海栗みたいな貴方と私
ベッドのスプリングが奏でる規則的な律動に身を任せていれば、私はいつだって『無』になれた。
それは場合によっては揺れる私の髪であったり、真っ白なシーツであったり、何なら相手の呼吸であっても良い。
とにかくきっかけさえ見つけることが出来れば、あとは身体を抜け出して、どこか遠くの静かな場所でこの時が終わるのを待つだけ。
それは私がこれまで生きてきた中で獲得した能力の一つだった。
私が穢れないように、傷つかないように。
それなのに。
耳に残るあの人の言葉がノイズとなって、私は私の中から抜け出せずにいる。
軋むベッドも今日はただ耳障りで、顔にかかる湿った吐息、擦れ合い混ざる汗それと異物感、全てがリアルに伝わり、私をどこへも逃がしてはくれない。
自らを苦しめる筈のあの言葉だけが唯一の救いのようで、私はそんな矛盾のなかで何度も思い出す。
アオイと名乗ったあの男。彼の事を。
次はいつ、会えるのかしら。
*
全ては偶然いや、運命なんだと思う。
初めて訪れたこの土地で、僕は持ち前の方向感覚によってすっかり迷子となってしまった。
歩く程に街の景色はその粗雑さだけを残して人気を失っていき、やがて淀んだ空気が辺りを包み込んでいた。
淀みの正体が明らかとなったと同時、僕は今とんでもなく場違いな所にいる事を理解した。
かつては禁じられ、それでも長く続く歴史が廃れることを拒んだ街。
そこは欲に塗れていた。
表向きは何の変哲もない、――と言っても、簡素過ぎる街並みは日本から来た僕にとっては衝撃だったが――人々が普通に暮らす、普通の街だ。
しかしそこの誰もが独特の輝きを目に宿し、僕を見つめている。あるいは僕ではなく、他の誰かを。
そしてその輝きはただ僕へ向けられているのではなく、彼らが持つ様々な欲望をこそ照らしていた。
それは『生きる』という一つの欲望に収束される。
安穏と人生を歩んできた脆弱な僕へ、欲望の光が一斉にぶつけられていた。
底知れぬ恐怖から逃げるように、僕は走り出した。
しかし街の淀みは濃くなっていくばかりで、疲労と不安が限界に達した僕はその場に立ち尽くしてしまう。
自分が方向音痴だと分かっていながら、なぜホテルで昼寝をせずに外へ出ようなどと考えてしまったのだろう。
後悔など何の役にも立たない現状が僕をより絶望させ、助けを求めるように視線を彷徨わせた。
その時だった。
もう一つの視線がぶつかった。
一軒の宿の戸口に立つその女性は何も言わず、ただ僕を見ていたのだ。
なぜか僕もしばらく彼女の事を見つめていた。目を逸らすことが出来なかった。
それは彼女が美しかったから。この街の人間が放つ光に加えて、悲しみや諦め、または希望や期待が複雑に入り乱れて輝く彼女の瞳はとてつもなく美しかった。
まるでその人こそがこの街では場違いであると、そう思わずにはいられなかった。
抜け殻のようになった僕へ、女性はふと微笑んだような気がした。
「どうするの?」
古より神に仕える巫女は、そう囁いた。
僕は足を踏み出す。
彼女はもう笑ってはいなかった。
*
「君はウニのような女性だ」
何度目だったかしら、アオイが私のところへやって来た時、そう言った。
ウニって、刺々していて、海の中にいるあれよね。
小さなときに踏んづけてしまって、それは大泣きしたものだ。
だからウニは嫌い。存在自体が攻撃的で、触れただけで怪我をしてしまう。
しかしアオイはどうして私をウニのようだと言ったのだろう。
今日はそんなに髪が乱れていたかしら。
「あぁ……」
アオイの思いつめたような表情を見て、私は理解する。
「根は優しいって、そう言いたいの」
一人の時に、頑張って考えたのね。
口説き文句には続きがあったようだが、私がそう言ったことで彼の用意したシナリオは崩れてしまった。
物置きのように狭い部屋にはベッドだけが置かれていて、そこで私達は妙な居心地の悪さと静けさの中に身を沈める。
アオイにかけるべき言葉を、私は懸命に探した。
「ここのウニって、あなたが思っているより美味しくないのよ」
彼はゆっくりとこちらを向き、瞳を揺らした。
そういう人だった。
何か返事をするにも考え込み、言葉を選ぶ。
私に似ていた。
だからしばらくそうして見つめ合い、彼が何か言うまで私は待った。
やがてその口が微かに開かれる。
「そうなんだ」
ぎこちなく笑うアオイが嘘をついていることは分かっていた。
だって彼は学生で、海の生き物にも詳しいからだ。
ここのウニが美味しくないのだって、知っていたに決まっている。
私を気遣ってそう言ったのだろう。
「貴方の国のウニは、きっと美味しいのでしょうね」
