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アガーテは美しかった。赤いドレスは主張が強く見えるが、彼女が身につけると落ち着いて見えるから不思議だ。耳元にはダイヤが揺れている。髪留めにも、ダイヤが煌めいていた。
社交界で注目を集める彼女は今、アイザックだけを見つめている。
「仕事中ですので、すぐに戻ります」
チャールズは構わないと言ってくれたが、アイザックは今すぐにでも戻りたい気持ちでいた。
チャールズが、こっそりと教えてくれたのだ。階上席に、梟がいるぞ、と。
アイザックは階上席を見て、心が落ち着いた。久しぶりに見るチヴェッタは、元気そうだった。
そして思った。彼女がドレスを着て舞踏会にいたら、自分はどうしただろう?
そして今、目の前にいるのがアガーテではなく、小さな梟だったら――と。
「わたくし、お父様にあるお願いをしておりますの」
「お願い?」
「貴方との婚約です。わたくしは、貴方の妻になりたいのです」
アイザックは別段、驚かなかった。父親からの手紙で、婚約を匂わせる部分があったから。
だが、婚約を望む本人から聞かされるとは思っていなかった。
「承諾してくださいますか?」
「…………」
答えが出なかった。断るべきではないのかもしれない。侯爵家を継ぐ者としては。
けれど、アイザック自身の気持ちは、どうなのだろう?
「わたくしは、貴方に相応しい女性になれます。貴方が望む通りの女性に」
「それで貴女は、幸せになれるのですか? アガーテ嬢」
「なれますわ。愛する人の妻になれるんですもの」
アガーテは自信に溢れていた。真っ直ぐな女性なのだ。卑怯な真似はしない。多分、自分との相性は悪くないだろう。
「貴女は、私を愛している……?」
「はい。アイザック様に恋をしました。そして今は、愛しています。わたくしを……愛してくださいますか?」
自信に溢れていると思ったアガーテは、愛する人からの愛を求めるときは、少女のような顔になった。
「愛、ですか」
アイザックは困惑した――アガーテには、無表情に見えるのだろうが、困惑していた。
恋すらわからない男に、愛がわかるとでも?
恋も愛も、結局は目に見えないのだ。
――もしかして、チヴェッタには見えるのだろうか? 恋占いをするとき、彼女には恋や愛の形が見えているのかもしれない。
「私には、わからないんです。愛とか、そういうものは」
「では、わたくしを見てください。貴方を愛するわたくしを見続けていれば、きっとわかる日が来ますわ」
アガーテは引かなかった。
この愛を手に入れると、固く誓っているのだ。
だから、目の前の男の意識を自分に向けさせていなければならない。
他の女性を見ないで。わたくしだけを見ていて。貴方への愛を今、叫んでいるのよ。
「……貴女に恋をして、愛すると?」
「はい。そうなりますわ」
アイザックはどうしてだか、チヴェッタに、あの小さな黒い梟に会いたくなった。目の前にいるのが、君だったらよかったのに。
きっと、赤いドレスも似合うと思う。ダイヤも似合うし、他の宝石も似合うと思う。
――これが、恋なのだろうか?
