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はじまりの日〜喫煙所 その3まで

僕は時たま、思い出す。

若宮町で過ごした、2ヶ月ちょっとのあの日々を。

そこで過ごした記憶は、毎日が変わったことばかりで、そして、少しだけ輝いていた。

だからこそ、思い出す。

名古屋、それは僕にとっての大都会。

僕の常識が当てはまらない、非日常の毎日。

その中でも若宮町は、都会の隙間に根付いた、名前も知らない植物のような場所であり、夢を見られる場所でもあった。

僕は時たま、思い出す。

若宮町で過ごした、2ヶ月ちょっとという、長くも短い研修生だったあの日々を。

僕は時たま、思い出す。

若宮町(わかみやちょう)で過ごした、2ヶ月ちょっとのあの日々を。

そこで過ごした記憶は、毎日が変わったことばかりで、そして、少しだけ輝いていた。

だからこそ、思い出す。

名古屋、それは僕にとっての大都会。

僕の常識が当てはまらない、非日常の毎日。

その中でも若宮町は、都会の隙間に根付いた、名前も知らない植物のような場所であり、夢を見られる場所でもあった。

僕は時たま、思い出す。

若宮町で過ごした、2ヶ月ちょっとという、長くも短い研修生だったあの日々を。



その1、名古屋

僕が持っていた名古屋のイメージは、味噌、手羽先、中日ドラゴンズ、あとは最近できたレゴランドとかいうテーマパークくらいのものだった。

もうちょっと言うと、東京と大阪に次ぐ大都会というイメージもあるにはあった。

僕は生まれも育ちも北海道、根っからの道産子ではあるものの、田舎っぺという訳でもなく、かの有名な北海道が生んだ大スターの大学の後輩なので、実家のある千歳市(空港が有名なあの千歳市だ、空港以外何にもないけど)から札幌に毎日のように通っていた。なので、ある程度は都会というものに免疫があるつもりだったし、名古屋も札幌も同じようなものだろうと読めていた。

正直、そんなにビックリするようなこともないだろう、と高を括っていた訳だ。

まぁ、実際は、何かとカルチャーショックの連続で、初めて東京に遊びに行った時よりも衝撃の毎日だったのだが。

何がカルチャーショックだったかというと、それはそれは思い当たる事が多すぎて、とても一言で言えるものではない。なので、ここで少しずつ、僕が体験した名古屋というものを、特に、若宮町というものを語っていきたいと思う。

でも、その前に一つだけ、お願いがある。

ここで語るお話は、全てが実体験に基づくものであり、ただの一個人の感想である。だからこそ、全てを鵜呑みにはしないで欲しい。

こんなものは物語や小説なんて大層なものでもない、ただの日記のようなものだ。読んで何かが得られる訳でもないし、何の得にもなりゃしない。

それでも、というのなら。あなたの貴重な時間と引き換えにしても、片手間にでも覗いて貰えたら。

その上で、若宮町という土地に少しでも興味を持っていただけたのなら。

こんなものでも書いて良かったと思えるのかもしれない。


その2、初上陸

名古屋に僕が引っ越したのは、4月末の土曜日の事だった。

初めて乗った新幹線に興奮してしまい、大分浮き足立った状態で降り立った名古屋は、僕の想像より少しだけ都会だった。

どこらへんが都会かって、名古屋は人が多かった。流石に東京ほどではないが、札幌よりは多い感じがした。

いや、人が多いというより、名古屋駅の人口密度が非常に高いというのが正しいのかもしれない。どれくらい高いかというと、前を向かずに歩くと5秒以内に人とぶつかるくらいにはいつも混んでいる。実験というか、実際にやってみたので間違いない、ハズだ

都会を感じるといえば、駅を東に出ると、意味も無く巨大な金属製の螺旋のオブジェが幅を利かせているのも、田舎にはない光景だ。何の意味があって、駅前のあれだけ広いスペースを占領しているのだろうか、はじめの頃はとても気になったものだ。

まぁ、そこまでは別にどうでもいい事だし、都会のやる事はよく分からないなぁ、程度の事だった。

しかし、駅を西に出た時、僕は衝撃を受けた。目に入ってきた光景に、まさか、と思った

駅の西、名古屋の中心ともいえるような場所だというのに、目の前には歓楽街が広がっていた。具体的にいうと、キャバクラやら何やらの女の子の店は勿論、夜の街の道しるべである、無料案内所まであった。

ここで、名古屋に降りて発した第一声を、僕は今でも忘れていない。

「え、すすきのじゃん」

…すすきのの、特に、ディープな街並みが駅前にあるという事は、道民には信じられない事だった訳だ。


3、太閤通り

札幌の歓楽街、すすきの。

どこを見ても飲み屋や遊べるお店がある素晴らしい街だ。道民の夜の街。ザ・歓楽街といった街だ。

ここ、名古屋駅西口を出てすぐに見えるこの一帯の通りは、太閤通り(たいこうどおり)と言うらしい。

その時はお昼前の10時頃だったので、太閤通りのお店のはほとんど準備中だった。すすきのも、流石にこの時間帯はほとんどのお店が閉まっている。当たり前ではあるが、歓楽街とはそういうものだ。

夜がメインとなる歓楽街の、この、開店前の閑散とした、どこか廃退的な雰囲気が漂う感じは、嫌いではない。飲み屋のチラシが道端にチラホラ落ちている所とか、どこからともなく飛んでくる酸っぱさの混じった匂いとか、電気の通っていない看板が並んでいるのとか、眺めているだけで湧き上がってくるものがある。それが、男という生き物だ。

でも、すすきのと太閤通りでは、大きく違う点が一つある。

先ほども言ったように、すすきのは札幌駅を地下鉄に乗って南に二駅乗り継いだ先にある。歩きだと、20分以上はかかる程の距離が離れている訳だ。札幌駅周辺にも飲み屋はあるが、一応、駅前通りとかはオフィス街が中心になっていて、東京駅、もっと言うと、品川駅に近い街並みと言えるだろう。あんなに人は居ないけれど、例えて言うなら、の話だ。

しかし、この太閤通りというものは、名古屋駅を西口から一歩出た、目と鼻の先にある。

駅前が歓楽街という事は、この駅は夜をメインとした駅なのだろうか?

