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180 その錬金術師はかつての師と再会する

 微かに漂うカビ臭さ。

 今まで以上に冷たい空気に晒されて、身体が小刻みに震えだす。


(寒い――っ。)


 そんな俺の背後で、此処まで運ばれてきた扉が音を立てて閉まり、退路が断たれてしまった。

 重厚な鉄の扉だ。幅も高さもあるそれは、開けるのは確実に一苦労するだろう。


(しまった!?)


 それを閉められ、思わず振り向くも後の祭り。

 そこから先は――一歩も動く事も出来ずに、響いてきた新たな音に、思わず固まってしまっていた。


(何か、居る――。)


 空気が重い。

 その重い中で、カサリ、カサリと鳴る音色が響いている。まるでページを捲るかのようなその音に、時折、カリカリと硬質な音が混ざって聞こえた。

 カビ臭い中に漂うのは――僅かなインクの香りだろうか。何かを綴る様子には知能が伺えるものの、まるで濃密な死の気配が絡みつくように、こちらの全身の動きを阻害していた。

 そのまま体が固まってしまい、動く事も出来ずに立ち竦んでしまう。


「クドラクよ――。」


 そんな中へと、突如として低いてきたのは、重く、腹の底から響く声。ヴァンパイアと化した兄弟子の名だ。

 それを口にしたのは、異様な気配を漂わせる『何か』。

 見えない位置で、微かに布が擦れる音を立てて、その『何か』は続けて声を放ってくる。


「報告ならば、素早く正確にせぬか。入り込む侵入者如きに、遅れを取るわけでもなかろう?」


 その声は、懐かしい――あまりにも懐かしすぎる。

 此処を通る前に遭遇した、かつての兄弟子達の成れの果てもそうだったが、それ以上に感情が込み上げてきて息が詰まる。

 だがしかし、生きてるはずもないと冷静な判断が混ざり――一気にそれは恐怖へと塗りつぶされていった。

 思わず、喉がヒクリと動いて空気を飲み込む。


「クドラク、どうしたクドラク。答えぬか。それとも、答えられぬ程の怪我でも負ったか――?」


 カラカラに乾く口内から、声を振り絞れるはずもない。唇も乾ききり、緊張で鼓動が高鳴って喧しかった。

 そんな俺を人違いして、訝しげに語られる言葉の数々。それと共に、ページを捲る音と、羽ペンが動いていたと思われる音が消え去り、束の間の静寂が満ちる。

 そうして、


「――お前、は。」


 こちらに気付いた『何か』は、ゆっくりと衣擦れの音を立てながら近寄ってくる。

 その気配に、全身へと怖気が走っていく。

 耐え難い恐怖は抗えない程の苦痛。精神を確りと削り取り、俺の心から余裕も正常な判断力さえもを奪い去る。

 ガタガタと震えだす身体を最早どうする事も出来ず、ただ立ち尽くすしかなかった。


「お前は――そうか。そうかソウカそうかソウカそうかソウカそうか!」


 そんな俺へ向け、興奮した様子で『何か』は肩をガシリと掴んで来た。

 思わず、短い悲鳴が喉をついて出る。

 すぐに、細い指がギリギリと食い込んできて、痛みに僅かに呻いてしまう。

 それでも尚、固まっていると、すぐ間近から声は響いて来て、這い上がってくる悪寒と、どうしようもない程の恐怖が残っていた僅かな思考さえも消失させた。


「るうく!ルークだな?ようやく来たか。やはり、お前が来たか。そうか、お前か。ルークか!良くき――。」

「ああああああああ!?」


 聞こえてくる声に耐えかねて、絶叫する。

 耳を塞ぎ、目を瞑り、それでも振り払えない恐怖と冷気に、身体を丸めて縮こまる。

 それでも逃れられない状況は、ただ絶望だけを知らせていた。


(怖い、怖い、怖い、怖い――!)


