三話:それは神の愛を受けさせるための下準備
赤いカーペットの上を、黒が歩む。死と暗闇に染まった魔王が、影を地面に落とす。物言わぬ美しい調度品の数々が、その男の帰還を待ちわびていた。
城門をくぐった先は静かだった。誰もいないかのごとく、物音の一つもしない。それは主の意志である。出迎えはするな、何てことはない主のその一言のため、この場所は呼吸を止め、鼓動を止め、ただ一つの身動きすらも忘却の彼方へと捨て去ったのだ。
そのことに気づかないわけではないかった。男はしかし、心情に何の変革も起こさせない。些事の一つに過ぎないとばかりに、かつかつとどこまでも進んでいく。
簡素な石畳に、織ったばかりのように柔らかな羊毛のカーペット。壁に掛けられた燭台は金で出来ており、枝分かれした先の蝋燭は、立てたばかりの新品であった。上に目をやると、そこには煤一つ、ひび一つない天井があった。
どこも抜け目なく手入れが行き届いている。廊下の端に等間隔に並べられた壺や絵画といった調度品などは、ほこりなどが一つたりともついていないと、近くで見なくともわかった。
しかしこれも、さして王の機嫌を取るには至らない。これは必要のないことであるからだ。
男は廊下の先、ひとつ大きな扉の前で立ち止まった。金属製の両開きのドアは、右と左で全く違う装飾を彫られている。
右は天使、左は悪魔だ。天使は幾対もの翼を広げた神々しい人間の姿で、悪魔は蝙蝠のような羽と竜のような頭を持った、化け物の姿でそれぞれ佇んでいた。
男は扉をあけ放ち、堂々とした立ち振る舞いで中に入っていく。
中からは、埃のにおいがした。
「お前は部屋の外で待っていろ」
男は唐突にそう告げた。すると男の影がくねり、中からもう一つの影が生まれた。その影は地面を這いまわり、部屋の外へと消えていく。
それを見届けた男は、部屋の中を注意深く見渡した。
「どうやら誰も入ってはいないようだな」
そこは暗い。唯一天井近くにある小さめのステンドグラスから差し込む、大きな管のような光がなければ、この部屋は何も見えはしない。ある一か所を中心とした、ここはそんな円形の部屋であった。
壁には無数の本が、本棚に並べられている。二階には内側に作られたバルコニーが存在し、そこにさらに本棚が配置されている。おいてある本はどれも古文書だ。古い古い、この世のものとはおもえない秘密のかかれた禁書。ここではそんな『扱えないもの』を保管していた。
案の定、物の配置、空気の違い、においの違い、何もかもが以前にここに来た時と変わっていない。
従者は今回も命令を守ったらしい。
男は部屋の中心へと赴いた。
そこにはあるものがあった。
唯一差し込む光が、その場所を明るく照らす。
「王女よ、決断はできたのか?」
照らされていたのはほかでもない、十字架と鎖でつながれた人間であった。数々の装飾が施された、フリルのふんだんに使われたロングドレス。彼女の髪はプラチナブロンドを湛え、日光ですらその髪に溶け込ませる。神々に愛されたとしか言いようのないほど美しい、まるで人形のような顔立ちと、少し赤みを帯びた柔肌は、しかし今はその表情に暗いものを落としていた。
彼女は下に落とした視線をゆっくりと、重たそうに持ち上げた。上げた先に見える絶望の象徴に、体を一瞬こわばらせる。
「・・・・・・わたくしにはわかりません。あなたがなぜわたくしを殺さないのか、あなたがなぜわたくしに生きるための選択肢を与えるのか。それを教えてくれるまで、わたくしは答えを出すことはできません」
精一杯の情熱のこもった視線が、男を刺した。しかし奥底までは至らない。最奥までの到達など不可能であった。
男は興味なさげに鼻で一つ笑い、十字架と人間に背を向けた。
「お前は生きてなどいない。しかし死んでもいない。ゆえに余は与えようというのだ。お前に、一個の命を。醜い血染めはその後で行う予定だ」
「わたくしを今殺してはくれないのですか」
「何もかも置いて捨て去ることのできる真っ当な人間ならば、余は容赦などせずに殺す。だがお前は背負いすぎた。それはもはや人間の生ではない。神が愛を与えるのは人間だけだ。ゆえにお前に命を与えねばならないのだ」
「わたくしは人間です。あなたのような化け物ではありません。人間として生き、人間として死んでいくのです。あなたに与えられる命は人間のそれではありません。悪魔の、化け物の命です」
「それがお前だと、もう何度も言ったはず」
男は歩き出した。――――十秒先で、その部屋から足音はなくなった。