日本で五本の指に入るであろう程の大都会、名古屋が、である。

歓楽街の、特に飲むだけでなく、遊べるお店があるようなディープな店が並ぶ所は、言ってしまえばオフィス街とは対極の位置にあって然るべきというのが僕個人の考えだ。つまり、都会であればあるほど、中心に当たるような駅と、そういったお店とは決まった距離を置くべきだと思っていた訳だ、この時までは。

僕は文字通り、カルチャーショックを受けた。

名古屋とは、オフィス街と歓楽街とが隣り合って生きている街なのか、と。

駅を境に、東側と西側でここまではっきりと区切られるものなのか、と。

ショックで混乱した頭のまま、一応、念のために、良さげな店のパンフレットを何枚か頂戴して、僕は太閤通りを歩き去った。

混乱しておいて、何でパンフレットを取れたか。

こんなんでも、大学時代の4年間は隙あらばすすきのを歩いた人間だ。夜の街の下調べは怠らない。

夜の街を何も考えず歩くのは二流、知った上で歩くのは一流、そして、何も考えずとも歩けるのが超一流、だ。


4、若宮町へ

太閤通りを抜け、幹線道路沿いの道を、西に真っ直ぐ歩く。

この時、僕はキャリーケース片手に行動していたので、まずは荷物整理をするために、新たな自分の部屋になる社宅へと向かっていた。

ここ名古屋で、僕は2ヶ月ちょっとの間、新入社員研修を受けるために腰を据える事になった。

道中、辺りを見回すと、あの伝説の手羽先屋の看板が見えた事に少し感動したものだ。きっと、いつかは行く機会もあるだろう、なんて楽しみに思っていた。結局、一度も行かなかったけど。

駅から20分ほど歩くと、大きな十字路にぶつかった。地図によると、社宅はこの辺りのはずだ。

道路を挟んだ反対側、僕が今いる北東側(十字路を中心に考えて)から北西側に道路を渡りたいのだが、そこへ向かう道は地下へ続く階段と、歩道橋の二通りあった。パッと見、道路には横断歩道のような縞々が書いてあり、渡ろうとしたのだが、脇に立っていた看板に自転車専用と書いてあったので、諦めて大人しく歩道橋を渡る事にした。正直、こういう時のキャリーケースはただの重しでしかない。

歩道橋を渡り終えると、目の前にはリハビリセンターだかと書いてある大きな建物があり、その裏手に回ると、ようやく到着した。

僕が住む2階建てのマンション?アパート?が。

こうして、僕の不思議な体験は幕を開けた訳だ。

あの、名古屋市中村区若宮町で過ごした日々が。


5、買い出し

部屋の機材やらなんやら(借り上げ社宅のマンスリーマンションなのでテレビなどの生活家電一式は全部揃っていた)の確認を終え、とりあえず買い出しだ!と意気込んで僕は外に出た。

しかし、右も左も分からない僕はすぐに立ち止まる。さて、ここからどうするか。

今の世の中、ネットで調べれば何でも分かってしまう。だからこそ、初めて来た土地でとりあえずとばかりにグーグルさんやらに頼るのは二流のやり方だ。こういう時は僕なりの流儀というか、やり方がある。

僕のやり方、それは地元の方に聞いてしまうというものだ。ネットの検索なんかよりもよっぽど合理的であり、一番間違いのない方法だと思っている。

ということで、僕は通りすがりのランニング途中のマダムに声をかけた。

「すいません、ここら辺で買い物ができる所(できればスーパーとか、最悪コンビニでもまぁ…)ってどこにありますか?」

「ここら辺には全くないよ。あっち(南西)にしばらく行くと大きな所があるけど、ちょっと歩くかな」

幸い、僕はこのマダムの半分以下の年齢だろうから、ちょっとやそっとの距離を歩くくらいどうってことない。とりあえずそこに行く事に決め、マダムにお礼を言った。

早速出発だ、と軽快な足取りで歩き始めた僕は、今と違ってとてもエネルギッシュだったろう。新天地(2ヶ月ちょっとだけど)での新生活(2ヶ月ちょっとだけど)の最初の準備だ、気合も入らない訳がない。

僕は歩いた。

更に歩いた。

しばらく歩いた。

そうして、ようやくそれらしい大きな建物が見えて来たのは、30分以上歩き回ってからの事だった。途中、歩きながらもあのオバサン嘘つきやがったな、とか思っていたが、嘘では無かったことに安心したものだ。

まぁ、着いたのだから何の問題も無い。むしろ、もしまた会えたら感謝すべきだろうな。まずは水と、お茶と、あと何買わなきゃいけないかな、なんて考えながら店頭に向かった訳だ。

しかし、店頭に着き僕は驚愕した。そして、絶望した。

…マダム、ここ、ホームセンターだべさ。

仕方なくセール品の箱ティッシュを二個だけ買って、僕は再び30分の道のりをトボトボと歩いて帰った。

ティッシュのビニルは妙に手に食い込んでとても痛かったこと、それとあのオバサンへの恨みを僕は今でも忘れない。

…説明不足?いや、道民と名古屋民の県民性の違いだな、うん。


6、十字路について

ティッシュを持ち帰ってから近所を散歩して、ある程度自宅周辺がどうなっているのかが把握できたので、一度整理してみる。

まず、この辺りは十字路を起点にして捉えるのが一番分かりやすい。なぜなら、駅から歩いてくる時にも見つけたが、この十字路の4つの角には、全てに地下へ続く階段があることに秘密がある。階段を降りると出るのは、地下鉄桜通り線の中村区役所駅という所であり、4つの階段の全てが中で繋がっているからである。

地下鉄の路線は名古屋駅は勿論、その先へと長く続いており、移動を考えるならとりあえずこの駅から、という環境になっていると言える。まぁ、部屋から歩いて5分もあれば地下鉄に乗れてしまう環境というのは、それなりには便利だと思う。悪くない。

また、それと関係があるのかは分からないが、北東と北西を繋ぐ自転車専用通路以外の三つの角を繋ぐ横断歩道は、普通の信号のついた、ただの歩道だった。何でだ、不便じゃないか。そもそも、自転車専用通路って何だ。今更だけど初めて見たぞ、そんなもの。

話を戻す。十字路を中心に考えて、駅に繋がる北東ブロックの角には、デカイ葬儀屋のビルと中村区役所が並んで建っている。道なりに東に真っ直ぐ行くと、朝歩いてきた道を戻る形になり、名古屋駅に辿り着く。ちなみに、葬儀屋のビルの隣にはデニーズというファミレス?(北海道にデニーズは無い、多分)があるので、何度かは行く事になるだろうと思っていた。実際、山ちゃんと違って本当に2、3回は行った。近所だし。

北西ブロックの角には、これも先ほど見かけたリハビリセンターとやらがあって、その裏に僕の部屋がある。あと、道なりに西に少し歩くと餃子が美味しい中華チェーン店を見つけたので、とりあえず今日の晩ご飯は決定した。それ以外には特に無さそうな印象で、もっと北西の方を次の休みにでも探索してみようと計画中だ。

南東ブロックには小さなうどん屋?があって、なぜか常に行列が出来ていた。そんなに美味いのだろうか、一度食べてみないといけないな。他には、特に何も無さそうだ。

最後に、南西ブロック。先ほどまで散々歩かされた方角だ。角は空き地というか、駐車場みたいになっていて開けている。南隣には謎の中華屋さんがある。すごい本格的なお店だった。そして、西側の並びにはクリーニング屋と7のマークのコンビニ、それと、しばらく気がつかなかったが、小さなスーパーがある(マダムよ、なぜ新入りにそこまで意地悪をするのか)。言わずもがな、この並びは研修で2ヶ月ちょっとだけ近所に住む独り身の僕にとっては天国のようなラインナップであり、生活の基盤になるものだった。具体的には、コンビニには毎日通い、存在を知ってからはスーパーにも週一で通った程だ。それ位有り難い並びだった。

まとめると、僕が2ヶ月ちょっと生活する分には困らない、むしろ住む分にはもってこいの立地だと言えるだろう。十字路周辺だけでなく、探索範囲を広げたらもっと面白いものがあるかもしれないので、そこはお楽しみだ。

