6-9 ひっくり返る局面
予定ではここでエリザベス回は終わる予定でしたが、長くなったので分割しました。というわけで、来週も一応エリザベス回です。ただ、次回はオリオンが登場してそちらの色が強くなると思います。
拙作『お約束破りの魔王様』の方も是非ご覧下さい!
ーーーギルバートーーー
「追え! 者ども、追えーッ!」
部下たちを叱咤しながら、儂自身も馬を駆る。目の前には帝国の皇太女というこの上ない大物がいて、これを逃すなど論外だ。手に持つ金塊をドブに捨てるような行為である。儂はそんな愚を犯しはしない。馬に鞭を入れて急かす。しかし距離がなかなか詰まらない。儂の馬は国内で一、二を争う名馬だぞ? それが距離を詰めるどころか離されるなど……。
「ーー将軍! お待ちください!」
後ろから副官の声がする。何を言っているんだ、こいつは?
「待てだと!? そんなことできるわけないだろうが!」
追いつけない苛立ちもあり、つい声が大きくなる。だが副官は食い下がってきた。
「せめて速度を落としてください! 誰もついていけません!」
「むっ」
それは確かに。儂が乗っているような名馬についてこられる馬はそうそういない。このままでは部下を置き去りにしてひとりだけで追いかけるところだった。騎兵でさえついてこられないのだから、歩兵たちならばなおさらである。副官の言葉で少し頭が冷えた儂は手綱を少しばかり緩めた。と、そこで不思議に思うのが帝国の者たちだ。なぜ名馬に乗る自分が追いつけないのか。皇太女のみならず、ただの兵士にさえも。
「……まさかな」
儂はにわかに浮かんだ考えを否定し、再び追撃を始めた。今度は兵たちを置き去りにしないように。
ーーーエリザベスーーー
「殿下。無事のお帰りで……」
陣地へ帰ってきた私を大隊長が出迎えてくれました。時刻は夕暮れ。太陽は既に沈み、篝火を焚いていました。敵軍はこの陣地を見ると追撃を切り上げています。普通に逃げるだけだと距離が大きく開いてしまうため、時々足を止めて誘いをかける必要がありました。このとき敵軍と距離が詰まるので正直なところ気が気でなかったのですが、日ごろの鍛錬と何よりお父様が整備されていた近衛師団の装備が役立ちました。
私が乗るハクもそうですが、近衛師団に配備されている馬は特別です。大柄で、とにかく走るのが早いのです。もちろん持久力も申し分ありません。王国時代に軍馬として使われていた馬に乗ったこともありますが、鈍足でハクに比べると駄馬も同然でした。お父様曰く、西の彼方にいるサラブレッドという馬だそうです。現在、帝国政府の管理下で運営されている牧場で繁殖が進められていますが、まだまだ少数。そのため配備先も近衛師団の騎兵隊、騎兵旅団、各師団の騎兵一個中隊に留まっています。もちろん、将来的にはすべての騎兵隊をサラブレッド(去勢済みの牡馬)で統一する予定です。ですが、これはしばらく先になるでしょう。
「大隊長。準備はどうですか?」
「万端、整っています。皆が頑張ってくれました」
「そうですか。では、終わればそれに報いねばなりませんね」
第二特務大隊の隊員には栄典と昇進が適当でしょう。防衛戦につき召集されたナハの民たち(臨時編成の部隊扱い)も同様。それとは別に、お父様からの感状もつけていただきましょう。ーーですが、それらはすべて終わってから。今は目の前の敵に集中しないと。
「では深夜に作戦を決行しましょう」
今夜は満月。月が頭上に輝くのが合図です。
ーーーーーー
そして深夜になりました。念のために敵陣の偵察に出していた斥候が戻ってきて、敵は見張りを除いて寝入っていると報告してきます。私たちの妨害によって敵はろくに休めなかったため、疲労が蓄積しているのでしょう。戦いは移動を終えたその日が一番危ないというのに。ですが、私たちからすれば好都合です。溜まりに溜まった疲労を取るための休養ーーさぞかしぐっすりと眠っていることでしょう。頼みの綱である見張りも、今ごろは“影”に始末されているはずです。いつも私のことを陰ながら護ってくれている彼らの正体は帝国の工作員。正面からの戦闘は不得手ですが、暗殺などは超一流。疲れた敵兵など容易く排除してくれます。なので今の敵は丸裸。これほどの好機は今をおいて他にありません。指揮官たる私の最終判断は『GO』。これはすぐさま味方に周知され、A作戦ーー『暴れ牛』が発動されました。
ーーーギルバートーーー
儂の目覚めは最悪だった。この感覚はそう、親に無理矢理起こされるものに似ている。とにかくとても不快な目覚めだった。誰だ、大王国の将軍である儂にこのような不快な思いをさせた輩は? 手討ちにしてくれる。儂は表情を取り繕うこともせずに相手を睨めつけようと前を向く。そこにはベッドのシーツが見えた。……おかしい。儂はベッドで寝ていたはずだ。ならばなぜ眼前にシーツが見えるのか。今度は水平方向に首を回して後ろを見た。そこにはベッドの天蓋が。……絶対におかしい。そして足元には赤い絨毯。どうやらベッドが倒れた拍子に投げ出されたらしかった。脚が折れたのか? まったく。だからあれだけ丁寧にあつかえと言ったのに。とりあえず、担当者は死刑だな。とにかくこの状況をどうにかしなければならない。人を呼ぼう。話はそれからだ。
「おい! 誰かおらんか!?」
呼んでみるも、反応なし。妙だな。いつもなら出入口を警備している兵士か、雑用の奴隷が飛んでくるというのに。
ーーモー
代わりに聞こえてきたのは牛の鳴き声だった。……牛?
