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バトルアルカディア  作者: 城乃華一郎
1/2

1.やさしいあなた

2018-04-23/2018-04-25:改稿。

「死ぬもんか……!」


 怯えた形相で、脇目もふらずに岩場を走っている少年がいた。

 左右を切り立つ岸壁に挟まれた、峡谷の合間にある道である。


 少年の手には刀身の折れた剣があり、左半身には浴びるほどの量の血が掛かっていたが、その足取りからは負傷の気配が伺えない。


「僕が死んでも何の意味もない、だから死ぬもんか……!

 僕は、強くなるんだ、偉くなるんだ。

 だから……!」


 呟きながらも、引きつった笑いが、その口元に浮かぶ。

 しかし、行先に人影が見えた途端、少年の唇は途端に固く引き結ばれた。


「僕はちゃんとやったぞ、やったんだ!

 だから!」

「…………」


 人影──青年は答えずに、道を塞ぐこともなく、そのまま少年とすれ違うと、振り返りもしない。


 奥へと一歩、踏み出した。


/*/


 雲ひとつない晴れやかな空模様に、不釣り合いな水音がピチャピチャと鳴っている。

 音の源は峡谷の奥からだ。

 かつての河川が削り抜いていった雄大な景観に似つかわしくない、矮小な音だった。


「…………」


 その水音に、音もなく漏れ出る、微かな声が混じっている。


 赤く焼けた大地同様に乾いた風が、峡谷を時折吹き抜ける。

 その風に乗り、鉄錆びて湿った匂いが流れていく。

 あまりに微かすぎて、入り組んだ風の通り道の、一つ目の曲がり角を抜ける頃には、散ってしまう程度の量だ。


 踏み込んだ先、風が抜けきらぬほどの近間で、その青年は、音と声と匂いの源に直面する。


 巨躯の獣が、牙の生えた鼻面を少女の上に覆いかぶさらせている。

 水音は、獣が規則的に咀嚼する音だった。

 声は、少女が僅かに身をよじり続けている、声にもならない声だった。

 匂いは、赤い大地を黒に染める、流れ出る血の小川だった。


 折れた剣の切っ先側の破片が、その近くに転がっている。


 獣は六足二口の猪であり、長大な二対四本の牙を、本来の口と、喉元でもう一つ貪欲に開いた長大な口から生やしている。

 少女は……少女の残骸は、腹と、目元と、手の指先とが、ごっそりと輪郭を失っていた。


 それでもなお、彼女が生きていて、身もだえするみたいにして、異形の猪の口から逃れようとしているのを、青年は確かに見た。

 胸元に、骨の見えるほど食いちぎられた両腕の間、抱え込んだ何かを、猪の口から逃がそうとしているのを、確かに、見た。


 瓜坊だ。

 猪の子供だった。


 異形ではない、正常な四足の、まだ生まれたてのような小ささの、瓜坊だった。


 もう、動いてはいない。


「────」


 その時、青年は、もうないはずの少女の眼に、大きくいてしまった眼窩に、見つめられたような気がした。

 分かるはずなんてないのに、唇の動きから、こう言われているような気がした。


『どうして────』


『どうして貴方は、怒っているの?』


/*/


《……………………》


 生命の有り様からは遠く歪んでしまった猪の、斜めに並んだ三対の眼球、その一番上の段の、更に上。

 頭頂部にほど近いあたりの肉がき、切れ目が入って、ボコリと丸い玉を生やす。

 その玉が、ぐるり、回転して、新たな瞳で闖入者を見据えた。


 立ち尽くしている、人間の男。


 どこから現れたのだろう。

 横取りを警戒するために、注意を払っていたはずなのだが、ふと気がつくとそこにいた。


 歪んだ獣は鼻から瘴気を吹き出した。

 世界を毒して歪める、禍々しい獣の吐息だ。


 その人間は無防備に立っていた。

 だから歪獣は、対処を保留した。


 脆弱な肉体だ。

 自分のように強い牙も、太い骨も、厚い肉も持っていない。

 侮るに相応しい程度の存在でしかない。


 そう判断して、歪獣はエサ・・に口を付け直そうとした。

 その時だった。


/*/


 柔らかい皮で包まれた岩を打ったような手応えがした。


「っ!!!」


 直後に、吹き飛ばされる。


 猪の頭部に殴り掛かり、反射的に振り回された鼻面での反撃を受けたのだ。

 打撃は全然上手く決まらなかった。半端な距離で当たり、いとも容易く無傷で弾かれている。

 男は、自分が何をしているのか、そして自分の身に何が起こったのか、信じられないでいた。


(怒っている? 俺が?)