とりあえず、僕は王しょ…、中華チェーン店に向かう事にしよう。何事よりも、食欲は全てにおいて上回る。経験上、どんな時においても満腹にして寝ること以上の幸せは無いはずだから。

ちなみに、王様を名乗るだけあって、餃子の味は全国共通で美味しかった。


8、名古屋走り

名古屋といえば、名古屋走りが思い浮かぶ人も多い事だろう。

調べると、何やら色々細かなレギュレーションが出てくるが、そんなものは置いておいて、とにかく危険だというのは道民の僕の耳にも届いていた。そして、名古屋に越してくるまで一番心配していたことだったと言える。

まぁ、こういうのは大体が誇張した表現で伝えられるものだし、鵜呑みにして良いものでは無いというのが僕の持論だ。人間、人に伝える時に1を10にして伝える人もいれば、100にして伝える人もいる。ネットに書かれている事なんて尚更だ。赤信号ど真ん中で突っ込んでくる車がいるだの、歩道を走る車がいるだの、そんなの、いたとしても例外中の例外に決まっているだろうに。

では、何を信じればいいのか、という話だが、この際、実際に体験した僕がどれだけ危険かを誇張抜きで伝えようと思う。1を1として、10を10として嘘偽りなく伝えよう。

ズバリ言うと、交通ルールさえ守ってればまず危険という事はない。信号さえ守って、左右を確認して渡れば、まず大丈夫だ。というか、それで大丈夫でなければ、名古屋は法治国家である日本に含まれないことになるし、当たり前の話ではあるのだが。

絶対に安全、とは言い切れないが、これは名古屋に限った話ではないし、少なくともネットに書かれたような世紀末のような光景が常日頃広がっているという事は無い。僕の経験した限りの話ではあるが。もしかすると、郊外は世紀末なのかもしれない。

ただし、名古屋にいながら長生きしたい、少なくともまだ生きていたいという歩行者は、そこに加えて一つだけ守らなければいけないルールがある。

それは、信号が青に変わってから、1、2、3、と3カウント待ってから歩道を渡らなければならないということ。このルールを守らないと、「今、待ってなかったら引かれてたんじゃないか?」、という経験を僕は2日に1回はしている。それ位、大事なルールだ。

名古屋走り、名古屋のドライバーの何が危険か。レースゲームのようにスタートダッシュを切るからではない。そんな人はごく稀にいる程度の話だ。

それ以上に問題視すべきは、赤信号になってもまだいける、という感覚が異常なまでに緩い点だろう。

他都道府県のドライバーの多くは、正面の信号が赤になったら停まる。というか、黄色になったら行けるか、行けないかを状況を見て判断するのが一般的だ。しかし、名古屋に限っていえば、「前の車が行けたから自分もセーフ」、「正面の信号は赤になったけど、まだ横方向の信号が青に変わっていないからセーフ」といった感覚で運転しているというのが見てるだけでも伝わってくる。

その為、歩行者が3カウント待たずに歩き出すと、「自分はセーフ」だと思って突っ込んでくる右折車なんかに引かれそうになる、最悪、引かれてしまう、という仕組みになっている訳だ。

ぜひ、名古屋を歩く際は3カウントのルールだけは守って欲しい。なぜ、道交法では基本的に歩行者優先のハズなのに、歩行者が追加ルールを守らなければいけないのか、なんて考えてはいけない。名古屋では、そんな事を考えながら歩いている隙にも、車はどんどん突っ込んでくるものだから。

ただ、3カウントルールどころか、交通ルールを歩行者側が守らなかった場合、安全の保証はどこにもない。

信号のない道路を無理に渡ろうとして車に轢かれた人を、僕は3回も見ているからそう言い切れる。それも、たった2ヶ月で、だ。

ちなみに、1度だけ、歩道を爆走するバイクはいた。目の前を猛スピードで過ぎ去ってから、どうなったのかを知る由はないけど。あながち、ネットも間違ってはいないものだ。


7、名古屋の洗礼

僕は今でもはっきりと覚えている。

名古屋で、若宮町で初めて洗礼を浴びた日の事を。

忘れもしない、あれは4月最後の火曜日、僕が名古屋に越して4日目の事だった。

僕が名古屋にいるのは、研修生だからである。当然ながら、平日は朝9時から夕方6時まで研修を受けていた。そのため、家に帰るのは6時半頃になるのが基本だった。

それが起こったのは、家に帰る前に例の7のマークのコンビニで晩ご飯を買ってから、店の前の灰皿の前でタバコを吸っていた時の事だった。

「クックック、フッフ、ハッハッハッハ!」

こんな悪党みたいな笑い声が聞こえてきたので、何が起きたのかと振り返った。声の主は、見た感じ70代の、萎びたおじいちゃんだった。白髪混じりの髪の毛で、服も何日も洗ってなさそうなシミの付き方をしていた。分かりやすく言うと、ホームレスです、といった見た目をしていた。

おじいちゃんはコンビニの自動ドアに手をついて笑っていた。

「やった!やったぞ!やってやったぞ!」

もう、明らかに不審者だった。誰がどう見ても怪しい、というか、ヤバイ奴だと思っただろう。

こういう時、多分、正しい対処法は目を逸らすべきなのだろうが、いざ、こういう状況に遭遇すると目は離せないものだ。僕は思いっきり凝視していた。間違いなく、正しくない対処法だったと今になって思う。

もしこっちに向かってきたらどうするべか、何をどうするのが正解なんだろうか、なんて頭の中で考えていたものだが、その心配は必要なく、おじいちゃんは動く気配が無く、ただその場で高笑いをしていた。尚更恐ろしいものだ。

そしてすぐ、おじいちゃんが手をついてるせいで開きっぱなしの自動ドアから、私服の男の人が二人出てきて、おじいちゃんを捕まえた。

おじいちゃんは「なんじゃ!?なんじゃ!」と男の人に対抗して暴れたが、2対1だったのですぐに取り押さえられた。こんな状況も初めてだが、語尾に「〜じゃ」と付ける人を生で見るのも初めてだった。

取り押さえたまま、男の一人がおじいちゃんに叫んだ。「またか!ジイさん!」と。そして、おじいちゃんの上着に手を突っ込んだと思ったら、中からポロっと何かが出てきたのが見えた。

おつまみと、ワンカップの焼酎だった。そう、おじいちゃんは万引き犯だった訳だ。しかも、「また」という事は、一度目の犯行でない、再犯だったのだ。不審者だと思ったのは、間違いでは無かった。

おじいちゃんは取り押さえられたまま、ものの2、3でお迎えに来たパトカーに身柄を引き渡されていった。多分、私服の人は店員さんで、おじいちゃんが来店した時点で万引きGメンのように張っていたのだろう。パトカーが来るのもやけに早いように感じたし(厳密に言えば、僕はパトカーのお世話になった事が無いので、2、3分というのが早いのかどうかは分からないのだが)、そういう事だと思う。

ここまででも十分衝撃的な事件なのだが、このおじいちゃんが僕の記憶に焼き付いて離れないのは、この後に起こった事に最たる理由がある。

しょぼくれた顔で警察に連れて行かれるおじいちゃんが、パトカーに乗せられる直前に、店員さんに向かって大声で叫んだのだ。

「3回目はもう終わりじゃあ!」

…おじいちゃん、万引きは回数じゃないよ。1回も3回でも終わりだよ。

コンビニを去るパトカーを眺めながら、僕はおじいちゃんの今後がどうしようもなく心配になってしまい、しばらく一人で立ち竦んでいた。

これが、若宮町の洗礼である。そして、僕が見て来た人間の中で一番の「名古屋のヤベー奴」筆頭である事は、言うまでもないだろう。


8、スナック?

