五話:主はいませり
茅葺の屋根からその女が飛ぶ。地面にひらりと着地し、その切れ目の鋭い眼光を男にぶつけた。長い赤い髪がさらりと舞う。女は腰に付けた鞘から仰々しい片手剣を一つ抜き、男へと突き付けながら、
「名乗らせてもらうわ。私は銀等級冒険者アンリ・バルザック。近頃付近の村が荒らされてると聞いて、いろいろと調査の依頼を受けたのよ。・・・・・・でもまさか、あなたみたいな人間もどきの仕業だったなんて」
告げた。
男は依然何の感慨も示さない。そればかりか肥溜めでも見るような目で女を一瞥すると、淡々と返した。
「失せろ冒険者。お前に与える席はない」
ぎりっ、という音が男の耳に届いた。それは冒険者が歯噛みした音だった。何らかの感情が激昂した音だった。
冒険者が剣を構えた。足を開き、今にもとびかかれるぞとでも言いたげに、気配を鋭く、危険なものへと昇華させる。
「警告よ。おとなしくつかまりなさい。さもなければここで殺さなければならない。・・・・・・あなたはしかるべき罪を背負うべきよ」
ため息をついた男は、冒険者に向き直った。
「なぁ冒険者。 お前は神を信じるか?」
唐突な呼びかけに対し、冒険者はたじろいだ。粗末な道を一歩靴で擦る音が響く。
「神様は、いるわよ。現に私は司祭様にいただいた魔法を使うことができるもの」
ほう、と男の口から嘆息が漏れ出た。裂かれんばかりに、男の口の端は上がった。
――――月は雲に隠れた。影があたりを覆いつくす。明かりはない。人魂のように光る男の瞳だけがどこかを眺めている。そして暗夜が覗くのは二人。魔王と、冒険者だ。
異様な緊張感が冒険者の胸中を襲った。目の前の人物の笑った顔が、どうにもこの世界に存在してよい類のものではないと本能が警笛を鳴らしていた。
先に動き出したのは冒険者だ。道の一部がはがれるほど強烈に地面を蹴り、鳥が急速な滑空をするように一瞬で魔王へとたどり着く。振り上げたのは剣だ。どこに飾れども色劣りしない宝剣の類だと一目でわかる逸品。さてそれは女の体から発せられるにはあまりにも力強く振り下ろされた。めがけるは角の生えた男の頭蓋。冒険者の頭脳では、一瞬先、男の体は真っ二つに切り裂かれる―――――――
――――はずだった。しかし剣は届かなかったのだ。どこまでも全力に、全身全霊に、振り下ろしたはずだった。勝利の凱歌がなるはずだった。しかし――――剣はどこからか現れた男の片手につままれ、時を忘れたように動かなくなる。
冒険者の腕にしびれが走った。まるで鋼鉄にでも切りいれたかのように、手、腕、肩、それらすべての感覚が、叫びをあげた。
こんなことがあるはずがなかった。いや、あるはずがないと信じたかった。冒険者は、速度をなくし落ちていく我が身に意識を向けながらそう考えた。
策を、策を、はやく策を――――冒険者は地面に着く直前、考えもなく本能で次の選択を絞った。
結論は剣から手を離すことだった。行動は頭がそれを理解するよりも前に行われていた。続いて冒険者が取ったのは、魔法という選択肢だった。
冒険者の片足が地面についた。緊張が体を膜のように覆った。もう片足が地面についた。死という概念が迫り来ているような錯覚に襲われた。
しかし止まりはしない。冒険者は魔法を発動させる。
魔法は聖職者が与える、神の御業の一部だ。その威力は剣での斬撃とは比べ物にならないほどに大きい。ゆえに使いどころを間違えば周りに危害が及ぶ可能性がある。
「―――――――――ッ!」
だが冒険者は顧みなかった。何よりも何よりも目の前の男が恐怖を練り上げたような存在であったからだ。冒険者は息をのみこんだ。今ならわかる、この男は死神だ。そう心がつぶやくのが聞こえた。
上に向けた手のひらから出たのは、爆裂する炎であった。使用者に危害を加えない特殊な炎。それが大きくなり、二人の間に生まれ出る。竜の乱舞のような紅が二人と周囲を飲み込み、やがて爆炎は魔王の喉元に到達する。殺す、という明確な意思を持った炎が魔王を一瞬にして取り巻いた。
冒険者は地面を蹴り離れた。
「はぁ、はぁ・・・・・・これでどう・・・・・・・」
冒険者の目の前に何かが落ちた。見るとそれは男のローブの切れ端であった。ちりちりと燃えゆくその布を、冒険者は涙を浮かべながら見下ろした。
炎は役目を終え、雲散していく。安心しきった冒険者はそれからゆっくり背を向けた。こんな場所からはすぐさま退散してしまいたい。そのことだけが彼女の頭を支配していた。
――――だが、安心するにはまだ足りなかった。彼女の努力が、彼女の心が、彼女の強さが、彼女の生が。
「これが神の力だと・・・・・・。百年前現れた勇者とやらがそう豪語するならまだしも、これが、こんなものが神の力? 笑わせるな。笑わせるな。不快だ。消えうせろ」
冒険者の背から聞こえた言葉は、冒険者の全身から力を抜かせた。先ほどまでは露ほども感じなかった殺意を、今になって背後に感じた。それは圧倒的で、絶望的で、どうしようもなく冒険者を諦めさせた。