大浴場に行こう2
祝祭週間に一日だけ貰えるという休日を、イヴ姉とキャロルが合わせて貰うことが出来た。
今、右から俺、イヴ姉、キャロル、ギルと並び、普段ならば来ることのない“上”の人々の居住区に足を踏み入れている。
お祭りと言うだけあり、“掃き溜め”と違って大浴場のある中流・上流市民街は活気に満ち満ちていた。
赤煉瓦づくりのアパートの、植木鉢を並べる鉄柵に、飾り付けられた野菜がわんさと並べられ、家々の前の広い通りには延々と屋台が連なる。
屋台は、調理したものを売っているようで、朝市とは雰囲気が違うとイヴ姉は言った。立ち込める芳香も食欲をそそる。
お菓子の屋台もあるようで、ワッフルのようなものを売る屋台では、綺麗な服に身を包み、髪の毛をきちんと結われた少女が、茶色の背広姿の父親とおぼしき男にお菓子を買ってもらっていた。
俺の足は自然と止まった。
甘い匂いが立ち込めてヨダレがたまる。
お腹が切なげに泣いた。
手を繋ぐイヴ姉も俺にならって足を止め、俺の見る先に目をやった。
イヴ姉は俺を見下ろして、見上げた俺に眉尻を下げて笑った。
「ひとつ、買う?」
「姉ちゃん、食えば。俺には味、わかんないし」
イヴ姉は俺を見つめて、自分の荷物があるのに、それと一緒に俺も抱き上げた。
「お姉ちゃんは欲しいものがあるから、我慢しようかな」
イヴ姉はそう言って、先で屋台を冷やかすギルと、それについていくキャロルを追って歩き出した。
抱き上げられた俺はと言うと、胸を圧迫する荷物が邪魔だったのでイヴ姉の背中に回した手に持つことにした。
抱っこされてイヴ姉にべったりくっついている俺を見た反応は、ギルは予想通り、キャロルはお姉さんらしく優しい微笑を浮かべた。
「赤ちゃん、ほれ、これ食うか?」
ギルは馬鹿にした笑みそのままに、手に持っていた紙袋から玉を摘み、俺の口元へ近づけてきた。砂糖がまぶされたドーナツかと思われる。
いつの間に買っていたのか。
いや、飲み物無いのにそれはキツいだろ。
唾全部持っていかれた後の始末してくれるのか?飲み物奢ってくれるのか?
どーせお前しないだろ。
喉詰まらせそうになってる俺を見て笑うんだろ。
味わかんないし、ただの小麦粉噛んでる気分とか味わいたくない。
「いらない」
「遠慮するなよぉ。赤ちゃんは何でも貰っておくもんだ」
「俺が赤ちゃんに見えるのか。医者にかかれ」
「抱っこされるのは赤ちゃんだけでちゅよお」
う。
どうしよう、確かにその通りだ。
でもイヴ姉にしがみつくの、安心するんだよな。降りたくない。
「赤ちゃん、で、いい…降りない。俺はこれがいい」
「ほんと、お前って…」
ギルはつまらなさそうに口を尖らせた。
宙ぶらりんになっている、お菓子を摘んだままのギルの手が、行き場を失って宙を彷徨っていた。
いつも退屈しのぎをしてくれるのに、このノリの悪さはさすがに可哀想か。
俺は、目の前のギルの指に噛み付いた。
「なっ!?馬鹿っほんとに噛み付く奴があるかっ!」
ギルが声を荒らげるが、そんなの知らん。
俺はわざとギルの指と一緒にお菓子にかじりついた。
「ちょっ、レイヴン!?」
「痛い痛いっちぎれるっ」
ギルが涙を浮かべはじめた。
甘噛みしてるのに、情けないな。
「くくっ」
喉が引きつった。
面白い、ギルは本当に飽きない。
これじゃあギルへの謝罪にならないじゃないか。
「レイヴン!噛みちぎっちゃ駄目よ!」
「ちぎっ…!?」
イヴ姉、そんなストレートに。
ギルが真っ青になっておりますぜ。
口が裂けた。
普段にやにやしている奴の慌てる顔って、どうしてこんなに愉快な気持ちになるんだろう。
ああ、今の俺、ゴールデンタイムのアニメに出られない顔してるな、多分。
ギルの顔が恐怖に引きつった。
俺はギルの指の砂糖を須らく舐めとった後に、顎の力を緩めた。
「変態っ馬鹿っ阿呆っ変態っ」
変態が二回出てきたぞ。
混乱と恐怖のあまりに語彙力喪失中のようだ。
あるぇ?