「名古屋のヤベー奴」こと、例のおじいちゃんの事件程ではないが、個人的にそれなりにショックを受けた事がもう一つある。ショックはショックでも、太閤通りのようなカルチャーショックの話だが。

前に話したように、僕の部屋の近所には中村区役所というものがある。名古屋市中村区、名古屋のそれなりに中心にある区の、区役所にまつわるお話。

名古屋に来た初日こそ、駅前から部屋まで歩いたものの、十字路の地下にある中村区役所駅は名古屋駅にも繋がっている訳で、僕は平日の通勤の際は地下鉄を使っていた。通勤手当も出ていたし、何より時間の短縮になる。きっと、強い健康志向がある人でもないと、わざわざ使わない手はないだろう。

なので、気が付かなかったのだ。いや、勘違いしていたと言う方が正しいか。

初日に通った時に、中村区役所の裏側、駅に近い側の脇道に、紫の看板のお店があること自体には気付いていた。駅前に歓楽街があるのだから、スナックがこんな所にあってもおかしくはないだろう、なんて流していたものだが、気まぐれで名古屋駅から歩いて帰ったある日の夕方に、僕は灯りの点いた看板を見かけた。再び前を向き、そして、二度見した。

あれ、といった感じだった。まさか、といった感じだった。そのお店は、スナックなんかじゃ無かった。

じゃあ、なんでそんなに驚いたか、だ。

理由は簡単である。まさか、そんな都会の中心にほど近い区役所の裏にソープランドがあるなんで思わなかったからだ。

正直、初めて太閤通りを目にした時よりもカルチャーショックを受けたものだ。

だって、そんな目につく所にソープランドだぜ?

流石にそれはやりすぎでしょ。

それだけ、の話。

オチなんてない、これだけ。

ただ、この話には一応続きがある。まぁ、こんな話の続きなんて、大体決まってるようなものだが。

この時、まだ僕が童貞であり、そのお店が運命のお店になるというだけのお話だ。実に下らない。

こんな下らない話はまた別の機会にでもしよう。そんな機会があれば、の話にはなるが。


9、喫煙所にて その1

もう9章までザッと語ってきたものだが、何やら若宮町のお話というか、ならでは、の話が足りてない気がする。

なので、いくつかサクッと紹介してしまいたい。

ネタの宝庫である、いつもの喫煙所の話から。

僕の家の裏には、リハビリセンターなる大きな建物がある。初めて見た人は病院かな、と思うような立派な建物だ。

その正面玄関前には、小さな庭と休憩スペースがあった。そこには、某コーラメーカーのロゴの入った長ベンチが二つ並んでいるのと、その間にスタンド型の灰皿が一台置いてあり、簡易的な喫煙スペースになっていた。日が暮れると、僕はそこに毎日通っていた。もちろん、タバコを吸うためにだ。社宅でタバコを吸って、万一跡でも残したら大変だから、部屋は禁煙なのだ。

まぁ、良くないことだとは自分でも思う。リハビリセンターには全く用がない僕が、毎日タバコを吸いに足繁く通うのは気が引けたし、多少の罪悪感はあった。だからこそ、基本的には日が暮れて人気が無くなってからこっそり通っていたのだが。

信号を一つ渡れば例の7のマークのコンビニがある事だし、そっちで吸う方がまだマシだろう。でも、人間とは、隙あらば少しでも楽してしまおうと考えるセコい生き物だ。信号を渡らずに済み、尚且つ、ベンチで座って一服できるとなれば、例に漏れず僕も楽してしまっていた。ただの言い訳にはなるが、たまにゴミ拾いでもしていたので、少しだけ大目に見て欲しい。

とりあえず、そんな感じでそこに毎日通っていた訳だ。

ある夜の事。いつものようにタバコに火を点けて向かっていると、3、40代の男女のペアが片方のベンチに並んで座っていた。男は茶髪に上下ジャージで、暗くて何かまでは分からないが、板のようなものを手にぶら下げている。女はそこら辺によくいる格好というか、至って普通の格好。ファッションに詳しくないので、それ以上何と説明すれば良いのかよく分からないが。

そのペアは一目でわかる程、とても嫌な雰囲気を醸し出していた。何が嫌って、女の方がワンワン泣いていた。通りすがりの人が、えっ、と驚いて二度見していくほどに号泣していた。

何か話し込んでる風で、(…別れ話でもしてるのか?)と思い、そうだとしたら気まずいので、ここは一旦引き返そうかとも考えた。しかし、この訳の分からない状況にかえって興味が湧いてしまった僕は。盗み聞き目当てに隣に座る事にした。我ながら実に趣味が悪いものだ。まぁ、そもそもがこんな公衆の面前で別れ話なぞしてる方が悪いのだ、僕はただタバコをベンチに座ってゆっくり吸いたいだけだし、ちょっとくらい盗み聞きしてもバチは当たらないだろう。不可抗力、というやつだ。

隣のベンチに座ると、男の方にチラッと見られたが、「あ、自分は関係ないんで、無視して下さいねー」といったすまし顔で視線を躱して、図太く隣に居座る。もちろん、本心は会話を盗み聞きする為に来たのだ、思いっきり耳は傾けておく。

男は諦めたのか、改めて女の方を向いて話を続ける。

「…だからよ、俺、コイツで食って行くって決めたんだよ」

「うん…うん…」

「まだ始めたばっかりだけどよ、でも、このままじゃずっとバイト生活で何も変わんねぇし、俺みたいなのが一発逆転するにはこういう新しい事やるしかねぇんだよ」

「うん…うん…」

………、別れ話じゃないな。なんの話だ?

「コイツ買っちまったから貯金はもうねぇし、俺はやってやる、ってガチで思ったから買った訳だしよ」

「うん…うん…」

「アイツが今すぐ金が必要だから仕方なく、って10万で売ってくれたけど、本当なら世界的にヤベー物らしくてオークションなら100万は下らないらしくてよ、でも、お前だから10万で良いって泣きながら言ってくれたんだよ」

「うん…うん…」

………。

「俺もそんなアイツのアツイ気持ち受け取って、やってやんよ!って、コイツと世界獲ってやる!って約束したんだよ」

「うん…うん…」

「だからよ、お前には信じて着いて来て欲しいんだよ、俺とコイツだけじゃ世界には届かねぇ、世界獲る為にはお前が必要なんだよ…」

「うん…うん…」

………。

まぁ、全体的にアイツだの、コイツだの、世界だの、漠然としたバカっぽい言葉しか出てこないのは置いておいて。

コイツ、ってのは、多分だけど、あの手に持ってるボロボロのスケボーの事だよな。

アイツ、ってのは、多分だけど、友達の事だよな。

…世界、ってのは、多分だけど、世界チャンピオン的な何かだよな。

………………。

………、………。

…うん、話が大体整理できた。

この男、大分ヤベェ奴じゃねぇかよ。

そんな汚ねぇ板切れは、誰がどう見ても世界的にヤベェ物ではねぇよ。10万どころか、1万の価値もねぇよ、見りゃ分かるだろ。アンタ、そのアイツとか言う奴に騙されてんだよ。ただのカモじゃねぇかよ。