「牛だ」
立ち上がった儂は幕舎の中央に佇む牛を見た。なぜ牛が儂の幕舎にいるのか? わからん。だが邪魔だ。ここで殺してくれる。明日の食料の足しになるだろう。そう思い立った儂は、ベッドに立てかけてあったーーベッドが倒れたせいで床に転がっていたーー剣を取って抜き放つ。大王様から賜った、赤い房がついたものだ。大王国では装飾品の色も意味を持つ。紫は王族のみが使用を許され、臣下としては青が最上位。次いで赤、黄、白、黒となる。平民出身者で赤の装飾を許されたのは儂のみ。この剣はとても大切にしている。切れ味も抜群だ。さあ、これでその首を叩き斬ってやる。覚悟しろ、牛。
ーーモー!
「うわっ!?」
剣を持って近寄ると、興奮した牛が襲いかかってきた。儂は間一髪で避ける。突進した牛はビリビリッ! と幕舎の布を引き裂いて外へと出て行った。チッ。回避に気を取られて斬れなかった。
だが牛によって外がよく見えるようになると、儂は人を呼んで誰もこなかったワケを理解した。陣内は大混乱に陥っていた。どこからきたのかは知らないが、何頭もの牛が陣内を走り回っている。追われているのは兵士たち。彼らは果敢に立ち向かうが、牛の突進に飛ばされ、あるいは角に串刺しにされる。逃げ惑った兵士は篝火を倒し、近くの幕舎に火がついて大炎上。牛は稀に幕舎の柱に体当たりをして崩していく。
「落ち着け! 落ち着いて隊列を組み、牛を排除せよ!」
「ですが将軍! 火が燃え広がり、十分なスペースがありません!」
「牛が興奮して手がつけられません!」
副官や部隊長たちが一斉に言い募る。表現は様々だが、結論は何もできないということだった。とにかく指揮官には兵員の掌握を命じ、混乱の収拾を図る。まず兵を落ち着かせないことには行動ができない。火に関しては……そのままにしておくことにした。燃えるものがなくなれば消える。それに消火に使えるほど水がないという理由があった。ここから水場となる川は距離がある。兵を落ち着かせてから消火活動にあたるよりも、鎮火するのを待った方がいい。兵の掌握にはかなりの時間がかかることは容易に想像できるからな。それに兵を使わなければ消火活動などできはしない。儂の予想はピタリと当たり、兵員の掌握が完了したと報告があったのと、火が概ね鎮火したのはほぼ同時であった。
「被害の状況を確認。夜明けも近い。敵の襲来に備えて武器、防具は常に身につけるようにしろ。見張りも怠るな」
矢継ぎ早に指示を出す。夜が明ければ敵が来る。それまでに態勢を立て直さなければならない。そのためにはまず、どのような被害があったのかを知ることが先決だ。
「報告しますーー」
しばらくして次々と報告が上がる。それによれば死者は百余名。負傷者も約三百名。人的被害は思ったよりも少なかったが、頭が痛いのは兵糧だった。
「ほぼ全焼……だと?」
「はっ。食料を保管していた小屋や幕舎が焼け、小麦などの残りは今日一日しか賄えないそうです」
なんということだ。それでは戦術が束縛されてしまう。食糧がなければ速戦するしかなくなるではないか! 野戦ならまだいいが、攻城戦ともなれば被害は計り知れんぞ。
「一日一食として何日保つ?」
「三日ほどだそうです」
「ならばしそのようにしろ。儂から各隊に説明しておく。それと幹部を集めよ。これからの方針を話し合う」
これまではナハを攻略するという方針があったが、食糧が乏しく、眼前にはナハの守備部隊がいる。これに挑んで勝てるかどうか。被害を度外視するのなら従来の方針を変えないというのも手だが、攻撃目標を変えるか撤退する方が賢明だろう。だが儂の一存で決めるわけにはいかない。幹部たちと話し合う必要があった。
数分もしないうちに部隊長や参謀などの幹部たちがゾロゾロと集まってくる。だが、そこに儂は違和感を覚えた。ひとり、居そうな人物がいなかったのだ。儂は副官に訊ねる。
「紋章官はどうした?」
「今回の騒ぎで死んでいます」
