186 閑話 その錬金術師の頼みを受けし者
領主婦人ネメア視点。
「――ありましたわ。」
ヴァンパイア、吸血鬼――。
生き血を啜る化物であり、死後甦った死者とされる。
古来より、人や家畜に害を成す存在として広く伝承が残るが、最も有名だったのは『西暦』と呼ばれる暦を用いられた時代にまで遡ると言われている。
その当時の人々は、銀製品、十字架、聖水、陽の光に弱いものだと信じ、更には心臓に杭を打ち込む事で、このアンデッドを倒す事が出来ると考えていた。
だが、低位のアンデッドの場合ならばともかく、これは誤りである。
高位のアンデッドであるバンパイアの場合、これらの方法は決して有効ではなく、また、倒す方法も基本的には存在していない。
餓死するまで血の一滴も与えない方法が唯一の討伐方法としてあるが、そもそもとして吸血衝動に駆られた吸血鬼を止める手立ては、人の身では成しえない事である。
むしろ、余計な犠牲が増えるだけであろう。
故に、人間で対抗出来るだけの方法は『基本的には存在しない』とされている――。
「そんな――。」
思わず額に手をやり、ぐらついた頭部を支えます。
何かしら弱点くらいはあるだろうと、そう思って調べに来ましたのに、いきなり頓挫しましたわ。
――非常に困りました。
「本から得られる知識にも、現界はあるという事ですのね。」
そっと、息を吐き出します。
一体、何に救いを求めれば良いのかしら――?
私が嫁いでからというもの、この領地は問題続き。とんだ疫病神にでもなった気分です。
最初は、開拓村での狼人間騒ぎでしたわ。噛まれた住民が、次々に同じ狼人間になって――訪れた者を喰らうようになっていました。表面上は悪漢による支配と搾取が横行したものとして、処罰しましたけれど。
しかし、何とか平穏を取り戻したと思えば、今度はゴブリンとブラッディー・スライム騒ぎ。冒険者組合は勝手に引き上げてしまい、実質我が領は見捨てられました。
あの時――もしもあの時、救世主様がいらっしゃらなければ、この領地は終わっていた事でしょう。
何せ、その後にも進化を遂げたスライムの増殖が、よりによってこの都市の内部で見られたのですから。
それも救って下さった正真正銘の『救世主様』。英雄と言っても差し支えありませんが、御本人がそれを望まれないので、誰もが口にはしませんけれども。
――ですが、流石に今回はもう手が無いでしょう。
あの救世主様ですら、時間を稼ぐのが恐らく精一杯だと、新たに赴任してきた冒険者組合の支部長がそう口にされたのですから。
何より、諦めきったあの瞳が忘れられません。何時もは明るく澄んだ青紫色の瞳でしたのに――最後に見た瞳は、まるで絶望に染まったかのように暗い暗紫色でした。
けれど。
(このままでは駄目――駄目よ。私が諦めたら、民はどうなるのです?救世主様が作ってくれた時間で、何か、何か策だけでも――。)
そう思うのは、私が代理だからというだけの理由ではありません。
私だって、幸せな結婚生活を送りたいのです。
そう、せめて――夫が戻って来て、私を愛してくれるまでの間だけでも、持ち堪えないと。
そう思って再び書物を読み漁っていると、
「――ネメア様!ネメア様!」
慌ただしい足音が響いてきました。
時刻はとっくに夜も老けて遅い時間。美容に気を付けるなら、もうとっくに就寝しておくべき時間でしょう。
しかし、そんな時間は今の私にはありません。
顔を上げてみると――丁度、執事が駆け込んで来るところでした。
「ネメア様――!ああ、良かった、こちらにまだいらっしゃった。」
「どうしたのです、そのように慌てて。」
普段は落ち着いた行動をされる方ですが、なんだか様子が尋常ではありませんわ。
顔は引き攣り、見るからに青褪めています。
そんな私の耳に、遠く、悲鳴のような――そして、怒号と轟音が耳に届いてきて、思わず窓へと視線を向けました。
それに、
「いけません!外を覗いては――!それよりも早くお逃げ下さい!急いで!」
普段の落ち着きが嘘のように、必死に言い募る彼。
いざという時には逃げる準備は常にしておりましたが――まさか、もうですか!?