大体、世界って何だよ。よく知らないけど、スケボーの世界ってのは多分、その年で、そんな中途半端なな感じで狙えるような物ではねぇよ。バイトしたくないだけだろ、現実見ろよ。

それと、女。「うん…うん…」としか言ってないで何とか言えよ。うん、って何に対してのうん、なんだよ。アンタがソイツに現実見せてやれよ。

大体、その涙は何を思ったら流せるんだよ。この話の流れでそれだけ泣けるって、アンタ、サイコだよ。

「…ミユキ!頼む!着いて来てくれ!その代わり、俺が世界獲って、お前にトップからの眺めってやつを見せてやるからよ!」

男の声は人一倍大きくなり、熱のこもったその目には涙が滲んでいる。何に熱くなってんだよ、その涙は何なんだよ。

「………」

ミユキは顔を伏せ、返事を返さない。女なりに色々考えているのか。というか、流石に男のヤバさに気付いたのだろう。そうだ、バカなアイツにトドメさしてやってくれよ。今ならまだやり直せるはずだからよ。

ミユキが顔を上げる。涙でグチャグチャになった顔からは、先ほどまでとは違い、どこか意思のようなものを感じさせられる。

そして、答えた。

「うん…うん…」

…だから、そのうん、ってのは何に対してのうん、なんだよ!返事なのか?もっと、他の言葉で答えてくれよ!

この後、二人は言葉を紡ぐことはなく、ただただ泣いていただけだった。

…結局、それからどうなったのかは分からない。ただ、今日までに世界を獲れなかったのは間違いないし、今後、獲ることもないだろう。

いや、もしかすると世界なんて取れない方が幸せなのかも知らない。人生を長い目で見るならば、そんな事よりも騙された事に気付いた時に得られる経験の方が、きっと彼らには必要なもののように僕には思えるから。

世界一なんて似合わないどうしようもない二人だけど、多分、世界一お似合いなカップルの話。終わり。


10、喫煙所にて その2

あのカップルの男の方が熱心に語っていた、世界を獲るとかいう夢?のような話について。

きっと、多くの日本人が小さい頃には夢というものを持っていたのではないかと思う。パティシエ、スポーツ選手、ヒーロー、ヒロイン等々、それは100人いれば100通りの自由な自分の未来像を想像していたはずだ。

でも、中学生か、高校生か、その辺りで多くの日本人はそれまでの経験や、現実と照らし合わせて、夢というものを真剣に考えなくなる。いや、考えられなくなる。

夢が破れる、あるいは、夢を捨てる。誰かに言われたから簡単に出来ることではない感じがするが、多くの日本人が、世界中の人間がそれぞれ経験してきた事のはずだ。

それが、大人になる為の一つの通過儀礼というか、ある種の自立といえるものなのかもしれないが、今になって考えると、それはとても残酷な事に思えてしまう。

夢とは、そう簡単に口に出していいものではないのかもしれない。夢を叶える為にはそれ相応の準備と、練習と、覚悟、そして何より運が必要だ。それは、きっと多くの人が経験しているはずの事なので、多くの人が知らないうちに知っている事だ。それでも、多くの大人は子供に夢を尋ねる。「将来は何になりたいの?」とか、「20年後の自分は何をしていると思う?」とか。それが、どれだけ残酷な事かを知っているはずなのに。どうせ、その大多数が叶わないと知っているはずなのに。

まぁ、こんなのは個人の勝手な考えだし、僕自身、将来はコックさんになるとか言っておきながら、そうはならなかった、なろうとしなかった一人なのだけれど。僕だって、子供と話す機会があったら常套句のようにそうやって尋ねるのだろうけど。

そんな事は置いておいて、今度は夢と現実について語っていた、一人の女性のお話。

夜、次の日も研修だというのに何だか眠れず、気分転換にタバコを吸いに行った時の事。

日を跨ぐ少し前くらい、隣のベンチに電話で話しながらスーツ姿の女性が座った。

多分40才前後、オバさんと呼ぶには少し早いだろうか。事務仕事をしている感じではなく、仕事相手を意識して身なりや細かな所まで気を遣っているのが伝わってくる。文字通りのキャリアウーマンで、主任でも上の方か、係長位の役職に就いてそうな雰囲気を醸し出していた。

一つ、気になる事があった。ベンチに座る為に僕の前を通り過ぎた時、優しい桃の匂いがした事だ。だからどうした、というような些細な事だが、こういう人は香水とかのシャープで、澄んだ匂いの物を付けてるイメージがあった。キャリアウーマンらしい匂いというか、悪く言えば、気取った香りが。しかし、こんな、ハンドクリームのような気取らない匂いがするものを付けるとは思っていなかった。まぁ、キャリアウーマンというのも勝手なイメージだし、匂いに関してもただの先入観というか、数少ない経験からそう思い込んでいるだけ、という話だけれども。外回りとかを終え、帰って社内で事務仕事をする時にはハンドクリームくらい付けてもおかしくないのだろうけども。

そんなデキる女は電話でもキツめな言葉遣いというか、サバサバした物言いをしていた。

「…うん、でもこの年になると、流石に色々考えるというか、諦めてる部分もあるから、そう、そう、今は若い子の世話してるだけで忙しいし、アンタの方がまだチャンスあるんだから、真面目にやんなさいよね、アタシみたいに遅れたと思ったらもう手遅れ、ってなるんだから」

多分、結婚の話だろう。30過ぎの女性が仕事以外でこういった話し方をするのだから、恋愛関係の話に違いない。

「そう、そう。アタシの分もアンタにあげるから、その分、今の男逃すんじゃないよ、うん、はいはい、それじゃあ、またね、うん」

女性が電話を切り、大きなため息を吐く。あんまり大きかったものなので、ビックリしてちょっと目が合ってしまった。僕はすぐに目を逸らして前を向いたが、やっぱり少し気まずくなる。

こういった話題に関しては間違いなく女性の方がナイーブだし、年齢も年齢だ、あまり他人が気安く触れるものではない。わざと盗み聞きしていた訳ではないが、隣にいた見ず知らずの男と目が逢ったら会話を聞かれていた事くらい、誰だって気付くはずだ。

彼女が僕の存在を気にしているのか気にしていないのかは僕には分からないが、タバコを取り出し、吸い始めた。淡いメンソールの匂いが漂ってくる。

僕のタバコも吸えてあと二口位だ、サクッと吸って部屋に戻ろう、そう考えていた時だった。

「…大学生?」

「えっ」

彼女がポロッと話しかけてきた。僕は不意を突かれてすぐに言葉が返せない。

「今、盗み聞きしてたでしょ?」

「えっと、いや、そんな…」

「隠さなくてもいいよ、電話してるこっちが悪いんだし」

「いや、悪いなんて…」

まさか、だった。ああいった話題を見ず知らずの、それも男に振ることはないと思っていたので、正直、口から心臓が飛び出る位ビックリした。それに、この喫煙所で声をかけられる事自体が初めての事だったので、心構えを全くしていなかった。

とりあえず、落ち着こう。この会話の着地点は全く見えないが、変に立ち去るのも何だか失礼な気がするし、流れに着いて行くしかない。

「あ、今年の4月に就職した新入社員です、はい」

「社会人なの?名古屋っぽい顔じゃないけど」

「北海道から出てきて、研修期間なので、6月いっぱいは名古屋で過ごす予定です」

「ふーん」

探り探りではあるが、言葉を返していく。何故だかものすごいハラハラしながら慎重に応えているが、もっとフランクに返した方が良いだろう。そうは思っても、なかなか上手くいかず挙動不審に見えているだろうけど。そもそも、頭では色々考えてもそれを実践できるタイプの人間ではないコミュ障なので、こういう世間話のようなものは苦手なのだ。何を話して良いのか、どうやって伝えれば良いのかでいつも迷う。

彼女は僕を指差す。えっ、今度は何だというのだ!?