そうか。死んだか。しぶとそうだったのに、意外と呆気なく死んだな。いけ好かない奴だったが、まあ弔いくらいはしてやろう。だがまずは目の前の敵が先決だ。幹部たちに集まってもらった理由を説明し、意見を募る。すると真っ先に出た意見は、
「このまま敵を打ち破るべし! これまで我らをさんざん苦しめてきたのです! 敗北を以ってこれに報いるべし!」
というものだった。発言者は軍閥系領主。この軍のなかで率いる兵が最も多く、彼の派閥の領主たちを含めるとその数は半数を超える。儂としても無視できない存在だ。彼は同意見の領主たちとともに主戦論を唱える。一方、
「自分は昨夜、遠目にですが敵陣地を見ました。小高い丘の上にありら柵や土塁が幾重にも重ねられ、空堀もあると想像できます。無理攻めは被害が大きく、また絶対に成功する確信もありません。ここは目標を変えるべきでしょう」
と消極的な姿勢を示すのは、大王様直属の軍団の指揮官(平民)だ。数は半数を割っているが、大王様直属ということもあり、領主たちに負けない発言力がある。一致団結すれば十分に物言える存在だった。もっとも団結すればの話だが。今回、彼らはイマイチ纏まりに欠け、同じ消極的な意見でも目標を変えるだけか、そもそも撤退するかで意見が割れてしまった。その結果、彼らは領主たちへの対抗馬とはならない。結局は力攻めをすることになった。さらに自軍を減らしたくない領主たちの思惑により、被害担当ともいえる先鋒は大王様直属軍団が務めることになる。はあ……。
ーーーエリザベスーーー
派手に燃え上がる敵陣が見えました。篝火が倒れて延焼したのでしょうか? 嫌がらせ程度の作戦でしたが、まさかここまで上手くいくとは思いませんでした。
私が立てた暴れ牛作戦はとても単純なものです。近くの丘の上に牛たちを入れた柵を作り、夕暮れに敵陣へ向かって解き放つというものです。事前に様々な工作が必要なので、近衛師団という精鋭がいたからこそ成功した作戦でした。
「大成功ですな、殿下」
「はい。これも皆さんが頑張ってくれたおかげです。ーーが、ここで慢心してはいけません。作戦が成功したからといって気を緩めないよう、全軍に徹底するように」
「はっ!」
大隊長は先程までのニヤニヤした笑みを引っ込め、キリッと締まった顔になって返事をしました。お父様が言うところの『スイッチが入った』状態ですね。そんな大隊長はとても頼もしく見えます。引き締めたところで次なる命令を下しましょう。
「ではB作戦に取りかかってください」
ーーーギルバートーーー
陣内で慌ただしく人が動いている。
「矢はこっちに集めろ!」
「急げ! 時間がないぞ!」
「領兵たちの出番なんか作るなよ。大王様直属軍団の強さを見せてやれ」
戦死の危険が高い役割を与えられたにもかかわらず、彼らは意気揚々と作戦の準備をしている。そこには領主たちにも負けない、確かな誇りがあった。儂はその光景を頼もしく見ていた。
「将軍!」
「どうした?」
「あちらを! 山を、ご覧ください!」
「急にどうしたーーっ!?」
副官が血相を変えて飛び込んできた。儂は訝しみながらも副官が指し示す方向を見る。そして言葉を失った。敵陣がある丘の、さらに向こう。山におびただしい数の旗が立ち並んでいた。帝国の旗だ。それが意味するところは敵の援軍。旗の数から推測すると万は下らない。兵数は互角か劣勢。これだけならまだ苦戦を強いられる程度だったが、我々には食糧がない。食糧がないということは、すなわち時間がないということだ。食糧が保つのはわずか三日。できれば今日、遅くとも明日には方針を決め直して動かなければならない。
「攻撃は中止だ。全軍、別命あるまで待機。幹部は直ぐに儂の幕舎へと集まるように!」
儂はすぐさま攻撃中止を決断した。相反する命令に困惑するかもしれないが、無理に攻めて大損害を被るよりマシだ。一層慌ただしくなる陣内。その喧騒を聞きながら、儂は独りごちる。
「万の援軍をこちらに気づかせることなく迎え入れるとは……。敵将は化け物か?」