 頭の中の血液が冷え切っている。

 打撲した箇所の内出血の熱にも負けないくらい、体中の血が冷え切っていた。


 男は、転がりながらも咄嗟に立ち上がり、突撃してくる猪に備えようとした。

 間に合わない。


 牙だけは避けつつ、また鼻先での突進を受けてしまった。

 息が詰まる。衝撃で横隔膜が固まって、肺が動かなくなっているのだ。


 食いしばった歯の根が痛かった。

 だがこれは、痛撃を堪えるためだけの噛み締めではない。


 馬鹿をやった。

 何も持っていない。

 強い肉体も、技術も、武器になるような持ち物も、そして戦おうとする最低限の意志すらもだ。


 それでも体が動いてしまった。


 逃げた少年が正しい。剣ですら歯の立たなかった相手だ。

『だから』と繰り返していた、あの続きも何となく分かる。

 きっと、あの少年が言いたかったこと。


『だから僕は悪くない』


(そうだな。実際、弱いやつが死ぬのは────)


(強いやつに食われるのは────)


(非の打ち所もなく、全く正しい世界の理なんだよな)


 視界に入り込む、少女の姿。

 倒れ伏し、艷やかな紫黒の髪を血溜まりに浸している。


 岩だらけの峡谷は、彼らの他に生き物の足音も聞こえない。

 身を隠すほどの岩間もなければ、よじ登って逃げ延びられそうな高さの崖もない。


 三度目の突撃を目前にしながら、男は口を開いた。


「────正しいだけの世界なんて、くそっ喰らえだ!!!!」


 直後、絶壁を背にしたまま、その絶壁と猪の分厚い頭蓋とに挟み込まれる。

 筋繊維のちぎれる感触。内臓の割れる音。骨の砕ける衝撃音。


 ────吐血。

 おびただしい血を吐き散らしつつ、男の胴は猪の二つの口に捕らわれた。

 その身が天高く持ち上がり、弧を描いて放り投げられる。


 噛み裂かれた腹回りの皮膚と肉とは、彼が目にした少女の姿と重なる末路を予感させた。


 獣は獲物の柔らかいところから順に食う。


(いいさ、俺が弱いだけだ)


 納得している自分がいる。


駄目だ・・・


 背中から地面に叩きつけられながらも、諦めを拒む自分がいる。


 立ち上がった。

 立ち上がれた。

 脳内麻薬のおかげだろう、何故動けるのかは、もはや自分でも理解は出来ていない。

 割れた頭の傷口からは、視界を遮るほどの出血がある。

 最初に猪の顔を殴った側の腕は、いつの間にか変な方向によじれていて、まっすぐじゃなかった。


 肩越しに確かめる。


 真後ろに、少女が位置していた。


 そして最後・・の衝撃が、踏みとどまろうとした男の体をそこに突き放した。


/*/


 ぬるい深さ・・が、体の前面を浅く・・浸している。

 鼻をつく匂い。

 血の匂い。


 自分のものではない。本能からか、それだけはすぐに分かった。

 底にある土には砂利が混じっていて、片頬に細かく食い込んでいる。

 それで、気付け代わりになった。


 目を開くと、誰かの小さな体がすぐそばにある。

 酷い有様だ。穴ぼこだらけで、輪郭のところどころがギザギザに波打っている。


 立ち上がろう。

 そう思った。

 体が動かない。


 立ち上がろう。

 また思った。

 体は動かない。


(なんで俺は立とうとしている?)


(なんで俺は、こんなことを────?)


 自問すると、胸の奥が冷たく脈打った。


 そうだ。確かに自分は、怒っている。


 だから立つのだ。


 怒りを叩きつけるために、世界をぶん殴る、そのために。


 震える腕で、うつぶせの姿勢から上体を起こした。

 瞳に怒りを漲らせ、歯を食い縛り、空気の塊を肺から押し出して、吸い込み、動き出そうとした。


 ゆっくりとした振動が大地を踏みしめた足に伝わってくる。

 あの汚らわしい歪獣が、様子を伺うかのように後退し、突進のための十分な距離を取ったのだろう。


 を見据えるべく、限界まで見開いた目で、そちらを向こうとした。

 その足に、か弱く、短い、何かが絡みつく。


 引き止めるように男の足を掴んだのは、親指だけの、少女の掌。


「……りがと……」


 もう、大丈夫だから。

 あなたも逃げて──。


 そう、その唇が動いたのを、彼は確かに見分けた。

 少女は確かに、彼に向かって微笑んでくれていた。


/*/


 ああそうだ、俺は怒っている。


 怒り狂っている。


『だから』、何だって?