「そんなビックリしないでよ」

「あっ、スンマセン、はい…」

「…家、近いの?」

「えっと、はい、このすぐ裏のマンスリーマンションです」

「いいね、駅もコンビニも近いし」

「はい、便利ですね」

彼女が指差したのは僕ではなく、僕の服装だった。ステテコにパーカーという至ってラフな格好だったのでこんな事を思ったのだろう。

これも世間話か、難しいものだ。

話していたら残り短かったタバコが燃え尽きてしまった。会話も途切れたし、帰るタイミングには丁度良かったのかもしれないが、もう少しだけ話してみたくなって、僕は新たなタバコに火を点けた。

「えと、お、お姉さんは…」

今度は思い切って僕から話し掛けようとすると、彼女は吹き出して笑い出した。何か変な事を言っただろうか?何がおかしいのだろうか?

「お姉さんって、ナニソレ!?そんな歳じゃないでしょ、アタシ」

「いや、そんな事は…」

「そんな気、遣わなくていいよ、オバさんでも、係長でも、ササキでも、好きに呼んでいいから」

彼女はそう言いながら、変にツボに入ったのか、しばらく笑っていた。そんな笑わなくて良いじゃないか。

こういう年上からの年齢ネタって、どう返すのが正解なのか特に分からないよな。いっつも言い淀んでしまうものだ。

てか、この人はササキ係長というのか。そこまでは知らなかったけど、彼女は僕が盗み聞きしていたと思い込んでいるみたいだ。呼びやすくはなったけれど、僕が知らない事まで知っていると思われた上で話を進めるのも複雑なものだ。「僕、そんな所まで聞いてないですよ」なんて言うのも変な感じだし、知らないからと聞き直すなんて論外だし。

「じゃあ、ササキさん、で」

「まぁ、お姉さんよりは良いか」

「…ササキさんって、桃の匂いしませんか?」

「桃の匂い?」

「…あっ!」

マズイ、女性にいきなり匂いの話を振るとか、一体僕は何を考えているのか。見ず知らずの相手らに匂いがどうこうとか言われたら、絶対引かれるに決まってるじゃないか!

さっきまでは別の事を話そうとしていたのに、名前の件で完全に頭がカラッポになっていた。女性と話す機会などまずない童貞なので、こういう不意の事態にめっぽう弱いのだ。

どう取り繕えば良いのか、パニック状態の頭を無理矢理回転させて考える。

「…ああ、ハンドクリームの匂い?」

「え、あ、ハ、ハンドクリーム?」

「うん、嗅いでみて、ほら」

そう言って、ササキさんはタバコを持っていない左手をスッと差し出した。

「えっ!?」

僕はさらにパニックになる。手の匂いを嗅げというのか、この人は!?

「ほら、早く」

「は、はいっ!」

言われるがまま、とりあえず鼻を近づけて匂いを嗅ぐ。桃の甘い香りがした。

「どう?」

「い、良い匂いです、はい!」

「そう、良かった、買ったばっかりなの、これ」

「あっ、そうなんですか…」

スンスン。

スンスンスン…

…ハッ!無心で嗅いでいたが、流石に嗅ぎすぎだと気付いて、顔を急いで引く。いやいや、それほど良い匂いだったのだ。決して女性の手の匂いを嗅ぐという行為に夢中になっていた訳ではない。

ササキさんは手を引くと、タバコを灰皿に捨ててから、今度はカバンを探り出した。ゴソゴソと、何かを取り出そうとしているようだ。ケータイだろうか、いや、確かポケットにしまったはずだし違うか。何だろうか。

カバンから取り出したのはピンク色のチューブだった。ハンドクリームか。それを、指先にチョロっと取って手に伸ばす。

「ねぇ」

「はい!」

「手、出して」

「…手、ですか…、はい」

タバコを持っていない左手を差し出すと、ササキさんは手に伸ばしたハンドクリームを僕の手に塗り込み始めた。

「えっ!」

「やっぱり若いと手が綺麗だねぇ」

「えっ、えっ!?」

何だ、何が始まったんだ!?

左手の絵も言えぬ気持ち良さに、さっきまでも散々パニックだった頭がいよいよ真っ白になる。今日一番の衝撃で、何も言葉が思い浮かばない。

僕の左手は掌から甲、指の間の隅々までハンドクリームが塗り込まれ、しっとりしていってしまう。グニグニ、とマッサージするように丁寧に揉み込むササキさんの目は段々と真剣なものになっていき、言葉を挟む事も出来ないまま、僕はただただ左手を伸ばしたまま、その温もりと感触を味わっていた。

…何だ、僕は夢でも見ているのか?

これが現実だったとして、こういう事は普通の事なのか?僕が童貞だから知らなかっただけで、世間一般ではこういう事を出会ってちょっと話をした異性にするものだったのか?

だとしたら、そうだとしたら、僕はこれまでの人生の半分、いや、大半を勿体ない過ごし方をしていたのではないだろうか。こんなスキンシップが常日頃から起こるイベントだったとしたら、僕の人生はなんて灰色の人生だったのだろうか。

そうして、頭をフルに回転させて、現状を理解しようとみた結果、一つの結論に僕は達してしまった。

もしかすると。

もしかすると、だ。

これこそが噂に聞いた、セックスに繋がる前段階、前戯とかいうやつなのではないだろうか。

手に手を取り、丁寧に揉み込むなんて事、やっぱり普通じゃない。そんなの、好き合ってるカップルがやる事だ。好意がある相手にこそやる行為だ。

でも、そうなるとだ。この状況をなんと説明すれば良いのだろうか。

ササキさんは僕に好意があるという事になるのか。話をしてくれたから、とか?あり得る…のか?

僕は僕で満更ではない。かなりの年上ではあるが、ササキさんは悪い人では無さそうだし、若い頃はそれなりにモテた雰囲気がある顔立ちをしている。何より、ここまで童貞を拗らせてきた僕だ、目の前にチャンスがあるならそれをみすみす逃す手は無い。

そして、もし、もしもこの結論が正しいとするならば。

現在のこの状況は愛撫であり、このあと起こるであろうイベントは、つまり…

………………。

…父さん、母さん、すみません。

僕は今日、少しだけ大人になってしまうのかもしれません。

「…キミ」

「ハイッ!?」

沈黙を破ったササキさんは偉く神妙な面持ちであった。やっぱり、そういう事なのか。そういう流れなのだろうか。

「…キミは、どう思ってるの?」

「いや、えっと、いつかはそういうタイミングもあるかな?とか思ってはいますけど、やっぱり心の準備とかも必要かな、って、でも、嫌って訳でもなくて、チャンスがあればいいな、って思ってはたっていうか、その、あの…」

落ち着け!慌ててはダメだ!ここは男がリードする所だ!何より、童貞だとバレたら一巻の終わりだ!それを悟られないように、慎重に、慎重に考えるんだ!