まだ幼い子どもだと思っていたが、とんだ思い違いだったかもしれない。そしてその将来を思うと、背筋が凍る思いがした。
ーーーーーー
本日二度目となった会議は荒れた。領主たちは敵と戦うべきだという主戦論を、軍団側は引くべきだという非戦論をそれぞれ唱え、机を挟んで罵声や怒号が飛び交う。会議が過熱したのは軍団側の部隊長による発言だった。万単位の援軍の到来という事態に重苦しい雰囲気が漂うなか、彼は勇気を振り絞って発言した。
「将軍。ここは撤退しましょう。援軍がこれだけとは限りません。それに我が方は食糧が乏しく、これ以上は戦えません」
彼の意見はもっともだ。大陸の戦史上、万単位の軍勢が激突して一日で決着がついた例はあまりない。だいたい数日かけて何度も戦い、ようやく決着がつくのである。長ければ年単位に及ぶことさえもあった。では敵の領地のど真ん中にいる我々に同様のことができるかといえば、不可能である。手持ちの食糧は乏しく、補給もない。しばらくすれば崩壊するだろう。敵からすれば、進んで我々と戦う必要はない。放置しておけば勝手に瓦解するのだから。我々が望む決戦になる可能性は低い。そこで何かしらの策を講じること必要となるのだが、時間的な猶予がないため手段は限られてくる。
「問題は食糧だ。食糧さえあればなぁ……」
儂も軍団側の者たち同様、撤退すべきだと考えている。だがせっかく敵地へと侵入したのに撤退するのは口惜しい。だからついついそんな言葉が口をつく。それに反応したのはある領主だった。
「食糧ならあるではないか。目の前に!」
そんなことを言う領主に、猜疑の目が四方八方から突き刺さった。そんなものはどこにある? キリキリ吐けや、と恐喝にも似た雰囲気が漂っている。それは彼の味方であるはずの領主たちからも出ていた。内心では戦いたいだろう彼らも、食糧問題を解決できないがために黙っていたのだ。その分、期待は大きい。仲間内の期待を一身に背負った領主は自信満々に、
「敵陣から奪えばいいのだ。どうせたんまり貯め込んでいるだろう。なに、あんな小さな陣地、小一時間もあれば容易に落とせる」
とのたまった。途端に期待は落胆へと変わる。なるほど敵陣に食糧はあるだろう。だが、空堀に馬防柵、土塁という防備が少なくとも三重に施され、逆茂木によって侵入路が著しく制限されているちょっとした城のような陣地を小一時間で落とせるとは誰も考えていない。防がれているうちに援軍が横合いから襲ってくるのは必至だ。
「それは無理だ」
同じ結論に達したらしい領主たちの親玉だった。さすがに彼に否定されるとどうしようもないらしく、発言した領主は引き下がる。ではどうするか、という雰囲気になりかけたところで親玉は言葉を継いだ。
「そこで考えがある」
そう言って作戦の説明を始めた。すると誰もがなるほど、と頷く。というより、今の今までなぜ誰も思いつかなかったのか不思議になるほど、単純かつ効果的な作戦だった。これには消極的な軍団側も賛成し、満場一致で作戦は採用された。
ーーーエリザベスーーー
早朝。目覚めた私はまず両手を上げて伸びをします。そんなはずはないのですが、体の凝りが解れるような気がするのでついやってしまいます。一拍置いて呼び鈴を鳴らせば、お付きの侍女(戦場なのでメイド服ではなく軽鎧姿)が入ってくる。その手には銀のトレー。そこから強烈な芳香が漂う。その正体はコーヒー。紅茶も嫌いではないけれど、朝はやっぱりコーヒーです。ただ、そのままだと苦いのでお砂糖を入れています。本来なら牛乳を入れるのがいいのですが、ここは戦場。日持ちしない生物はあまり持ち歩きません。なのでこれで我慢です。そもそもこのような嗜好品を味わえるだけでも贅沢なのですから。
朝の一杯を終えると、侍女が練習着を用意しています。それに袖を通し、幕舎の外へ出ると既にウィリアムたちが待っていました。全員、私と同じく練習着を着ています。
「では始めましょう」