 圧倒的な恐怖。

 感じるのは、死への恐怖心だけ。

 ヴァンパイアと化した兄弟子も、ゴーストなのかスケルトンなのかも分からない他の兄弟子達も、此処までではなかった。それくらいには、怖ろしくて堪らない。


(嫌だ、嫌だ、死にたくない。アンデッドになんかなりたくない。嫌だ――っ。)


 まるで、触れられた側から生命が抜け落ちていくかのような虚脱感。どうしようもないと思える程の諦観と絶望感。それに、狂いそうになる程に湧き上がってくる嫌悪感に、死への恐怖心が精神を病む。

 姿を見てすらいないというのに、どれ一つとっても抗い難きものばかりだった。

 それに耐えきれなくて、喉は勝手に悲鳴を漏らす。精神が、音を立てて軋むような気がして止まない。


「うああああああああああああ!?ああああああああ!わあああああ!?」


 逃げるだって?

 一体、こんな相手からどうやって?

 戦う?

 それこそ死を体現したかのようなこの存在とか?

 話し合う?

 ――最早愚か以外の何ものでもないだろう!?


(嫌だ、死にたくない。死にたくない、死にたくないぃ!)


 おののき、ふるえ、おびえて半狂乱になったままに後退ろうとするも、足が縺れるようで、全く動けない。

 それどころか、転げた拍子に見ないでいた『何か』が見えて、俺は更に悲鳴を上げていた。


「――……。」


 見えたのは、仄暗く灯る紅い眼窩。真っ黒な骨は、闇の中でカンテラに照らされていて尚暗く、身に纏うボロボロのケープが更に恐怖心を煽ってくる。

 その周囲を揺らめくのは、可視化するまでに至った魔力だろう。見るからに禍々しい色合いで、黒い色彩の中を時折稲妻が走り、濃い紫色のもやとなっていた。


「ヒッ、ヒ、ヒィ――っ。」


 こちらへ向けて何かを言ってるように見えるが、何を言ってるのかなんて分からない。むしろ、分かりたくもなかった。

 ただ只管に叫び続けて、見えたその『何か』から目を離せないままに、床の上をのたうつ。

 そうして、しばらくして、


「――ぇ。」


 あれだけ心を支配していた恐怖心が薄れて消えていて、思わず目を瞬いていた。

 その拍子に、浮かんでいたらしい涙が滑り落ちていく。それを呆然としながらも感じて、ついで混乱を覚えた。

 あれ?何でだ――?


