2.私が守りたかったもの
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雲が緩やかに流れ来る。
頂天に輝く日輪の、大地に落とす輝きは、いつしか晴天から移り変わり、陰りを抱こうとしていた。
歪獣のいた痕跡である瘴気もまた、その死骸からいよいよ濃く立ち上ろうとしている。
男はその只中で、いまだに立ち尽くしている。
その咆哮という名の慟哭は止まない。
『…………』
足元に倒れて動かない自分を見つめていた彼女は、その傍らに転がっている小さな瓜坊の骸に目線を移すと、それまでよりも悲しそうな顔をする。
私という存在が、私という秩序を失い、バラバラな振動になって世界に解けようとしている。
深い峡谷を吹く谷風は容赦なく、空と同じように、地上でも、目には見えない心の影をもたらそうとしているかのようだった。
まだ、駄目だ、と思った。
まだ、ここから去るわけにはいかない。
懸命な、いいや、命すらも失った後の、文字通り魂全てを賭した思いで、彼に託したものにすがり、形を取ろうとする。
影が、集まり始めた。
男の頭の周りに、朧な輪郭を描き出し、やがて影は彼の頭を抱きしめる人影に変わる。
あれほど嫌がっていた家系の運命が、今はこんなにありがたい。
皮肉な成り行きに、浮かびそうになる苦笑を、彼女はこらえた。
微笑まなきゃ。
そうしないと、彼はきっと止まれない。
『大丈夫だよ』
世界の何もかもを捉えていない、何もかもを憎む彼のまなざしを、掌で後ろから覆ってやる。
あなたがそんなに世界を憎むのは、あなたが世界を嫌いだからじゃないよ。
『私はここにいるよ』
それは、あなたが世界を信じたがっていた証だから。
好きでいたかった証だから。
裏切られてもまだ痛みを感じていられるほど、優しく在れている証拠だから。
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フウ、と、その少女は彼に名乗った。
宙に浮かんでいる、文字通りの幽霊。
容姿は分からない。影が濃すぎて、目鼻立ちすら見分けられないのだ。
けれども、その物腰や、シルエットからは、少女の軽やかさがあった。
だから少女なのだろう、そう思った。
『傷を手当てしてください。話をするのは、それからでも、ううん、それからの方が、絶対いい』
そう告げるフウの指示は、実に単純にして高難易度なものだった。
『骨片を取り出して! 残っていると、後でもう一度開かなくちゃいけないから!』
『脇はなるべくキツめに閉めて。自分の筋肉で血管を塞ぐぐらいのつもりで。
血が出きっちゃうのが一番怖いんです』
『がんばれ、がんばれ!』
『痛くてもいいんです、痛いうちはまだ治るから!
だから、我慢しないで、声を出して!』
何もない環境で、開放性骨折の治療を、しかも自力でやらせようというのだ。
施術の激痛は、脂汗を通り越し、幾度息が詰まったか知れなかった。
治る気がしない。
いや、仮に治ったとしても、後遺症は間違いなく免れ得ないだろう。
こんなことをして意味があるのか。
痛みに耐えかね、そんな疑問を口に出しかけてはまた、しまい込む。
意味は、ある。
あると信じているから、彼女は命じているのだ。
フウの死体から、服の一部を裂き取り、使うように言われた時は、さすがに抵抗した。
『いいから!』
押し切られたというより、それ以上、抵抗するだけの体力と気力がなく、手を下した。
元々、獣の歯に食い荒らされていたので、片手と足を使って布地を裂く作業自体は案外楽に運んだ。
全てをやりおおせた後は、そのあたりの大きな岩壁に身を寄せて、息をするだけで精一杯になる。
頭上を丁度良く覆う影が、日差しの強さを和らげていて、助かった。
「………………………」
乾いた風が、火照って汗にまみれた体を冷やしていく。
生きていられる理由が分からない。
気を失わずに、どうやって先程までの施術をやり遂げられたのだろうか。
浅くなった呼吸と早鳴る動悸を意識の中心に据えたまま、横目をやった。
『?』
表情は分からない。
正直、こちらを向いているかどうかさえ、見分けがつかないのだ。
ただ、傍らには居る。
それだけは分かった。
ぷかぷかと、傍らに浮いて、彼の姿を日差しから遮っている。
死んでしまえば、あれほど禍々しかった気配を放っていた歪獣も、今は単なる怪物猪にしか見えない。
それでも確かにさっきまでの戦いはあったのだと、心臓がそこにあるみたいにうずく傷が告げている。
すぐそばに、誰かがいる。
それだけで、奇妙な安らぎを覚える。
「……悪かったな、さっきは。こっちから名乗りを返せなかった」
『いいんですよ。すごく混乱していたみたいだし』
空気の揺らぎを感じた。
笑った、のだろうか……?