「――吸血鬼ですか!?」
そう思い尋ねて見ると、
「いいえ、そうではありませんが、早く!」
「――はい?」
執事に否定されて、思わず首を傾げます。
吸血鬼ではないのでしたら、何から逃げれば良いのでしょう?
目を瞬く私でしたが、続く言葉で、目を丸くします。
「吸血鬼よりももっと厄介な相手です!勇者を名乗る者です、ネメア様!それが今、この城を目指して来ていますから、どうかお早くお逃げ下さいませ!」
「な、何故勇者が此処に!?」
青天の霹靂とはまさにこの事。
吸血鬼の対応で頭が一杯でしたのに、更に勇者ですって?
追い打ちも此処まで来ると、努力というものが無駄な気がしてきますわ!
「分かりません!ですが、目につく者を片端から殺して向かってきています!さぁ、お早く!」
「――っ。」
急かす執事の言葉に、唇を噛み締めます。
勇者は災厄を齎す者――。
幼い頃に読んだ物語で、常に悪者として出てくる勇者。
それが、まさかこの地に現れるなんて!
「ドロシー、リリィ、此方へ!」
「「はい!奥様!」」
揃って壁の花になっていた二人を呼び寄せます。
侍女の振りをしてまだ一日だというのに、二人共私の言葉に素直に従ってくれる事の何と有り難い事でしょうか。
すぐに書庫の本棚を操作して、隠し通路を開き、明かりとして置いていた燭台の火をカンテラへと移しました。
この通路は――城からも、この都市からも逃れられる、おそらくは唯一の避難経路です。
長い階段へと二人を誘って、執事へ顔を向けまて手招きました。
「貴方も来るのです――三人が四人に増えても、大差無いでしょう?」
この言葉に、
「いえ、いえ。」
王からの推薦で我が領にずっと務めてくれていた彼は、決意の宿る瞳で真っ直ぐと此方を見ながらも、首を左右へと振ります。
それどころか、彼はこの通路を知らないはずなのに、本棚へと向かって手を伸ばし、本の配置を戻していきました。
「な、何を――。」
狼狽え、そう口にした瞬間、
「先代からの王命でございます――。」
「え。」
思いがけなかった言葉と共に、壁が動いて行きます。
そんな中へ、慌てていた彼とは思えない程に静かな――慈愛さえ伺える笑みを向けられて、思わず固まってしまいました。
何が、どうして――。
「――どうか、生きて錬金術師をお頼り下さいませ。彼の御仁は生きておられるはず。そして、それが我々人が、唯一生存出来る道でございます故。」
「な!?何を、貴方は一体何を、言っているの!?」
「ネメア様。いいえ、私の天使よ。」
閉ざされる寸前に見える、穏やかな表情。
その目尻には涙が薄っすらと浮かび、柔らかな笑みが広がっていって、皺だらけのその顔に――幼い頃に見た顔が重なります。
「――っまさか!?」
皺だらけでも分かる、上品な佇まい。
覇気は無くとも、物腰の柔らかさと常に穏やかであったのが何よりも好きだった方。
「殿、下――?」
「どうか、無事で――。」
呟いた私の眼の前で、隠し扉が閉まってしまいます。
彼は――本来なら、執事なんてしている方ではない。
先王の王弟。
王位継承権を放棄し、しばらく姿を隠されて居られた御方。
幼い頃、城へと登城する際、何度も何度も私と遊んで下さったお優しい御方。
「どうして――。」
今更になって、その正体を明かすのか。
今頃、懐かしいその呼び名を口にされるのか。
何故、共に逃げる道を選んでくれないのか。
「どうして?」
呟きには何も返って来ず、時折響いていた轟音だけが、私達を急かすように後から後から追いかけてきました。




