二話:帰還せし彼の王、宴の時はもうすぐであろう
底は暗く、果てしないほどの澱みを見せる海。海面に立つのは、帆をいっぱいに張った船でも、海を守る守護竜でもない。
ただ一人の男が、霧に包まれた水上を、沈みもせずに平然と歩いていた。
宴の終わり。帰路には彼と、彼を見下ろす月しかおらず。
「汝殺すなかれ。これはお前の言葉だろう? どうだ、余が憎くはないか? 降りてきて殺す気にはならないか?」
男の言葉は、しかし波の音と混ざり消えゆく。しかれども、男にとって、それはどうでもいいこと。誰に向かって言ったわけでもないのだ。自身の病的な心がたびたびつぶやかせる、いわば発作のようなものだったからだ。
やがて男の前方を、まるで道が開けてゆくように霧が散っていく。海という果てのない面に、一本の筋が通った。
男は驚きはしない。ただ歩むのみだ。
しばらくすると、彼の眼前には、大きな島が現れた。ハリネズミのような外観を持つ、黒い、比較的小さな島。見渡す限り植生はなく、岩壁と熱を帯びた石があたりに散らばっている。
――――いつからか、この島は呪われた島だった。
魔の海を超え、死をかなぐり捨て、やっとたどり着ける幻の島。そこではこの世のものとは思えない貴重な宝が隠されており、手に入れたものは不老不死となることができる。
だが気を付けろ、その島には死よりも恐ろしい死神がいる。すべての魔を従え、すべてを食らわんとする王が。彼の魔王に魅入られたが最後、永遠の時を苦しみと共に明かすことになるだろう。
――――そう謳われるこの悲しみの島は、しかし男にとっては愛でるべき居城であった。
男は島に一歩足を乗せた。海から来たとは思えない、乾いた足音がかつん、と鳴った。
そうして男が次の足を踏み出す前に、島に変化が起きた。
男の三歩先の地面がきえたのだ。それはもう、四角く、くっきりと消えていた。
消えた地面からは異様な、黒い瘴気があふれ出していた。燃え盛る炎のように、自身の体をくゆらせ、変化させていく。瘴気は、まさに生きていた。
男の靴が、消えた地面を貫いた。すぐ真下にあったのは階段だ。暗い暗い闇を孕んだ奥底が、男を深淵へと誘っていく。
かつんかつんと音が響いた。波の音はもう聞こえない。そこにあるのは漆黒と、見えない狂気の渦だけだ。
男が歩いていると、唐突に声が聞こえた。
「お帰りなさいませ、主様。お出迎えは不要とのことでしたので、このような形での連絡となってしまい申し訳ございません」
清廉な、透き通るような女の声がした。どこにいるわけでもない。どこにいないというわけでもない。ただ声だけが、今の彼女の存在であり、姿かたちなのだ。
男は歩みを止めずに応じた。
「よい。それよりも、次の晩餐の用意はできているんだろうな」
「滞りなく。すべては主様の仰せのままに」
「ならばあの部屋を開けておけ。あれともう一度対談がしたくなった」
「御意に」
会話が終わると、また波の音がかすかに聞こえるようになった。押しては返し、押しては返し。切れのない音は、永遠性の象徴か。不老であり、不死であるのか。
それならば。
「余もまた波か。ならば」
男は一つ強く階段を踏み鳴らした。
いつかは押されるのだろう。いつかは返すのだろう。だがそれはいつのことだ。世界はこんなにも美しく、こんなにも醜い愛に満ち溢れているというのに、神はいつ手を下す。
下せ。一刻も早く、この世を、この余を阿鼻叫喚の嵐と変えてしまえ。地獄をつくるのは悪魔ではない。神だ。
「できないというのならそれもよい。余がかなえよう。余は夜を暴こう。あなたのすべてを」
――――そして男の足は止まった。
一番最後の段を踏み終えた彼を待っていた景色は、美しくきれいなものだった。
とこからか降り注ぐ、日にも似た明るい光がそれらを照らす。
白い石柱の何百と立てられた、石造りの大きな城。何十とある大きな十字窓には、色とりどりの花が並べられ、華美にならない程度の装飾が施されている。正面からは幾重にも見える尖塔が城を囲い、アーチによってそれらが繋がれ一体感を醸し出している。大理石の道は城の桟橋へと続き、道の両端には白い百合の花が咲き乱れていた。
さらに大きな池が、城の周りを囲うような形で作られている。白鳥が餌を食べるためにその水面に降り立ち、幾何かの時を経て飛び去っていく。
男は天を仰ぎ見た。この世のものとは思えないほど透き通った青空がそこには存在していた。
「ここは、余には明るすぎる場所だ」
そうつぶやくと、男の影がゆらゆらと揺らめいた。影はやがて地上に立体的な形を成し、それは一人の少女の姿となった。ロングドレスの裾が揺れる。少女はゆっくりと目を開けた。
そして恭しく一礼をしてから、男に話しかける。
「命令してくだされば、昼を夜に、白を黒に、天上を地上にもいたします」
少女が明るい世界に似合う柔らかな笑みを浮かべる。赤い唇は魅惑的にすら見えた。
「そういう契約だったな」
男はまた歩みだした。
少女は最初と同じく、決まった一礼をしてから、蝋燭の火が消えるように姿を消した。
「変えるつもりはない。永久に」
――――そういったのは、男が城の桟橋に足を踏み入れた時だった。