【閑話】竜之国2
ーーーチュ・ミンスーーー
「くそっ!」
朕は激情に任せて机の上に積まれていた書簡を投げ飛ばす。
ーーバキィッ!
と木簡が大きな音を立てて割れた。
「いかがなされましたか、陛下!?」
「うるさい! 下がれ!」
侍従が飛び込んでくるが、それも追い払った。
「くそっ! くそっ!」
朕の憎悪は尽きない。
思い浮かぶのはあの使者の顔だ。にこにこと人のいい笑みを浮かべておきながら、交渉では一切譲歩しない。ここまで虚仮にされたのは初めてだ。
腹が立つ。朕は心のままに暴れた。少し落ち着いたころ、その絶妙なタイミングで話しかけてくる者がいた。
「ーー陛下」
「ヨンスか。いかがいたした?」
「陛下がお怒りだと聞いて、あの使者が原因ではないかと思ったのです」
「ああ。その通りだ」
別に隠すことでもないので、あったことをありのままに話した。するとヨンスは怒りを露わにする。
「何ですかそれは! 陛下のお気持ちも理解せずに!」
「そなたもそう思うか?」
「はい。想像以上に野蛮な輩ですね。本当に人なのでしょうか? わたくしには人の姿をした獣に思えます」
「面白い表現だな」
ヨンスはよく気が回る。他の妃よりも利口であることは好ましい。
「ですが、陛下のお気持ちを蔑ろにしたことは、天帝様に対する冒涜も同然。地上の統治者として成敗する必要がありますわ」
「そうだな。朕も討伐軍を派遣するつもりだ」
今すぐに、というわけにはいかない。先帝から引き継いだ征西事業は終わったが、我が国の全力を挙げたものだった。その回復を待つ必要がある。船も必要だ。
……三年後だな。兵力は十万。大将はボンギルに任せればいい。軍監には弟のボンチャンをつけよう。あの者は竜之国に行った経験があるからな。案内役にもなるだろう。
「陛下。どうかご無理をなさらないでください。玉体が損なわれるようなことがあれば大変ですから。特に気疲れはよくないと典医が申しておりました」
「そうなのか。気をつけねばなるまいな」
ヨンスが言う通り、無理をして身体を悪くするのはよくない。朕はこの国をもっと盛り立てねばならないのだから。
それに、後継者の問題もある。朕の子どもはまだ幼く、これといって優秀な者もいない。一族や外戚の専横が始まる可能性もある。後継者が固まるまでは在位し続けなければ。
「最近、根を詰めすぎていたかもしれぬな……」
竜之国をどう丸め込み、その技術を手に入れるかで日夜悩んだ。結果はこの通りだがな。
「そんなこともあろうかと、典医に気疲れを取る方法を教えていただきました」
「気が利くではないか。それで、どうすればよいのだ?」
「共寝がよいそうです」
「そうか」
と言いつつ、朕はヨンスを抱き寄せた。
共寝は気疲れを癒してくれるというが、子どもを作る行為でもある。皇帝たる朕にとって、子どもーー特に女子ーーはいくらいても困ることはない。まさしく一石二鳥だな。
「やん」
尻を撫でてやれば、いい声で啼いた。
「へ、陛下。このようなことは……」
「よいではないか。よいではないか」
「ふぁ、あん。陛下ぁ、せめて寝所で」
目尻に涙を浮かべながら懇願してくる。
「そうだな」
ヨンスの願いに応え、続きは寝所でやることにした。日は高いが、政務は切り上げである。そして、朕もまだまだ現役だと感じた。
ーーーチャン・ヨンスーーー
「はあ、長かったですね……」
わたくしは重い身体を引き起こし、そう呟きます。陛下は少しお年を召されていますが、激しく、すっかり疲労困憊にさせられてしまいました。……香に興奮作用のあるものを使ったのがいけなかったのでしょうか? 終わったあと、すぐ別の方のところへ行かれましたし。
「いけない。こんな時間」
窓からさす日が茜色になっているのを見て慌てました。今日はボンギル兄上がいらっしゃるのです。時間は夜ですが、湯浴みをして臭いを落とさないといけません。召使いを総動員し、大慌てで準備します。兄上がいらっしゃる前になんとか終わらせることができました。
「いらっしゃいませ、ボンギル兄上」
「ヨンス、元気か?」
「お陰さまで。兄上もお変わりないようで何よりです」
と、最初は当たり障りのない話をします。まったく不自然ではありません。事実、わたくしたちが会うのは数ヶ月ぶりのことなのですから。こうして召使いがお茶を淹れて下がるまでの間を潰します。
「上手くいっているか?」
「はい。最近は進言も簡単に受け入れてくれるようになっています。気に入られているようで、今日は共寝に真っ先に指名されました」