「そっか、やっぱり、その歳だとそんな感じだよね」

「人によって考えは違うかと思いますけど、僕は大切にしたいなって思ってるので、やっぱり、一夜限りなんかの関係でなくて、長い目で考えた上で付き合って行くべきだと思うので!」

「まぁ、分からない限りは続く訳だから、結婚生活は長いものだからねぇ」

「エッ、結婚!?」

「うん、結婚」

えっ、もうそんな話までするの!?

やっぱり、そういう事するって事は、結婚が前提って事なの!?

結婚…

結婚、か…

………、ん?

何か、今日どこかでそんな話を聞いたような…

「…あっ!」

ここで、ササキさんの電話の内容をふと思い出す。

あの電話、確か誰かと結婚について話していたな。

つまり、これはその流れの話というか、ただ結婚についてどう思うかを僕に聞いただけって事か。

だとしたら、僕は一人で勝手に何を考えていたというのだろうか…

「ん?どうかした?」

「いえ!何でもないですよ!?」

「ふーん…」

…気まずい。多分、気まずく感じてるのは僕だけだけど。自業自得なのだけれど。

気を紛らわす為にも、何か言わないと。

「結婚、については、ササキさんはどう考えてるんですか…?」

「んー、アタシは、ねぇ…」

何だか、今日の僕は口を開く度にササキさんに失礼な事を聞いていないだろうか…?

「…子どもの頃、夢はお嫁さんです、なんて言ってかから、それなりには考えてるつもりだったんけどねぇ」

「そう、なんですか」

「キミと同じで、大学卒業して新卒で就職した頃は、プライベートの時間より仕事を頑張らないと、なんて思って真面目に働いて、残業もして、休みの日も出勤して、闇雲に頑張ってた。今と違って、そういうのが普通の社会だったし、何より女が男と同じか、それ以上に評価されるには、同じだけ頑張っても足りないのは当たり前だったから」

「………」

「そりゃあ、辛い時だって多かったし、今も沢山悩みはあるけど、それでも、頑張ってると仕事を楽しめるようになっていったし、その分の責任感が乗っかってくるのがやりがいになっていってさ、この会社に必要とされてる、ってのも感じるようになって、後輩もどんどん増えていって」

「………」

「その代わりにプライベートの時間はどんどん減っていって、アタシだって若かった頃は一応彼氏とかもいたけど、役職なんて貰った頃には恋愛なんてしてる暇は一ミリも無くなっていって。周りの仕事が出来ない子に限って、若い内に結婚して辞めていっちゃったりしてね」

「………」

「今の係長になってからは仕事のやり方とか自分で管理できて時間もお金も余裕はあるけど、気付けばもう恋愛なんて言ってられるような歳でも無くなってた。結婚なんて、夢みたいに言う事すら出来なくなってた」

「………」

「だって、もうオバさんなんだもの。アタシの周りで女係長なんてアタシだけだもの」

「………」

「…でもね、そんなに悪い事だけって訳でもなくってね、後輩とか、部下と仕事してるのは楽しいし、係長なんて責任感ある立場で仕事できるのはアタシだけだからこそ、このスリルはアタシだけのもので、アタシの生きがいだって思えるの」

「………」

「子どもの頃の夢は叶えられそうには無いけど、アタシにはその分、こんなに素晴らしい現実があるんだ、って思うと、結婚できなくてもアタシの人生はそんなに悪いものじゃない、って思えるの。ほら、二兎を追う者はうんちゃらかんちゃら、なんて言うじゃない?だから、少しくらいは我慢しないと、バチが当たっちゃうもの」

「…そう、ですね」

…やっぱり、僕とは全然違う。年齢の差が倍だけ離れている分の重みが、ササキさんの言葉にはある。

僕みたいな漠然とした、薄っぺらい考えなんかでない、悩んで、考えて、そして、経験してきたから出る言葉というか。

「…はい、終わり!」

パッと離された左手には、さっきまでの感触がまだハッキリと残っていた。ササキさんは話してる間も、僕の手を揉んでいてくれた。

「キミはまだ若いんだから、いっぱい悩むといいよ。悩んだら、悩んだだけ自分に返ってくるから。それじゃ、頑張ってね!」

そう言って、ササキさんはあっさりと去って行った。そして、さっきまで女性に手を揉んでもらっていたとは思えないほど、静かな時間が訪れた。

何だか、心にぽっかりと穴が空いてしまったような気がした。大事な何かを失ってしまったような。

ふと、右手の指先に目をやると、燃え尽きたタバコがあるだけだった。

…人生とは、タバコと同じなのかもしれない、なんて思う。

吸った分だけ煙の味を楽しめるが、その分だけ早く燃えてしまう。吸わなくても、火が点いた瞬間からその炎はひとりでにタバコをゆっくりと灰にしてしまう。そして、灰になってしまったタバコを元に戻す事はできない。だからこそ、楽しめるのであって、だからこそ、その煙には哀愁のようなものを感じられる。

部屋に戻り、本当に夢みたいな時間だったな、とササキさんの言葉と、手の温もりを思い出しながら。

人生も、寿命というゴールがある限り、立ち止まる事は出来ず、時間というものは皆平等に1分は1分であり、1秒は1秒だ。ならば、駆け足になってしまっても人生を楽しむべきというのも一つの考えだし、たまにはゆっくりと進んでみるというのも間違った方法ではない。

…ササキさんは、これからどうやって残りのタバコを吸っていくのだろう。

…僕は、これからどうやって残りのタバコを吸っていくべきだろう。

なんて、こんな気取った事を考えるのは、柄にもないだろうか。きっと、今日の偶然にしては運命的過ぎた出会いのせいで、こんな格好つけた物言いをしてしまうのだろう。

…でも、ササキさんが言っていた事には一つだけ間違いが存在していた気がする。

ササキさんは言っていた、今は昔とは時代が違うのだ、と。

僕はそれほど長生きしている訳でもない。折り返しすらまだまだ先の長い道のりを残しているはずだ。知識も、経験もそんなにはない。

昔の事は知らないけれど、ササキさん自身が言うのだから、今とは全然違っていたのだろう。

今というものは、それほどまでに制約の少ない、自由な世の中に変わりつつあるのだろう。

だからこそ、ササキさんが結婚を諦めるにはまだ早い気がする。

ササキさんほどの人が結婚を簡単に諦めてしまうのは、勿体ない気がする。

女心と秋の空、なんて言うものだ。

もし、今日のあのササキさんはいつものササキさんではないただの気まぐれだったとしても、普段は仕事人間で周りの人に厳しく当たるタイプの人だとしても、あの場所のあの時間、僕にはあんなに優しい人だったのだから。

あんなにいい人だったのだから。

…また会えたのなら、直接言ってやろうかな。若者は若者らしく、年上には生意気な口をきいてやろう。昔では考えられない事かも知れないが、今を生きる若者らしく、年齢差なんて無視してぶつかっていってやろう。その後、飲みにでも誘ってみることにしよう。

…あわよくば、僕の童貞を貰って頂くとしようかな。流石にそれはやり過ぎかな?

