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閑話:姉弟

[ウィリアムside]


イヴが弟のレイヴンを抱いて店に来たのは、半年前の夕暮れだった。


そろそろ日も沈もうかという時間。家では仕事から帰ってきた夫を妻が迎えて、子どもたちと一緒に夕飯にありつく時間。

人通りは一様に家路につく中、流れに見向きもしない一人の少女が居酒屋を訪ねてきた。


その少女は胸に痩せぎすで髪もぼさぼさな子どもを大事そうに抱えていた。子どもは高級寝具店のロゴが金糸で刺繍されている毛布にくるみ、少女の華奢な肩には、中流市民の一ヶ月分の給料ほどする牛革をなめした肩掛け鞄。何をそんなに入れているのかという程膨らませて、いかにも訳ありだった。


「家を紹介して頂けると伺って参りました。ウィリアムさんはいらっしゃいますか」

「ああ、俺だが」


少女の抑えた声を聞こうと後ろで野郎共が耳をそばだてていた。

少女の、子音を丁寧に発音する癖に彼らの嫌悪感が刺激されたのだとすぐに気づいた。


「その前にその話し方はやめた方がいい。ここはそんなにガラが良くないから、あんたみたいな“上”の出は目の敵にされる」


話す時の口調やアクセントというのは、生活環境に大きく左右される。少女は自覚がないようだったが、彼女の訛りはとても上品でたおやかと言うべきたぐいのもので、そんな話し方をするのは、決して貧しくない中流以上の家庭であることは確実、ともすると面倒な身分であることも、可能性としてないとは言いきれなかった。

俺は店の扉を閉めた。それによって店内の殺気が遮断される。


「どうしてあんたみたいな“上”の人間がここへ?面倒ごとを持ち込まれるのはこっちとしても御免こうむるんだが。」

「“上”が何か、聞いても?」

「金持ちってことだ」

「確かに、お金には困っていませんでしたが、金持ちというほどでも。普通の家庭です。それにもう関係ありません。家出してきたので。」


少女は一瞬、泣き出しそうに顔を歪めた。が、子どもの肩に鼻から下を押し付けて、何か呟き、涙を堪えた。


治安がいいとは言えないこの御時世、まだあどけなさの残る少女に、温かな家や苦労のない暮らしを諦め、故郷ふるさとを捨てさせるほどの決断をさせた何かがあったのだ。


そんな子どもは五万といるが、やはり見るのは辛いものだ。


「家出…なるほど。それでここに。抱いてるガキは?」

「弟です。もしご存知なら、お医者様を紹介して欲しいのです。高熱が下がらなくて」

「いつから」

「もう一週間も」

「それは、マズイな。俺でよければ診てやる。どうする?」

「医術の心得が?」

「昔、軍の医療部隊にいた」

「ありがとうございます。お金は後ほど」

「要らねぇよ、んなもん。ガキからとるほど困ってねぇ」

「でも」

「要らねぇ」

「…わかりました。そのように」


弟を離すまいと抱きしめる少女を裏口から家に入れる。裏口から部屋にたどり着くには厨房を抜けなければならず、どうしても人目に晒さなければならない。俺は少女を先に行かせた。案の定、ジルが険しい声を飛ばしてきた。


ジルもやはり貧しい家庭で育ち、今は“掃き溜め(コッコ)”を護る自警団の一員として働くが、“上”からの嫌がらせや圧力に辟易している。

他には、奴隷のような扱いを受けながら“上”の人間が住む邸の使用人として働いていた奴もいる。

身寄りが無く、“上”の人間がいい暮らしをする為に自分の生活を犠牲にさせられた、この酒場に来るのはそんな奴らばかりだ。


「なあ、何だあの女。“上”の奴らだろ?匿ってやるこたぁねーだろ」


ジルの周りも、言わないまでも目にありありと嫌悪感を浮かべ殺気立っている。


青い血(貴族)どもではない。しかも、まだ子どもだ。」

「ここじゃないなら全部“上”だろうよ」

「家出してきたらしい。行き場がないなら、受け入れてやるのがここの仕事だ」


ジルは黙った。周りも驚いたのか、さっきまでのピリついた雰囲気が嘘だったようにアホ面を下げている。


「家出ね。賢い選択だ」


ジルは愉快だと笑い、再び酒を飲み始めた。


少女が、一瞬躊躇った後、ベッドに弟を寝かせた。心細いのか弟の手を握って、弟から物理的に離れるのを嫌がった。

俺は別にそれを咎めるわけもなく、端に寄ってもらって、様々道具を持ってきてベッドに並べた。

俺が毛布を剥ぐと、嫌に細い腕があらわになった。

ため息が出る。

心音や肺の音を聞こうと上衣うわぎをめくり、見たくなかった予想通りの光景にやはりため息しか出なかった。


「家出の原因はこれか?」


少女は俯いていたが、わずかに頷くのが見えた。


「あんたにも?」


これには少女は首を横に振った。


親からの暴力、あるいは仕えていた主人の『遊戯(お楽しみ)』に姉が耐えきれず、親の制止を振り切って逃走。

まあこんなところか。


弟の皮膚は信じられない数の痣で斑模様になり、そしてそれは服で隠れる場所にだけあった。

暴力が日常的で、悪いとわかっていて止める気のない人間がしたのだと一目でわかる。


ベッドの半分ほどの身長しかない子どもに、この仕打ちが耐えられたとは思えない。

精神が破壊されていておかしくない。


「弟には何か、病気がないか?体の成長が遅い、話せない、幻覚を見る、幻聴が聞こえる、とか、そんなのが」

「…わかりますか」


少女は沈んだ声で言い、弟の頭を撫でた。


「笑うことも、話すこともありません。弟はまるで–––まるで人形のような子です」


撫でられていた弟の目が、わずかに開く。

俺は聞かせてはいけないと姉を止めようとした。止めようとして、それは無意味だと思った。



弟の目は、仲間の死体と同じ目だった。



子どもにこんな目をさせてしまう国など、破綻する日もそう遠くない。

大人として、情けない。

俺は苦々しさに顔をしかめた。


「レイヴン、この方が、治療してくださるからね」


少女は、その目に気が付かないかのように微笑みかける。

やりきれない。


「この薬を湯に溶かして飲ましてやれ。家は、井戸の向こうに空きがあるから明日案内する」


俺は紙袋を渡して、この目をする人間がそう長くないことを知りながら言わなかった。

姉の心の支えを折るのは今じゃなくていい。苦しい決断をしたばかりなのだから、もう少し、夢を見させてやりたいと思った。

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