 こんな────


 こんな目に遭って、なお、こんなことを言える心の持ち主が。


 こんな目に遭う世界の、理屈だけの正しさ・・・なんて。


「弱い自分を納得させるためだけの薄っぺらい正しさ・・・・・・・・なんざ、認めていいわけ、ねえだろうがよ!!!!!」


/*/


 立ち上がろうとした足が、血のぬかるみで滑った。

 怒りでは、彼の体は立ち上がってはくれなかった。

 それどころか、足首をかろうじて掴んできた手すら振り払えずに、無様にも、少女の上に倒れかかってしまう。


 目を凝らすのを避けていた彼女の実態・・が、それで良く分かった。


 ほとんどがらんどう・・・・・の腹部の半ばから、腕で庇われているので、そこだけは無事な心臓が、剥き出しで空気に触れている。


 なぜ、それで生きていられるのだろうか。

 それほどまでして、命とは生きねばならないものなのだろうか。

 彼女の胸にぶつかってしまった頬を、その鼓動が静かに揺らす。


 名も知らぬ少女が最後まで庇おうとしていた瓜坊の死骸は、反動で、腕の中から転がり落ちてしまった。


「ぁ…………」


 心臓からではない、震えが伝わってくる。

 両腕が、失くしてしまった感触を探し求めてさまよっているのだろうか?

 だが、男の想像とは違い、その腕は、そっと、彼の頭を抱きしめてきた。


 血の抜けて、冷え切った体。

 肉の削げて、温度の伝わらない腕。


 それでもぬくもりが感じ取れる。


 心臓のぬくもりが彼を抱き寄せている。


 涙が出た。

 何故かは知らない。

 どうでもいい。


 何故、ここに居合わせたのか。

 何故、戦おうとし続けるのか。


 そんなことは、もう、どうでもよくなっていた。


 その鼓動が、もはや空気を震わせることすら出来なくなった喉の代わりに、少女の言葉を頭の奥まで響かせてきていたから。


/*/


 …………お願いです、神さま。


 私をあげるから、どうかこの人を。


 どうか、この優しい人に…………。


 私の命を、与えさせてください────────。


/*/


 赤く焼けた大地の赤に、決して混ざらぬ赤があった。


 とても小さな赤。


 正対する歪獣の、いまや四対の貪欲な目だけがそれを捉えている。


 峡谷を一段と強く吹き抜ける風にも揺れぬ赤。

 命のこぼれ出る濃い紅よりも、深くて強い赤。


 それは震える心の輝き。


「「────────」」


 少女の心臓から、男の頭部へと、赤い輝きは音もなく移り渡る。

 肉色の空洞の中、急速に色を失っていく心臓。


《?》


 いびつな獣は、僅かにしかない知性の、折角浮かべた疑問にも耳を閉ざした。

 立ち上がる人影に、トドメを刺せばいいだけだ。

 最初の獲物よりは頑丈だったが、これで食事の邪魔も止むだろう。そう思ったのだ。


《!》


 拳。


 鼻面に再び刺さった抵抗は、やはり野生の装甲を抜けることはない。

 最初と同じように、相手の体は跳ね飛んだ。


 だが、その人間は歪獣の予想を超えて立ち上がってきた。


 拳を振るった側の腕が、へし折れている。

 半ばから、縦に裂けた骨も突き出ていた。


 たたらを踏みながらも、その人間は、転ばず、崩れる体勢を持ち直させた。


 もう一度、突撃をかける。


《────!?》


 拳。


 三度、跳ね飛ばした。だが、相手は踏みとどまった。


 獣のいびつな知性に疑問がよぎる。

 屈強な頭蓋で弾いたはずの拳が、小さくしか赤く染まっていない。

 しかも、今度は相手の方もこちらに向かって踏み出してくる。


《!!》


 拳。


 重い衝撃が獣の足元まで抜けた。


 弾き飛ばせない。馬鹿な。


 それしきで意識が鈍るほど、か弱い肉体はしていない。

 だが、驚異だった。


 男は、踏みしめた自分の足元が、足の形に浅く凹んでいるのを自覚した。

 踏み込むほどの距離はない。だから、その場で再び腕を振りかぶる。


 拳で打つ。


 獣の頭が上下に揺れた。


 そこを、また、打つ。


 たじろがせる。


 打つ。打つ、打つ打つ打つ打つ打つ打つ打つ打打打打打打打打打打────。


 気がつけば、既に歪獣も、そしてその横に倒れたままの少女も、事切れていた。


「あぁ…………」


「あああ…………………………」


「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああーーーーーーーーーーーーーっっっっっっ!!!!!!!!!!!!!!!!」


 突風が、動くもののない草原を凪ぎ払う。


 それでもなお、言葉にならない咆哮の塊が、喉の切れるまで腹の奥底から衝き上がり、いつまでもいつまでも止まなかった。

大枠出来たので次は明日の夕方以降に投稿します。

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