訝しむも、影の奥は見えない。
『早く、街に戻らないと』
その言葉の向けられた先は、きっと、傍らにいる自分よりも遠くなのだろう。
近くにいるのに、遠い声色がした。
それで、再びフウの遺体に目を戻した。
当たり前だが、変化はない。
「────まだ、いいさ。まだ、やることがある」
無理矢理に足を動かした。
岩に背をこすりつけるようにして立ち上がれば、倒れずにいけた。
『だ、駄目だよ!』
慌てた声に制止される。
『放っておいて!』
「やりたいようにやらせろ」
『いいったら!』
少女の影に回り込まれ、男の足は止まった。
『早く帰ろう? ね?』
今度は懇願だ。
自分の遺体を背にしながら、放っておいてくれとは。
またしても奇妙な感覚に囚われる。
「それが正しい選択だってんなら、俺は真っ平御免だね」
何だ?
俺は今、何をやっている?
傷の手当てを指図した幽霊相手に、言い争いか?
だが、フウは退かなかった。
『まだ、どこかに歪獣がいるかもしれない。
これが群れからのはぐれだなんて保証はないの。
お願いだから、自分の身を守って。
あなたはもう戦えるような体じゃないの!』
なるほど、正しい。
だからどうした。
「次が出たら、また倒すだけだ」
『無理だよ……』
「死ぬからと言ってやりたいようにやらない俺なら、そもそもこうはならん」
自分の名さえ名乗れなかろうと、それが俺だ。
俺なんだよ。どうしようもなく。
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……………………。
綺麗だな。
そう思った。
顎のしっかりと発達した、頬の少し削げた顔立ち。
成人男性の顔だ。
珍しい黒髪黒目に、私とは違う、短い直毛の髪型。
肌の色も濃くない。
どこから来たんだろう。
やや面長で、眉は太い。
けど、野卑だったり間延びした印象がないのは、鼻筋が通っているからだろう。
十代特有の、骨の成長に肉がまだ追いついていない細さもなかった。
なのに、言うことは子供みたいだ。
優しい人だ。
きっと、死んだのが私じゃなくても彼は怒っていただろう。
間に合いはしなかったけど、私を助けに来てくれた人で。
弱い私が死ぬ、そんな世界の正しさに我慢がならなかった人。
綺麗だな。
そう思った。
岩壁を背に、立っているのがやっとの状態で、虚勢を張っている。
こんな姿の私を、まっすぐに睨みつけて来る。
どうして彼を死なせたくないと感じたんだろう?
どうして、私の全てを差し出してもいいと……?