手に残った桃の匂いを嗅ぎながらそんな事を考えつつ、また会えるまで頑張ってやろうと意気込んで、僕は部屋に帰っていった。


11、喫煙所にて その3

雨の日に吸うタバコというものは、それはそれは美味いものだ。

晴れている日と違って、口当たりが優しく、香り深い味わいになる、気がする。僕の気のせいかも知れないが、愛煙家の方の中には、きっと分かってくれる人もいるだろう。

そして、僕にはもう一つ、雨の日のタバコに欠かせないものがある。これはきっと、僕オリジナルのこだわりだろう。

僕は雨の日にタバコを吸う時には、必ずイヤホンを着けて喫煙所に向かう。まぁ、別に雨の日でなくてもイヤホンを着けている事もあるし、丁度雨が降っていない雨上がりでも、霧雨のような日でも良いのだが。

イヤホンを着けて聴くのは、『雨男』という曲だ。雨の日に丁度良い、しっとりとした哀愁溢れた一曲だ

僕はその曲の中でも、2番終わりの歌詞がお気に入りで、たまにそこだけリピートして聴いてしまうほどに好きな歌詞なのだ。

その日は雨上がりで道路がそこそこ濡れていた。そして、僕はいつものように『雨男』を聴きながらタバコを吸っていた。

当然ながらベンチは濡れていたので、リハビリセンターの壁沿いに立っていた。周りには誰もおらず、正に『雨男』になりきったつもりで、一人、感傷に浸っていた訳だ。

そんな時に丁度、曲のいつものお気に入りの部分が近づいて来たなら、調子付いて歌いたくもなるものだ

。音痴のくせに、僕は気取って目を瞑り、曲に入り込んだ。

「泣かない雨はない〜♪」

うーん、今の僕のシチュエーションにピッタリだ。

「明けない夜はない〜♪」

良いね、やっぱり何回聞いても雨の日はこれしかない。

「とか言って明日に希望を託すのはやめだっ♪」

ここ、ここの「やめだっ」て所が特にいいよね。

段々ノッてきて、声も大きくなってくる。もうここまでくると口ずさむレベルでなく、熱唱と言えるほど心を込めて歌詞をなぞっていた。

次の歌詞なんか力がこもる所で、イイんだよ!

よーし、来るぞ来るぞ!

「どしゃぶりのっ!雨の中ぁ〜…ァアア!?」

左横にふと目をやった時だった。

瞬間、世界がピタッと時を止めた。

なぜか?

目の前にいたから。

なにが?

人がいたから。

目が逢ったから。

こっちを見ていたから。

しかも、外国人。多分、ベトナムとかその辺りの。

ベトナム君はなぜこっちを見ていたか?

そりゃ、突然熱唱しだす変な奴がいたら誰だって見るだろう。こっちは熱が入り過ぎていつから隣にいたのかすら分からないけれど。

「………」

「………」

お互い一言も発することなく、ただ見つめ逢っている。僕としては立ち去るか、何か言ってくれた方が気が楽なのだが。というか、ベトナム君は日本語を喋れるのだろうか。

沈黙は暫く続いた。そして、その沈黙を破ったのは、ベトナム君だった。

「………ネェ」

「えっ!?」

ネェ、って言われた。日本語だよね?多分。

この状況で何を話しかけてくるというのか。怖くて仕方がないけど、とりあえず左耳のイヤホンを外す。

「…ナニ、キイテル?」

「…これ?」

僕はイヤホンを指差して尋ねる。

「ウン、コレ」

「…音楽」

「オンガク、ミュージック?」

「うん、ミュージック」

「…ナニ、キイテル?」

「えっ!?」

ナニ、って、何!?

曲名ってこと?

「えっと、『雨男』っていう、ミュージック…」

「アメ、オトコ…?」

「そう、アメオトコ」

「…、ンー…?」

ンー、って。そりゃあ知らないだろうけど。

曲名言っても分からないし、どうすれば良いというのだろうか。そもそも、どんな曲か伝える必要は本当にあるのか?

でも、このまま伝わらないのも癪だ。せっかくだし、『雨男』をグローバルに広めるというのもアリかもしれないな、うん。

僕は外した左耳にイヤホンを着け直し、右側のイヤホンを外して差し出した。

「えっと…、聴いて、みる?」

「…ウン」

…聴くんだ。

ベトナム君がイヤホンを右耳に着けてから、改めて曲を頭から流し始める。

「…フン、フン」

「………」

雨上がりの夜の街に、二つの男の人影が並んで立っている。国籍の違う二人の男だが、イヤホンを片方づつ着け、一つの曲を聴いている。

…何だ、この絵面は。どこからどう見てもソッチ系のカップルではないか。

「〜〜〜♪」

「………」

まあ、ベトナム君はそれなりに喜んでくれているので、良いか。

そして、曲の2番が終わり、お気に入りの部分に差し掛かった所だった。

「アッ!」

「えっ?」

「ココ!ココサッキウタッテタ!」

そう言ってベトナム君はなぜかえらい興奮した様子で聴き入っていた。フフフフン、フンフン、なんて鼻歌でリズムまで取っている。

聴いたことも無かった外国の曲の、音痴の僕が歌ったメロディも何も無い歌声を一度聴いただけで、どの部分を歌っていたかが分かるとは、なかなかすごい事のような気がする。いや、もしかすると僕の歌は外国人にとっては上手く聴こえたりするのかもしれない。

…無いか。

やがて、曲は終わり、僕とベトナム君はイヤホンを外した。

「ヨカッタ!アリガトウ!」

「いえいえ、どういたしまして」

「アメオトコ、イイ!」

何やら喜んでくれたみたいで良かった。なぜか僕まで嬉しくなってしまう。

「マタアイマショウ!マタアイマショウ!」

そう言って、ベトナム君は手を振りながら鼻歌交じりに去っていった。

上機嫌になった僕は、イヤホンを両耳に着け、『雨男』をもう一度、頭から再生してタバコに火を点ける。

良い事をしたな、そう思って一人ニヤニヤしながら、雨の日のタバコの味わいを楽しんだ。

…そういや、ベトナム君はタバコを吸っていなかったけど、何をしにこんな所に立っていたのだろう。

まぁ、良いか。

ただ単に、音楽は世界共通だったってことで。

「…泣かない雨はない〜♪」

僕の歌声が雨に濡れた夜の街に響く。

やっぱり、雨の日のタバコは良いものだ。晴れの日にはない味わいが、はっきりとそこにはあるから。



僕は時たま、思い出す。

若宮町で過ごした、2ヶ月ちょっとのあの日々を。

そこで過ごした記憶は、毎日が変わったことばかりで、そして、少しだけ輝いていた。

だからこそ、思い出す。

思い出す記憶はこれだけでなく、まだまだ色々あるのだが。

カリカリ梅の話とか、中華料理屋さんの話とか、運命のお店の話とか。

まぁ、こういうのは時たま思い返すから良いものなのだ。

あんまりいっぺんに思い出すと、僕がパンクしてしまうほど濃い内容の日々だったから。

ということで、今回はこの辺で。

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