四話:開演である、王に道を開けよ
悪魔と天使の彫られた両開きの扉が閉じられてから、幾何かの時間が過ぎ去った。あたりは夜に静まり返り、美しい月光が世界を照らしだす。男はそれを仰ぎ見、口角をほんの少し上げた。
「開演の時間だ」
誰に向けた言葉ではない。しかし男の背後より、答える者が一人。
「主様、私はどのように」
「お前も好きに楽しむといい。今だけは余の従僕であることを忘れろ。好きだろう? 血の味は」
「・・・・・・御意に」
蝋燭の火が吹き消されたときのように、ふっと背後の気配が消え去った。あとに残るのは一人の時間と、今宵ひとときの一幕。
周囲は森であった。月の光を怖がり、孤独と闇とを孕んだ木々たち。影の中踊りあかす虫たちの合間、男は漆黒より現れた。周囲を凍り付かせるような深淵をその身に宿した、恐ろしきその容貌は今、暗黒の瘴気を大地に流していた。
間違いなく、今男は嬉々としていた。
その視線の先には村があった。畑と、数個の茅葺屋根の家々が見渡せる。ひっそりと揺れる明かりはおそらく、中にいる人間が灯すものだ。
「それが最後の火だ。せいぜい風情を楽しむといい。常世の慰めものとしては上等であろうよ」
男は一歩踏み出した。背の高い草がしゃりしゃりと音を立てる。男の来たローブとこすれあい、衣擦れの独特な音が響いた。
干し草のにおいが鼻をついた。家畜の糞尿のにおいが鼻をついた。どこからか漂う料理のにおいが鼻をついた。
そのたびに男は心を躍らせた。命だ。命だ。命だ。男の内より悲痛なほどの叫びが沸き起こる。だれから、どこから、いつ、今か、何人、ああ、面白い。
「愉快だなぁ。愉快でないはずがない」
一秒先、十秒先の未来を予想するのが楽しいのは、こういった宴の時だけだ。
草むらを抜け、村に通された粗末な道を通り、男はやがて一つの家に着く。村で一番大きな家であった。
「始めよう。願わくば神よ、その限りのない愛をもって彼らを救いたまえ」
男は家の、木造の簡素な戸に手を伸ばした。ざらざらとささくれだった、粗末なものだった。
指先に力を加えると、その戸は一瞬にしてひび割れ、音を立てて砕け散る。破片が男の顔の横を通り抜けた。
中には慌てた様子の人間が二人いた。一人は老婆、もうひとりは年端もゆかぬ少女であった。
老婆が入り口に立つ異様な者に身を震わせ腰を抜かす。そばにあったテーブルに体をぶつけ、椅子もろとも転がるように床に崩れ落ちた。
対する少女はこちらをまっすぐな瞳で覗く。口をあけたまま、身動きもせずにただその場に立っていた。
男は中にあしを踏み入れた。みしり、という音が鳴った。
「人間、お前たちは今死ぬ。まずはそう、お前だ」
そういうと、床で足をじたばたとさせながら男から少しでも遠ざかろうとしている老婆を、指さした。
「な、なんじゃ・・・! この村にゃなんもありませんです・・・! どおか殺さねぇでくんろ・・・!」
得体のしれない者への恐怖、絶対の力を有する者への、本能からの危機感知。それが老婆を後ずさらせる。幼い少女など老婆の目に入っていなかった。瞳が映し出すのは、ただ目の前にある死のみ。そしてそれは待たせはしなかった。
男が老婆の方に手を向けながら、何かを握りしめるしぐさを取った。
――――その瞬間、老婆から絞められた鳥のような声が漏れ出た。それは終の叫びであり、別の世への凱旋曲であった。
小さな悲鳴を上げて老婆を見る少女は、足を滑らせしりもちをつく。その目じりからぽたぽたと声なきしずくが落ちていった。
口元から泡を吹きだした老婆はどこかしこを手で何度もたたき、床にへこみができるほどに足をじたばたと動かした後、わずかな痙攣を残し息絶える。
男はその姿に笑みを見せた。
「滑稽よ。実に醜い。神は助けてはくれなかったのだなぁ」
男は次に少女に目を向けた。目が合うと、少女は首を小刻みに横に振った。引き攣りのように何度も、何度も、生きていないかのように顔面を白く染め上げながら、何度も何度も首を振り、後ずさり。
男は手に、どこからか取り出した杭を持った。純銀で出来た、蛇を模した杭。
もはや動けなくなった少女の前にそれは投げられた。金属独特の硬質な音が部屋の中に生まれ出た。
男は無表情に少女を見下ろした。
「慈悲をやろう。それは苦しみ無く死を迎えることのできる魔法の道具だ。それを自分の心臓に打て。わかるだろう? 心臓だ。命の源だ。お前に一つしかないものだ」
少女は床に落ちた自らの死を見下ろした。手を伸ばしはしない。許しを請うように男を覗き見、哀願の涙を頬へと伝えさせる。
しかし男は動かない。恐怖という名の絶望が具現したかのような、そんな狂った笑みを男は浮かべていた。
「さあ、どうする。あと三秒だ。二、一・・・・・・ああ、時間だなぁ」
その言葉を皮切りに、少女は我を忘れて男の横を這って進んだ。涙でぐちゃぐちゃになった顔で、希望の入口へと少しずつ進んでいく。もはや少女は歩くことすらできなかったのだ。ただ一つ、まだ言うことを聴くのは自身の腕だけであったのだ。
しかし男はそれをつまらなそうに見下げた。落ちた杭を拾い上げ、それをそのまま少女の背に投げた。刺された背は赤黒くにじんでいく染みは広がり、少女の服を染めていく。
とたん、少女は狼の遠吠えのように叫んだ。割れんばかりの金切り声が、月夜の下で破裂した。
男は歯を見せ口角を上げた。
「いや惜しい。その苦しみをお前自身で生み出させたかった」
杭は苦しみなど消さなかった。痛みなど消すはずもなかった。ただ無限に生み出されるそれら死への階段を、少女は今この瞬間味わっているのだった。
「踊れ踊れ。祈れ祈れ。是非もない、届かせろ。お前の命が燈火となるように!」
そうして少女はしばらくしたのちに動かなくなる。同時に、部屋を薄明るく照らしていた小さな火が、ふっと消えた。
男は少女の亡骸に目もくれず、狂気の充満した空間から虫のように湧き出た。
「まずは、二人」
そう告げた男は、次の家に目をつけた。しかしその時であった――――
「それ、楽しいかしら」
――――男の出てきた家の茅葺屋根の上から、ふと高圧的な女の声が聞こえたのは。