謀りのマリウス
俺を視界に入れたエレクトラの興奮はそれは凄かった。
目を潤ませ、頬は紅潮して、歯並びがのぞく。
彼女がサディストだと分かる前に見たい顔だった。
「まあ!なんて可愛らしいペットちゃんなのかしら!まるで幸せを知らない目をするのね」
エレクトラはうっとりと俺から目を離さない。綺麗な少女に見つめられるのは、サディストと言えど恥ずかしい。
ふい、と目を逸らすとエレクトラはふふふと微笑んだ。
「素晴らしいわ。この子を、わたくしの手で泣かせられたら、どんなに––––あぁ、久し振りですわ。こんなに胸がドキドキするのは」
本当にサドマリウス様と同じようなこと言うんだね。君の方がサドマリウス二号の称号がお似合いだ。
「この紙にサインを」
マリウスが契約書を差し出す。
エレクトラは慣れた手つきであの汚い字をさらさら書き込み、満足そうに顔を上げた。
「それでは、その子は頂いて参ります」
「それは少しお待ちください」
マリウスは静かな声で待ったをかけた。
すぐにでも引き渡されるのかと思っていたのに、どうやらそういう訳では無いようだ。
マリウスが上手いことやると言っていたのはこのことか。
「この希少な合成獣にはそれなりの対価を支払って頂かないと」
「あら、それなら準備くらいあります。持ってきて」
「それには及びませんよ。私が求めるのは金などではありません。」
後ろに控えていた従者に振り返って命令していたエレクトラは苛立ちを隠さずに眉間にシワを寄せる。
「それでは、何を望むの?地位?名誉?それとも、召抱えて欲しいとか?」
「馬鹿仰らないでくださいよ。私が欲しいのは奴隷の入手ルートです。私のおもちゃを買うんです。貴女のおもちゃを私に譲ってください。」
「……ふん、卑小な騎士の分際で。分かったわ。手形はいずれ。」
こちらが、きっとこの子の本性。
優美な入れ物に入っていても獰猛な獣の牙が隠しきれない。
醜悪な瞳をすっと細めて吐き捨て、立ち上がる。
「おや、食事の支度をしておりましたのに、もうお帰りですか?」
「貴方の家の食事なんて、たかが知れていてよ。きっと不味くて食べられやしないわ。」
「お客様がお帰りだ」
マリウスが扉へ叫ぶと、扉のところに立っていたメイドが黙って扉を開く。
「私の家のコックが作る料理は絶品なのですが、それが分からないような味音痴には中層の酒場のおつまみをおすすめします」
エレクトラはマリウスを睨め付けた。
「…減らず口もいい加減にしなさい。この子は譲ってくれるのでしょう?」
「嫌ですよ。交換だと言っているじゃあありませんか。貴女の耳は飾りですか?」
「…ッち!」
エレクトラは可愛い顔をおぞましい憎悪に染めて、床を踏み抜くように部屋を出ていった。
外から馬車が走り去る音がすると、
「だいぶイラついてたね。はじめに焦らしたのが功を奏したみたいで良かった。」
爽やかな笑みを浮かべていた口が裂けていく。
残忍な顔をするマリウスはそばに立つ俺に手を伸ばした。
「そんな顔しないで。君を本当に売るわけないだろう。絶対、誰にもあげない。」
そう言って、俺の頬を下から上へ撫ぜた。
手放すつもりは端からなかったらしい。
売る契約を結ぶ、はマリウスにとっては手放すことと同義ではないようだ。悪いヤツ。
「…しんぱいして、そん、した」
「心配したの?」
当たり前だこの変態。
どうせ俺がいなくなっちゃったら別の子を買って痛めつけるんだろ?
それなら痛くない俺が飼われていた方が世のため人のため姉のため、だ。
「…そっか。」
マリウスの目は、珍しく空っぽだった。
その目がなぜだかとても胸をかき乱す。
あれだ。普段手のつけられない暴れん坊が外を見て黄昏ているのを見かけてどうしたらいいのか分からなくなるアレだ。
頬に添えられていた手を払い除けると、マリウスは我に返って笑った。
「せっかく、皆が支度してくれたのに、食事が勿体無い。レイも食べていいよ。他の子たちも呼んで来て」
その笑顔はきっと不安定な何かの上にあるのだと気がついた昼下がり。
いつもよりも空気が冷たいような気がした。