催眠は陛下とお会いする度にかけています。気にならない程度にゆっくりと。その効果が最近現れ、わたくしの思い通りに動いてくれます。
副産物として共寝によく呼ばれるようになりました。以前は慣習に従って、といった様子でしたが、最近は二日と空けずに呼ばれます。もし子どもーーそれも男の子が生まれたら……有力貴族になるどころか、それ以上のことだって。
「陛下は竜之国の使者にお怒りのご様子でした。部屋を滅茶苦茶にして、召使いたちを怒鳴って、手がつけられなかったそうです」
「それはまた……」
ボンギル兄上は苦笑いされました。陛下の義弟としてお側に仕えている兄上は、それが異常であることがわかっています。怒りを露わにされることは本当に珍しいのですから。
「ところで、兄上たちは何を?」
「オレは近衛軍の他に、造船の監督を任されている。ボンチャンは礼部尚書に任じられて主に竜之国との外交にあたることになった。戦争になればオレが大将、ボンチャンは参軍になるはずだ」
「そうなのですか」
あまり興味がないので聞き流しました。わたくしは立ち上がり、棚から手に入れた竜之国で作られた品物を手に取ります。扇子と呼ばれる扇はパタパタと折りたたむことができ、コンパクトで持ち運びに便利です。螺鈿細工は煌びやかでわたくしのような貴人に相応しく、鮮やかに絵つけされた白磁の壺も見事です。この他、今身につけている髪飾りもあの国で作られたものです。戦争の準備なんかよりも、この見事な品物がいつ手に入るようになるのか知りたいですね。
「兄上。竜之国にはいつ攻め込むのですか?」
一年後くらいでしょうか?
「少なくとも三年後だな」
「長いですね。すぐに出兵できないのですか?」
「無理だな。前回の戦争が長かったというのもあるが、一番は船だ。海を渡らなければならないが、これを造る必要があるからな」
「それで兄上は造船の監督を任されているのですね」
「そういうことだ」
と言われても納得できません。できるだけ早く手に入れたいものです。何とかならないでしょうか?
「商人たちから船を取り上げるなどしてもっと早く攻められないのですか?」
「……問題は海を渡らなければならないことだ。それさえクリアできればなんとかならないこともない」
「例えば?」
「竜之国の領主が協力してくれれば……」
「探しましょう!」
早いに越したことはありません。ボンチャンが礼部尚書(職掌は礼制と外交)になるのですから、活動はしやすいはずです。
「わかった。探してみよう」
ボンギル兄上はわたくしの提案に頷いてくれました。
そして二年後。ボンチャンの職権を使い、竜之国周辺を探ったところ、協力者が見つかりました。竜之国の隣にある悪路異奴王国の貴族だそうです。名前はーー忘れました。どうでもいいです。大事なのは、これによって船ができるのを待つ必要がなくなったことなのですから。
「チャン・ボンギルよ。そなたを征東大将軍に任じ、兵十万を与える。皇帝を僭称する蛮族を討ち滅ぼして見せよ!」
「ははっ! 必ずや!」
ボンギル兄上は陛下から将軍の証である印綬、皇帝の代わりに軍を動かすことーー将軍の命令はすなわち皇帝の命令だということーーを示す剣を受け取ります。
「チャン・ボンチャン。竜之国に赴いたことのある実績を評価し、そなたを参軍に任じる。ボンギルを助け、軍を勝利に導け」
「非才の身ですが、全力を尽くします!」
ボンギル兄上とボンチャンの姿を、わたくしは陛下の近くで見ていました。
この二年で陛下にかけた催眠は完璧なものとなり、おかげでわたくしの地位は大きく向上しました。後宮のなかで一番の寵愛を受け、その証に子ども(皇子)も産まれています。
高官たちは陛下の心象をよくしようと、たくさんの贈り物を届けてくれます。それに応じて陛下に進言すれば、『お礼』としてさらに贈り物が。
大貴族たちのこの態度に、わたくしは笑いが止まりません。逆に、贈り物をしない輩は排除します。そのような堅物がいても面白くありませんし。
宰相のヒョンシクなど、わたくしを快く思っていない代表のような人物でした。しかしこの粛清を見て、娘婿にボンチャンを迎えて懐柔に乗り出したほどです。これは次の宰相を任せるという意思の表れでしょう。国内に敵なし、ですね。
こうして政治的にも大きな権力を握ることになったのでした。あとは兄上たちが竜之国を降して優れた品物を生み出す技術を獲得し、その功績で外戚としての地位を確立するだけです。そうすれば、現在の皇太子を排してわたくしが産んだ皇子を立てることもできます。
「二人とも。頑張ってくださいね」
わたくしの期待を乗せ、兄弟は軍を引き連れて海を渡りました。




