大浴場に行こう6
湯船は足を伸ばしてくつろげるほど隙間がない。すぐ目の前には大の大人の逞しい背中が迫る。
やっぱり貧民街の住人は肉体労働者が多いようで、今いる人達は筋肉質に引き締まって、黒く日焼けて羨ましい体をしている。
どうでもいいけど、前に英和辞典で筋肉労働って書いてあって噴いた。
俺は隙間にうずくまって静かにしていた。
無闇と動くとほかの人に当たりそうだったのだ。
じーっとしていたら、急に目の前の壁が眼前に迫ってきた。
いやいや、近いって。
ちょ、ちょっと、そんな巨体だと俺潰れるって。
ギル!助け…っていねえええええ!
という内心の焦りにも関わらず、俺の体は一向に動こうとしない。何となく、迫る壁を無感情に眺める。
ああ、俺と違って、中身がぎっしり詰まってて重いんだろうな、なんて思いながら微動だにしなかった。
それから、俺はそのずっしりと重い巨体に尻に敷かれて湯船に沈んだ。
[エリオットside]
今日は収穫祭一週間目、丁度真ん中にあたり上・中流市民街にある大浴場が無料開放される日だ。
フォルセリム王国騎士団王都中央支部直属市民街第五分署が大浴場のすぐ側なので、第五の連中は祝祭週間にちょくちょくここへ来る。
祭りとあって、人が多くなると当然小競り合いも頻発していつもよりも忙しいのになぜ許されるかと言えば、無料開放日には貧民街の連中がこぞって入りに来るため大浴場とその周辺の治安が著しく悪化する。だから大浴場の運営側から是非来て欲しいとお願いされる。
ガラの悪い労働階級の抑止力になって欲しいという訳だ。
「いやぁ、仕事とは言え湯船の無料開放はありがたいよなぁ」
はふぅ、と気持ちよさげに湯船に浸かるのは同僚のギリアス。
短く刈り込んだ暗い茶色の髪はなかなかに剛毛で、濡れてもぺちゃんこになることがない。そのせいかヒゲは薄くつるつるしているのが悩みだとか。
第五でもガタイのいい方なギリアスは湯船に浸かっても胸より下までしか届かない。
「そうですね……人がこんなに多くなければありがたいですね」
「エリー、贅沢言うなよ。貧乏騎士にはこれくらいがお似合いだ」
「エリーって呼ばないでください」
「あっはははは、堅いこと言うなよー」
「いや、堅いって言うか、単純に不愉快なのですが」
またギリアスはがはがはと大口を開けて笑う。
エリーとは私の蔑称であり、本当の名前はエリオットである。母がつけてくれた立派な名前だ。それを女々しく略されるなど到底見過ごせるものではない。
母が呼ぶのは、いいのである。
母だから、いいのであって、誰彼にも呼ばせるわけがない。本当は母に呼ばれるのだって嫌なのだから。単に母への愛情で我慢しているに過ぎない。
「おっ、エリーめ、今日は口が緩くなってんな。」
「いえ、いつも言っているのにギリアスが聞いてないんですよ」
「そうかぁ?」
「そうです」
私ははぁ、と深い深いため息を吐いた。
「おいおい、風呂場でそんな湿気たことすんなよな。風呂が冷めちまう」
「風呂場はもともと湿っています」
「つまらんこと言うな」
「……すみません、私なりの冗談です」
「…おう。すまんな」
「謝らないでください。ぶっ飛ばしますよ」
「おうおう、なんだ、やるのか?」
ギリアスがそわそわ揺れ始めて、腕を構えるので、ついつい、拳を出してしまった。
普段ならば、決してしないと言いたい。
きっと湯船でのぼせていて、頭に血が上っていたのだ。
ほれほれ、と手をひらひらさせるギリアスが余裕しゃくしゃくで笑っているのについかっとなって殴りかかった。
ら。
後ろに下がったギリアスが「げっ」と言って慌てて後ろ向きに屈んだ。
「おい!おい!しっかりしろ!」
「どうしたんですか?」
私も慌ててギリアスの手元を覗くと、まだ五、六歳ぐらいの男の子がぐったりと伸びていた。
「今うっかり尻に敷いちまったんだよっ」
「はあ!?その巨体で!?」
いや、普通に考えてそれ圧死しますよ、とは場所柄言えなかった。
混雑でかき消されているとは言え、すぐ側の男たちには気づかれて鋭い目を向けられている。
貧民街の連中は仲間意識が強いと聞く。まして子どもにケガなんてさせたら何をされるかわからない。
「ギリアス!ああもう!とりあえず外に連れ出してください!」
自分も一端を担ってしまっていて、ギリアス一人を責められないのが痛い。
ギリアスが湯船から体を引き上げてさらに顔を真っ青にさせた。
「……やっべえ、どうしよう」
少年の胴体は全体が紫色に変色し、それはもう見るも無残な姿だ。
こんな華奢な子がこんな男に潰されれば、こうもなるでしょうて。
「……俺、こんな子殺しちゃったの?」
「泣くの早い。殺さないために早く処置をしなければ」
「……エ、エリー!!」
涙目の厳つい男に頼られても、何っにも嬉しくないんですが。
先程の己の失態に舌打ちして、少年を抱き上げ浴場を出た。
浴場から出て、脱衣場に設置されているバスタオルを巻いてやって、とりあえず貧民街の連中の目からこの子を外さなくてはと焦っていた私は、一緒に来ているだろう親のことも考えずにいた。
紫色の皮膚に躊躇したが胸と腹をぐっと深く押し込んで、恐らく飲んだお湯を吐き出させようとした。
二、三回も押せば咳き込むように水を吐き、薄目を開けて目玉を忙しなく動かした。
「もし、大丈夫ですか?どこが痛いですか」
私が質問した途端、体を強ばらせて守りの態勢になったのにげんなりして、先に服を着ていてもらったギリアスに少年を託した。
「私は昔から子どもの相手がどうにも苦手で…とりあえず第五に。頼みましたよ。」
「…お、おう!任せろ!」
第五に行けばいいんだという明確な目標が出来たギリアスは早く、あっという間に人の間を縫って駆け去った。
あの図体でどうしてあんなにも俊敏なのか、いつも不思議だ。
私もさっさと服を着て、ギリアスの後を追った。