アイザックは、視線を逸らす。会場を、ここからでは見えない階上席へ意識を向ける。
「アイザック様」
アガーテは急に、不安になった。目の前の男が、わたくしを見ていない。
本当は、あの魔法使いに占ってもらいたかった。婚約がうまくいくのか、アイザックと自分は、結ばれるのかを、知っておきたかったのだ。
でも、できなかった。アイザックはあの魔法使いを、気にかけているから。
あの魔法使いが憎らしいと思ったけど、他の令嬢や侍女のように、嫌がらせをすることはしなかった。
アガーテの自尊心は、誰にも汚されない。何にも、揺らがないのだと信じているから。
「私はもしかしたら、恋を――既に知っているのかもしれません」
アイザックはようやく、アガーテを見た。
その瞬間、アガーテを絶望に突き落としたのだ。
「その相手は、わたくしではないのですね」
「――はい」
アイザックの声は、穏やかだった。
その声には、力があった。アガーテが信じて疑わない、自分の中にある自尊心のようだ。
「ですが、その方と結ばれますでしょうか? 貴方は最後には、貴族を――わたくしを選びます」
すがりつくような真似はしたくない。
けれど、手に入れたい愛がある。一瞬でもいいから、その愛に触れてみたい。
「私は一度も、自分の未来を視てもらったことはないんです。彼女の力を信じていないわけじゃない。むしろ信じています。ただ、未来を知りたいと思ったことがない。私は自分が選んだ道を、正しいと信じているから」
だから、後悔はしない。するはずがない。
アイザックは会場に戻ろうとした。
その手をアガーテが掴んで引き止めようとしたが、掴めなかった。
それがふたりの運命だと、告げられたような気がした。
あの魔法使い――梟に。
***
その女性は、水色のドレスを着ていた。金色の髪が、揺れている。
チヴェッタはその女性を、知っていた。アメリア・ロイス――恋する――恋が敗れた、男爵令嬢。
「知り合いなの?」
「少しだけ」
チヴェッタは椅子から立ち上がった。アメリアは、自分に用があるのだ。
ふたりは離れた場所へ移動する。
チヴェッタは階段を背に、アメリアと向き合った。
「どうしました? ここに来ても、意味は――」
「嘘だと言って」
アメリアは、泣きそうな顔をしていた。心は既に、泣いていたのかもしれない。
「あの占いの結果は、嘘だって言って。そしたら貴女を許すわ」
「望む通りの答えを出しても、結果は変わりません。その場しのぎの取り繕った答えを聞いて、その時は安心できる。けど最後にはやっぱり、恋が叶わなくて、私を恨む」
こういうことは、はじめてじゃない。恋とは人を、盲目にさせる。自分の恋は叶うものだと信じて、それは崇高な愛に昇華されていくと疑わない。
けれどチヴェッタが、思い描いていたものではない未来を告げたら、途端に責めるのだ。嘘だ、間違い、お前の力が足りないせいだ、と。
「私は、はじめて本物の恋を知ったの。彼が好き。愛してる。階級が違っても、構わない。だからお願い。あれは嘘だと言って。そして、素晴らしい未来が待っていると言って」
「そんな言葉を聞きたいがために、ここへ来たの? ……無意味だわ。私は結果を伝えるだけ。嘘は言わない。それに、未来は確定されているものでは――」
「ひどい人! 私が貴族だから、妬んでるんでしょ? だって貴女は永遠に、貴族とは結ばれないんだもの!!」
アメリアが、チヴェッタの体を突き飛ばした。
言い訳するようだが、魔法使いというのは大抵、非力だ。体を鍛えている魔法使いは、滅多にいないだろう。
チヴェッタも例外ではない。
だからアメリアが感情に任せて突き飛ばした衝撃は、いとも容易くチヴェッタのバランスを崩させた。
――落ちる!
そう思った瞬間、視界に紺色の髪が映り込んだ。彼は受け止め、けれども踏みとどまることはできなかった。ふたりは倒れこみ、何かが割れる音がした。花瓶だ。活けられていた花が散って、ふたりは水に濡れた。
あの日を思い出す。池に落とされ、水に濡れていたチヴェッタに、アイザックは手を差し伸べ、抱きかかえてくれた。
「チヴェッタ!」
音に気づいたエキドナが、階下に倒れこむチヴェッタを見て、慌てて駆け寄る。
チヴェッタは、生温かい液体に触れた手を見た。アイザックの血だ。
「そういうことだったの……」
チヴェッタは納得した。アイザックの未来がはっきり視えなかったのは、自分が関わっていたからだ。
自分のことを占うときは外れてしまう。視えたとしても、はっきりとはわからない。
だからアイザックの未来が、ちゃんと視えなかったのだ。
――世界を広げちゃダメ。だって、世界を広げたら、私は関わってしまう。視えるはずの世界が、視えなくなってしまう。
チヴェッタは泣きたくなった。アイザックが血を流したのは、自分のせい。
「……チヴェッタ? 怪我は、ないな……?」
アイザックが、チヴェッタのほおに触れた。手袋をしている。
どうして外していないの?
それはつまり、アガーテといたときも外していなかったということ?
チヴェッタは笑って、アイザックの手に触れた。涙は意地でも、流さなかった。