「美味しいコンブをたくさん食べて育つからね」
ほら。やっぱり。
得意なことになると言葉を選ぶことも忘れて、子供のように目を輝かせて。
貴方は本当にそっくりなのね。まだ自分の気持ちに正直でいられたあの頃の私に、とても。
「だからここで育った私は、たとえ棘を取り除いたとしても実はそんなに大した中身を持っていないの」
「そんなの違うよ。そんな……」
アオイはまた考え込んでしまった。
彼にしては薄っぺらな同情で、なんだか少しだけ心が冷えた。
それに分からなかった。
アオイはどうして私の元へやって来て、いつもこんな風に会話だけをして帰っていくのか。
ただ欲望を吐き出していくだけの彼らとは、明らかに違う。
この人は頭が良いから、こうすることでもっと大きな利益を期待しているのかもしれない。
「今度」
彼が呟いた。
「今度、君が育った海を僕に見せて欲しい」
アオイは口を堅く結び、力強い瞳で私を見つめた。
彼の目が放つ光はとうに私が捨て去り、再び拾い上げることを拒絶し続けて来た筈のものだった。
しかし何故こうまですんなりと入り込んできて、何かに重なり、乱すの。
私は貴方が恐い。
その日もアオイは私に触れることは無かった。
*
さっきまでの蒼と浮かぶ白、打ち寄せる水色の全てが、今では橙色に染まっている。
静かな浜辺で僕と彼女は、日が暮れるまで木陰の中で過ごした。
何をするでもなく、何を話すでもなく、ただ二人でそこにいた。
もちろんお互い全くの無言であったという訳ではない。
僕がなにか呟けば彼女は一言だけ返し、僕も同じように彼女の言葉に応えた。
でも、どれも些細なことで、頭に残らない程どうでもいい話ばかりだ。
僕にとっては、彼女とこの海にいるということが重要なのだった。
同じ色を見て、同じ風を感じて、同じ波音を聞いていた。
それが、重要なのだ。
二人が抱える悩みや痛みなんて関係なく、一緒でいること。同じ場所で生きていること。そのことが。
しかしもうじき夜だ。帰らなくてはいけない。
――もし本当に彼女も僕と同じなら。
胸によぎり、ずっと心に決めていた言葉を彼女に伝えるべく、僕はさり気なく姿勢を直した。
僕の緊張はちゃんと伝わってしまったようで、彼女はやはり何も言わずにこちらに視線を向ける。
伝わっているのは、緊張だけではない。
彼女の物憂げな表情の中で、それと反して淡い光が強さを増したのを感じ、僕は迷いを捨てた。
「僕の故郷は、ここよりもずっと寒い所なんだ」
「……そう」
無感情に振舞うほど、彼女の瞳は温度を持っていき、波のように煌めく。
僕はその輝きに、素晴らしく潤沢な心を見た。
「海もここより冷たくて、海藻なんかも健やかに育つ」
「ウニも、美味しいのね」
「そうだね」
僕は考える。
ここから先を言ってしまっても良いのだろうか。
もう一度、彼女をしっかりと見つめる。
伝わっているのだ。
あとは言葉にすればいい。
僕は初めて彼女の手に触れ、そして告げる。
「今度は僕の育った海を一緒に見て欲しい。そこなら君は、君らしく生きられると思う」
僕の手へ、彼女の手が重ねられた。
それが答え。間違いはなかった。
なのに。
不意に、彼女の目から光が失われ、手が離れた。
触れたはずの心は突然に消え去り、僕の手の届かないどこか遠くへと行ってしまったのだ。
潮風に髪を揺らす彼女は、もはや中身を持たない完全な『無』と化していた。
やがて機械的な動きで開かれた口が声を発する。
「私の家族はどうなるのよ」
鋭い棘が、僕を突き刺した。
*
私の中に加わった大きな力を最後にスプリングの軋みが止まり、現実へと乱暴に引き戻される。
伝わる微弱な震え、圧し掛かって来る重みと耳元で聞かされる呼吸音に寒気が襲う。
急いで天井の模様に集中するも、私はもうどこへも行くことが出来なくなっていた。
視界が滲み、流れた。
「ごめんよ、痛かったんだね」
偽りの優しさが、それを拭った。
「そうじゃないの」
私は貴方を拒んだのではないのよ。
どうすることも出来ない不安を打ち明けて、たとえ誰かを犠牲にするとしても、それでも私を連れ去ってくれたなら。
貴方がそうしてくれるのなら、私は他のどんなことも忘れられるのに。
でも私を覆う棘はあまりに鋭すぎて、貴方を深く傷付けてしまった。
痛みを受けた貴方はまた、堅く口を閉ざす。
その優しさが私を苦しめるとも知らずに。
――そうか。
やっぱり私達は似ている。
どうしても傷付け合ってしまうのね。
貴方の育った海なら、もしかしたら私も上手くやっていけるのかしら。
今度あの人が来たら、素直に伝えよう。
次はいつ会えるの?