血の匂ひしき。
口から鼻に、独特な鉄臭さが上ってきた。
見ればギルの人差し指の爪が割れている。
「俺の爪がっ爪がっ血がっ」
ギルが血を見て卒倒せんばかりに動転して、手首を掴んでおろおろする。
男って何故だか、血を見ると我を失うよね。女性の方が肝座ってることが多々ある。
母強し。
「レイヴン!何てことを!」
ギルがべそをかくのでイヴ姉まで怒り始めた。
キャロルは、主人の家の子どもと言うことで焦ってはいるものの、普段、ギルが俺にしていることも見ているためか、どうしたらいいのかわからないようだった。
ここまでやるつもり、なかったんだけどな。
感覚が薄いと手加減が難しいことがわかった。
「痛いのか?」
「痛いに決まってんだろ馬鹿!」
「そうか」
俺は対価を、と考えて、自分の人差し指の爪をぺりっと剥がした。
薄皮がピリッと一緒に剥けた。
うむ。これでよかろう。
「悪かった。これでお揃い」
「…ぁ……ぅ…」
爪のない、人差し指を差し出した。
正直昔の自分であればしゃがみこんでいるだろう、なかなかな見た目をしている。
痛みを感じていないと、どうもグロテスクの耐性が強くなるらしい。少なくとも俺はそうみたいだ。
ギルは口を開けたり、閉じたり、真っ赤になったり真っ青になったり、大変忙しそうだ。
ざまあみろ。
からかう奴はたまに痛い目見た方がいい。
…あれ、ギルはこれ、痛くなくない?
まあいいか。
俺はわざとギルを放置して、血で滑る爪を地面へ放った。
「あそこです!」
背後で女の人がそんなことを叫んだ。
ふと辺りを見回して、やらかした、と思った。
四人から遠ざかる形で人だかりができ、気味の悪いものでも見たように、皆一様に顔色が悪い。
叫んだ女性はこちらを指さしていて、そばには制服を着た警察らしき男がいた。
けーさつ、やべえ。
ふざけ過ぎたらしい。
警官とおぼしき男はつかつかとイヴ姉に歩み寄り、イヴ姉ではなく俺に右手を見せろと言ってきた。
「…何で」
「レイヴン、見せて」
イヴ姉はこの男が何かわかるらしい。
明らかに動揺している。
俺は爪を剥いだ方の手を、手のひらを上に男に差し出した。
男は俺の手を掴み、有無を言わさず裏返した。
「自分で剥がしたの?」
俺が子どもだと思って、少し語気を和らげている。マトモな分別はあるらしいと判断し、少し警戒が薄れた。
俺は頷いた。
嘘をつく理由もない。
「どうして?」
「ギルの爪の、お詫び」
「ギルの爪?」
「俺が割っちゃったから」
男は振り返ってべそをかくギルを見つけた。
ギルの手を取り、なるほどと頷く。
「それにしても、そこまでするなんて、やり過ぎじゃないかい?彼は割れただけだろう」
「剥ぐ方が、簡単でしょ」
「レイヴン!」
イヴ姉が、遮るように飛び出してきた。
その先を言わせたくないらしい。
男はイヴ姉をちらりと見て、値踏みする目で俺を見た。
「痛く、ないから?」
イヴ姉の奥歯を噛み締める音が聞こえた。
ばれちゃいけないことなのか。
「痛いよ。でも慣れてる」
「生爪に?拷問でもされているの?」
俺は首を横に振る。
「あのっ、もうよろしいでしょうか!問題になると旦那様に叱られてしまいます!お騒がせして申し訳ありませんでした!もう、行っていいですか…!」
イヴ姉の泣きそうな声で、これ以上は難しいと思ったらしい。男は不満そうにため息をついたが行って良いと離してくれた。
四人は黙って歩いた。
イヴ姉の顔は怖くて見れないし、キャロルはこの空気を気まずく思っているみたいだし、ギルは地面を見つめてとぼとぼと元気がない。
俺が、楽しいはずの休みに水を差してしまった。
本当だったら、楽しく屋台を回って、大浴場に行ってさっぱりして、帰れるはずだったのに。俺が余計なことをしたせいで台無しだ。
俺ってば、今の今までイヴ姉を困らせることしかしてないぞ。
そのうち、爆発したイヴ姉に追い出されるかも知れない。
俺は急に、腕の中のイヴ姉がすり抜けて行く感覚に囚われて、イヴ姉にしがみついた。
イヴ姉は優しく頬ずりをしてくれた。
「どうしたの?レイヴン」
甘い声が、耳にくすぐったかった。
俺を抱き上げたイブ姉は、あやしながら、人が増えていく人混みの中をわけ行って歩いて行った。