そう言って私たちは日課である朝の鍛錬を始めました。これはもはや習慣になっているので、戦場でも続けています。まずは軽くランニング。そして体操とストレッチをして、早速打ち合いを始めます。お城でなら馬術の訓練も入るのですが、戦場では軽々しく外には出られないので省略です。
「せいっ!」
「やっ!」
まずエドワードとメアリー(オーレリアの娘)が打ち合う。姉弟のなかでも二人は飛び抜けて強いです。武門の名家であるキャンベル侯爵からも褒められるほどの腕前で、成長すれば帝国最強になるといわれています。エドワードはともかく、メアリーが強いのは意外でした。なぜなら、その生母は事務畑の家であるボークラーク家出身のオーレリアお母様。血筋的に荒事方面は苦手だと思っていました。お父様も同意見だったようで、指南役から話を聞いたときには『トンビが鷹を産んだ』と評したとか。言い得て妙です。
とにかくこんな調子で朝食の時間まで打ち合います。そこに一切の手加減はありません。木剣を全力で振り、時には体術も絡めて実戦さながらの鍛錬をします。この練習着はお父様謹製。特殊な素材や技術が用いられていて、木剣程度の衝撃はまったく感じません。だからこそ全力で打ち合いができるのです。禁止されているのは顔を狙うことだけ。さすがに顔まではカバーできなかったようです。
朝の鍛錬を終えると、それぞれ魔法で水を生み出して身体を洗います。帝国軍は衛生面も充実しており、身体を洗うための幕舎(男女別)さえあるのです。お父様は戦場でお風呂を作って入ったとも言われています。……ちょっと羨ましいです。今度、お願いしてみましょう。
水浴びをしてさっぱりした私たちは、用意されている朝食を食べます。メニューは兵士たちが食べているものと同じ。他国の軍人が訪れているなどの特殊な事情がない限り、将兵の食事はすべて同じです。その方が効率がいいですからね。だからこそ一体感が生まれ、一体感は精強な軍隊を生むーーとはお父様の弁です。
そんな風にいつも通りの朝を過ごしていた私たちでしたが、落ち着いて見てみると陣内が少し慌ただしい雰囲気に包まれています。私は侍女に言って大隊長に訊ねに行かせました。すると数分後、侍女は答えではなく大隊長を伴ってやってきました。
「何が起こったのですか?」
不要な語句を一切省き、単刀直入に訊ねます。私もそうですが、お父様以下多くの皇族は貴族らしいまどろっこしい言い回しを嫌う傾向にありました。大隊長も心得たもので、私が求める簡潔な答えを提示してくれます。
「敵が動きました」
「攻めてくるのですか?」
「いえ。移動するようです」
「撤退するのでしょうか?」
だとしたらB作戦ーー『幻』が功を奏したのでしょう。ナハの民たちに旗を持たせ、目立つ山の頂上に向かわせました。元気な方には鎧を着てもらい、一層それっぽく装っています。遠目でしか見れませんから、強いかどうかではなく『山上にたくさんの兵がいる』という事実か重要なのです。山上に突如として無数の旗が翻ったことから、敵は私たちに援軍が来たと錯覚したはず。あとは回れ右して帰ってくれれば完璧です。
「残念ですがーー斥候の動きから推測すると、北へ」
ですが、今回は不発に終わったようです。たしかに敵にショックを与えることはできたようですが……まさか北ーーつまり帝国の中心部ーーへ向かうとは思いもしませんでした。ショックが強すぎて狂乱したのでしょうか? どう対応したものかと思案する私に、大隊長はニヤリと笑います。
「大隊長。今は敵への対応を考えないとーー」
「わかっています。ところで先ほど早馬が来まして、殿下にこれを渡すようにと」
「早馬ですか? 何でしょう」
訝しみながら文を読み、その内容にまず驚き、次に歓喜します。これならーー。私は瞬時に大隊長の笑みの理由を理解しました。そして新たな作戦も思い浮かびます。
「返事を書くので、それを持たせて至急原隊に戻らせなさい。大隊はこの陣地に負傷者と第二中隊を残し、移動します」
と、即座に命じました。