名乗れない理由も誤魔化さなかった。
嘘も吐かない。
馬鹿な人だ。
私の方こそ、本当の名前を伏せた癖に、そう思う。
馬鹿な人。
とても、とても…………。
/*/
『…………せめて、治癒か治療の概念を使って』
「何?」
男は、耳慣れない単語を聞き取れなくて、問い返した。
『概念だよ』
フウの姿が、前から横へと、並ぶように移動してくる。
腕のような輪郭が、片方、前に突き出された。
丁度、彼の無事な方と同じ側の腕だ。
『こうやって、歪獣に掌をかざして、収束って』
「何だって?」
『収束』
意味は掴めない。
だが、意味はあるのだろう。
傷の手当てが出来たように。
彼は教えられた通りに、歪獣の死骸へと掌をかざし、その言葉を繰り返した。
「収束」
すると、猪の姿かたちが解け始め、そこから生じた空間の震えのようなものが掌に吸い込まれていった。
分からない。分からないことだらけだが、自分の中の何かが増えたことは、意味からではなく、感覚的に掴めた。
『概念化、【手当行為】』
今度の言葉は理解出来た。
聞き取りやすいように、フウが一語一語の輪郭をしっかりと唱えてくれたからだ。
疑問が生じた。
「【自然治癒】じゃ、駄目なのか?」
逡巡するかのように、やり取りに間が空く。
『……うん、確かに【手当】だと、今の応急処置の繰り返しにしかならない。
でも、【自然治癒】でもまだ足りない。
怪我をしてからほとんど時間が経ってないから、起源に足りないと思う』
「じゃあ、【外傷整復】ならどうだ」
いちいち単語の意味を改めるのは止めた。
まどろっこしい。
「【整復】なら、割れた骨のズレにも対応出来るだろう」
『いいと思う。今やった手当とぴったり概念が重なってる』
「OK。じゃあ、【外傷整復】を概念化だ──」
念じながら唱えると、意識が自分の放った言葉の意味を深く理解する。
まるで、急に思考の焦点が結ばれたみたいだった。
同時に、隣に並んでいる少女の影が薄くなる。
目を凝らすと感じ取れる、その素顔を凝視して、間髪入れずに唱えた。
「【外傷整復】」
『ちょっと!?』
フウの遺体に刻まれていた食事痕のギザギザが丸まり、開いた穴は緩くだが閉ざされていく。
生々しさの和らぎ、面影を幾らか取り戻したその上へ、更に上着を脱ぐと、投げるようにして被せた。
「実験成功だな」
『…………!』
やっと見えた少女の顔が、泣き笑いのように強く眉と口元を歪ませ、その表情を崩していく。
構わずに、もう一度唱え直した。今度は自分の傷ついた腕と、胴体に、順に掌をかざしてだ。
「【外傷整復】、【外傷整復】────おお、魔法みたいだな」
痛みは正直あった。
どの動作を取るにも、上着を脱ぐなんて無茶をした時にもだ。
だから、笑った。
唇をめくれあがらせ、犬歯を覗かせて、強く笑った。
紫黒の長い癖っ毛を、編み込みながら垂らしている。
幼い丸みの消え掛かっている頬の肌は地黒だ。
睫毛は長く、目尻は少し垂れていて、唇は柔らかくぽってりとした曲線を作っている。
幽霊の癖に、どういう原理だかは知らないが、涙を浮かばせた瞳はパアッとした菫色。
縦に伸びたへその覗く、お腹の開いた衣装の腰回りは、女性らしく骨盤が開いている。
それがフウだ。
フウという少女の顔だ。
眼窩の二つあったはずの箇所に空いた穴なんて忘れた。
お腹に空いた大穴なんて忘れた。
動きを止める、小さな心臓の色褪せた形なんて、忘れた。
それが正しい世界の有り様だというのなら、くそっ喰らえだ。
そう思った。
/*/
頭がぐるぐるする。
勝手なことをしたのを咎めるべきか、今やった行いの意味を説明するべきか、さっぱり判断が付かない。
ああ、ああ……!
そうだった。
私が守りたいと思ったものは。
私が全てを差し出してもいいと、そう思えたものは。
『…………馬鹿ね!』
この、愛おしいほどの愚かしさを、憎しみに陰らせてはいけない。
そう思ったから私は、自分という種族の理を覆してまで留まった。
『ねえ、あなたの名前、教えてちょうだい?
私ももう一度、きちんと名乗りたいから』
それが嘘の名前でも構わない。
その名を呼べるという、喜びの方がきっと、全部を覆い隠してしまうから──!
おおよそ形が見えてきたので、週内には次話を投稿します。
下手なんでビシバシ書き直しつつ進めると思いますが、ご容赦ください。