「正気に返ったか?あるいは、突き抜けたか?――ルークよ。」

「師、匠――?」


 聞こえてきた声に目を向けるも――怖れはもう無い。

 あれだけ無様に怯えていたというのに、その大元だった恐怖心が、すっかり俺の中から抜け落ちていた。


「あ、あれ?」


 尚も目を瞬かせる俺に、


「一度死のふちを彷徨うどころか、完全に心肺停止になった事もある者の反応とは思えんな――ともあれ、良く来た、ルークよ。」


 そう言って、骨にケープを羽織っただけの『何か』が『喋る』。

 その異常性にも混乱するが――続けて放たれた言葉は、更に俺を混乱させていた。


「クドラクにはあれ程無関係な者を巻き込まないよう、最新の注意を払うように伝えていたが、どうやら先読みの言葉が証明される結果になったようだな。」


 その事へ思わず視線を向ける。

 そこに居たのは――『何か』ではなく、かつて師であった存在。骨だけの身にボロボロのケープを纏い、時折カタリと音を立てるアンデッドだ。

 真っ黒に黒ずんだ骨は、最早人間以外の何かの骨に見える。眼窩に灯る紅い光と周囲を漂う靄が不思議だったが、何故か怖いと思う程ではなくなっていた。


「先読み――?一体、何の話だ?」


 そんな師であった存在から言われた言葉に、思考が動き出す。

 恐怖で塗りつぶされていたのが今じゃ正常だ。何がどうなったのか、さっぱりである。


「それよりも、ルークよ。」


 そんな風にいぶかしむ俺の疑問にも答えず、かつて師だった存在が骨だけの口を動かしてやはり『喋る』。

 本当にどうやって喋ってるんだろうか。スケルトンって喋る能力なんて無いはずなのに、声は声帯も何もない骨だけのその身から発せられていた。

 その異常性にも混乱する俺を他所にして、師は淡々と語っていく。


「急いで地上へと戻り、確認せよ――災厄である邪なる神の下僕は、すぐ側まで迫っている。」

「は?」


 思いがけない言葉を投げられてしまい、思わず素っ頓狂な声が漏れていった。

 だがしかし――次の瞬間には俺の目には緑が広がるばかりで、思わずポカンと口を開けて立ち尽くす。

 そよそよと風に揺れる下草に、燦々と降り注いでくる陽の光。暖かい――夏の熱い空気が、恐怖で底冷えしていた身体をじんわりと温めていく。


「何だったんだ、一体――。」


 まるで、たちの悪い夢でも見ていたかのような、そんな唐突さ。

 それに呆然とするも、どうやら実験体でも、アンデッドの仲間入りも無く、俺は無事に生還出来たらしいと知り、そっと溜息を零した。

 だがしかし、その事を喜ぶよりも、疑惑と不安が渦巻いてきて、思わず頭を抱えてしまった。


「災厄で、邪な神の下僕だって――?」


 そんなの、一つしか無いだろう。


 女神だ。


 災厄で邪な神って言えば、勇者をこの世界に召喚させる奴くらいしかいない。

 そうして、その下僕という事は――。


「勇者が沸いているのかよ!?」


 という事。

 地下での話から理解出来たのは、ただそれだけだ。しかもそれが直ぐ側まで迫っているという言葉まである。

 ――即ち、危険が近付いているという事なのだろう、きっと。


「何なんだよ、この時代は――。」


 ゴブリンに負けそうになる都市があるわ、スライムが異常繁殖するわ、都市の中にまで侵入を許すわ、平穏とは言い難い問題ばかりの代だ。

 その上、今度は勇者が沸いてるかもしれないという。

 正直、冗談でも聞きたくない事だった。


「また、人が死ぬのか。」


 それを防ぐ為にも動けと師匠は言いたいのだろう。もしかすると、仮死の魔術陣自体、なんらかの手を加えられていたとしてもおかしくは無い。

 そうして、気付けば草原に放り出されている状況なんだが――おそらくは、そこまで遠くに飛ばされたわけではないと思える。


 あの師匠の事だ、抜かり等無いだろう。


 となれば此処は、貿易都市周辺にある開拓村の近くだろうか?

 何にしろ、現状を鑑みるに、ゆっくりはしていられない。

 というのも、


「もしかして、都市が危ないのか――?」


 そう判断出来るだけの材料が揃ってしまっているからだ。

 無関係な者が巻き込まれる事、早くと急かされていた事、そして地下で聞いた話と現状を総合すると――その可能性が高そうだ。


 暴走する勇者というのは、大抵人の多い場所で甚大な被害を齎している。

 それ以外では、強敵を相手に死闘を繰り広げた結果、死の間際に大災害を引き起こす事が知られていた。

 西にある大陸では草木の育たない不毛の大地が広がり、更には永久に氷の中に閉ざされた地もあるという。その大陸の下は、海の底へと沈んだって話だった。

 南の大陸ではマグマが吹き出し、大地そのものが灼熱と化していて近寄る事すら出来ないらしい。

 それらとは別に人が残っているのは、この島と東の大陸だけだった。


「一難去ってまた一難かよ――っ。」


 そんな数少ない人の住まう地が、また『勇者』と呼ばれる存在とその裏に居る存在により、人が生きられない環境に変えられそうになっている――。

 その事へ気付き、慌てて駆け出す俺は、この時は未だ何も知らなかった。

 既に王都が陥落していた事も、都市も開拓村も壊滅していた事も。

 そして、


(無事で居てくれよ――!)


 無事を願った存在が、一人欠けてしまっていた事も、まだ知らないでいた。


 2019/01/15 加筆修正を加えました。


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