーキを指さしている。その様子が小さい頃の妹に重なってちょっと面白くなる。まああいつは今でも事あるごとに「ケーキ作りたい!」とか言ってはしゃいでいるけど。今頃は、我が家で年に四回あるケーキ作りの絶好の機会を楽しんでいることだろう。「チョコレート好きだよね?」と昨日の晩に僕に聞いてきたから、おそらく今年はショコラ系かな。そんなことを考えていたら向こうから見慣れた女の子が歩いてきた。
「早かったね、聡」
そう言って近づいてきたのは僕と同じ大沼西高校の文芸部部長で、おまけにクラスメイトの佐原里乃だった。
「そうか?でも集合は一時半だから、五分前行動で丁度いいんじゃない?」
僕がそう言うと、里乃は不思議そうな顔で
「えっ、二時に集合ってメールに書いたと思うんだけど」
と言いながら携帯を取り出した。僕も慌てて自分の携帯を出して確認する。でも受信ボックスには里乃からの集合メールは入っていなかった。
「やっぱりないよ」
「おかしいなぁ。ちゃんと聡にも送ったはずなんだけどな。ほら」
そう言いながら里乃は僕に目の前に携帯の画面を示した。
“明日の会議は二時集合。場所は伯父さんがやってる喫茶メイプル”
短くて簡潔な、というか素気のない文面が書いてあって、確かに僕の名前が水木聡とフルネームで宛先欄に表示されている。
「もしかしてあたしが送ったメール、間違えて削除しちゃったんじゃないの?」
そういえば昨日いらないメールをまとめて削除したよな。その中に交じっていたかもしれない。
「ごめん、消したかも」
「ま、早く来る分には問題ないけどね。あっちに席があるから座って待ってようよ」
里乃は一番奥の席を指差すと、僕を置いてずんずと戻っていく。僕も数歩離れて後を追った。
店内は明るくて、でも落ち着いた雰囲気のお店だった。何でも里乃の伯父がやっている喫茶店らしい。向こうのカウンターで多分伯父さんであろう男の人がコーヒー豆を挽いている。映画とかにでしか見られないようなワンシーンで、僕はちょっと心惹かれた。僕たちは文芸部と図書委員で合同会議をすることになり、その場所を里乃の伯父さんが提供してくれたのだ。そんな訳で幹事役は自然と里乃になった。
店内に流れているのは、有名なアイドルグループの新曲だ。僕はからかってやろうと思って、
「これって『りの』がセンターの曲だよね」
とあえて強調しながら言ってみた。案の定、里乃が膨れる。
「あたしは違うからねっ」
文字通り頬を膨らませてぷいっとそっぽ向く。その横顔を見ながら、うっかり可愛いなと見惚れていたのは内緒だった。
テーブルを二つくっつけて、僕たちのカンファレンススペースが準備されていた。僕はその一番端に座る。丁度里乃の向かい側だ。ここなら里乃の顔がよく見えるし。
「そうそう、折角だから差し入れ持って来たよ」
そう言って里乃は隣の椅子に置いてあった紙袋をテーブルの上に置いた。そして中からケーキでも入っていそうな半透明の大きな袋が出てくる。でも中身はケーキじゃなくて、たくさんのクッキーだった。何枚かを一つの袋に入れたものが、全部で七、八袋。いや数えたら七袋だった。今日の会議にやって来る人数が八人だから本人の里乃を除けば七人で、当たり前と言えば当たり前だ。
「みんなにクッキーをね。あたしが作ったんだから感謝してよ」
彼女は腰に手を当てて、えへんとして見せる。
「飲み物は伯父さんに言ってくれればいいから。おごりだって」
完全に里乃に仕切られているな。いくら伯父さんの喫茶店とはいえここまで威張っていていいものだろうか、と僕の方が心配になってしまう。すると携帯の着信音が聞こえた。
「誰からだろう?」
僕も一応確認するけど、着信は里乃の方だ。
「ちょっと行ってくるね」
彼女は席を立つといったん店の外に出ていった。目の前で電話してくれてもいいのにと僕は思った。別に正式な会議でもないし、第一目の前にいるのは僕だけなのだから。あんまり気にしなくてもいい気がするけど、こういうところで気が利くのが里乃だ。小学校の時から見ているから、何だかんだで十年以上の付き合いになる。ま、喧嘩もしょっちゅうするし、お世辞にもベストな組み合わせじゃない。でも、僕の思っていることを言わなくてもピタリと当ててくる里乃は、僕にとって貴重な相棒だとは思う。
というのが一応、表向きの僕の態度。でも実のところ、僕は里乃をベターどころか最高の女の子だと思っている。ぶっちゃけ大好きなのだ。幼馴染で腐れ縁の女の子にずっと片思いとか、今どき漫画かアニメの中だけだと思ってたのに、自分がなってみると幼馴染というのは大切な存在だと心から思う。でも今のところは片思いだ。あのさばさばした性格の里乃だと、多分気付いてないだろうし、気づいてても「で?」の一言で済まされそうだ。それに最近の里乃を見ていて何となく思うのだが、あいつには別に好きな男子がいるみたいだった。
「それにしても遅いな」
結構電話に時間がかかっているらしい。僕は目の前のクッキーを見る。差し入れだって言うし、とてもおいしそうだし。みんなはまだ来ないけど、一枚くらい頂いてもいいかな。大きな袋の方をのぞき込んで僕はふと目が留まった赤いモールで縛られた袋を選んだ。口の縛っていたモールを外し、中から一枚クッキーを取り出す。
「あれ?」
クッキーは「一枚」というより「一個」と言う方が相応しかった。三角錐型に形作られた結構大きなものが、小袋の中に四つ入っていた。
「これってもしかして、フォーチュンクッキーかな」
流れている音楽はまだあの曲だ。仕込まれているんじゃないかと思うような偶然の一致。僕はちょっと驚き、ちょっと戸惑いながらクッキーの端をかじった。
おいしい!
何の変哲もないただのクッキーかと思っていたのに、甘くて、卵の豊かな香りが口いっぱいに広がっていく。焼き加減も堅すぎないし、サクッという感じがとてもくせになる。ほんのりとした甘さが胸をくすぐられるような感じだった。
「あいつ、こんなにお菓子とか作って上手かったかな」
どちらかというと小学校の調理実習で、炒め物のフライパンに揚げ物並みの油を注ぎ入れたときの驚きの方が強烈だったからなあ。いつの間にこんな器用になったんだろう。こんなに長い付き合いでもまだまだ知らないことがあるのだろう。
僕は何気なく残りのクッキーの小袋を見た。こんなに美味しいクッキーを食べられるなら、他のメンバーも大喜びのはずだ。そう思いながら袋を眺めていた僕は、ふとあることに気づいた。
途端、血の気が引く。