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舞踏会が開かれる朝、チヴェッタは水晶玉を見つめていた。触れて、目を閉じ、また開く。
そしたら、チヴェッタにだけ視える世界が、視えた。
「やっぱりダメだわ」
水晶玉から手を離し、ため息を漏らす。
あれから何度も、試してみた。アイザックを占ってみたのだ。
それなのに、どうしてだかはっきりと視えない。もやがかかっていて、細部まで視えないのだ。視えるのは、床に倒れたアイザックが血を流しているところだけ。
「これじゃあ、注意を促すこともできないじゃない」
床に倒れているということは、少なくとも屋内で怪我をするということだ。
ただ、怪我をするのがいつなのかまでは、わからない。チヴェッタの占いの的中率がいくら高いといっても、何百年先まで視えるわけではない。
だから、アイザックが怪我をするのは、数日のうち――だと思う。
「チヴェッタ。朝ご飯にしましょう。あら……占いをしてるの? もしかして、自分のこと?」
ノックの後、エキドナが部屋に顔を出した。椅子に座り、水晶玉を膝に乗せているチヴェッタを見て、微笑んだ。
「違います。……あの人が怪我をする、みたいなんです」
「まぁ……それは大変だわ。すぐに知らせてあげなきゃ。今日なの、それは?」
チヴェッタは首を振る。水晶玉を撫でて、お前は悪くないのよ、と心の中でつぶやいた。
きっと、とても不安定な未来なのかもしれない。些細なことで変わってしまう未来。未来とは、そんなものだ。過去が変えられない代わりに、未来は変わりやすく、そして運命は、神の領域にある。
「わからないのね。珍しい――ううん。ある意味、当然とも言えるわね」
「どういう意味ですか?」
「貴女の世界が、広がった証拠なの」
「……悪いことみたいです」
「良いことよ」
エキドナはそう言ったけど、チヴェッタは違うと思った。
ダメよ。世界を広げちゃダメ。
鳥は飛び立ち、どこへでも行けるけど、自分は梟なのだ。夜――静かな世界を飛ぶ鳥。
「朝ご飯を食べましょう。今夜は大仕事があるんだから」
エキドナは笑って、立ち去る。
チヴェッタは水晶玉を机の上に移動させ、胸がムカムカして、舌打ちしてしまった。悪い癖。直さないと。
ただ今は、少しだけ心配していた。アイザック・ヴェンデル――手袋を外して、私に手を差し伸べる変わった貴族。
彼は傷を負うのだろうか? 自分ならそれを防げるかもしれないのに、今は無理みたい。
それがとても、自分を落ち込ませるのだ。
***
夜――チャールズ王太子の十三歳を祝う舞踏会は、とても豪華だった。国中の貴族が集まり、美しく着飾った令嬢達が、会場に華を添えている。今回は、国内の者だけを招待したそうだが、一番上の王女の婚約者と、その関係者は招待されている。婚約者は、隣国の王子だった。
チヴェッタはエキドナと共に、ホールの二階にいた。いわゆる、階上席だ。舞踏会の会場にいるとはいえ、ふたりはドレスを着ていない。黒いローブを着て、中に着ているワンピースも黒。絵に描いたような、魔女の装いだ。
「ヴェンデル伯爵がいるわ。騎士服ということは……出席者ではなくて、護衛としているのかしら?」
エキドナは杖を片手に、ホールを見下ろしている。
チヴェッタは、エキドナの視線の先を追う。何日かぶりにアイザックを見たけれど、彼は元気そうだった。
「退屈そうな顔」
「そう? 私には、普通に見えるけど」
アイザックは今夜も、無表情だった。令嬢達の視線を集めていることに、気づく様子もない。
ふいに足音が聞こえて、チヴェッタは視線をホールから階上席へ戻した。
「お待たせいたしました」
階上席に現れたのは、エルネスタだった。手には紙と、ペンを持っている。
「王太子のそばにいなくてもいいの?」
「他の侍女がおりますので。――チヴェッタ様は、チャールズ様のそばに来られた方との相性を占ってください。私が令嬢を見て、書きとめますので」
「わかりました」
チヴェッタは、仕事を始めることにした。少しばかり身を乗り出し、今夜の主役であるチャールズを見る。
幼い王太子は、子どもらしくない笑みを浮かべて、出席者の挨拶にこたえていた。
桜色のドレスの少女が、チャールズに挨拶をしている。
「あの方との相性は悪くないけれど、子どもは望めない」
「はい」
「次の方は……喧嘩が絶えない。子どもは産めるみたいだけれど、愛人を作る未来が視えるわ」
「はい」
「あの方は……浪費癖があるみたい。子どもは……女の子だけ」
「はい」
「あ、あの方との相性は悪くないわ。でも、婚約の段階で恋人と駆け落ちしてしまうみたい」
「はい」
エルネスタは余計なことは一言も言わず、ペンを走らせる。
エキドナがチラリと覗き見してみたが、暗号で書いているようだった。何が書かれているのか、さっぱりわからない。
「あの人との相性は最悪。男の子をふたり産むけど、一方しか愛さない」
「……なんだか、運命の相手はいないみたいね」
エキドナは寂しそうに不満を漏らすと、杖を一振り。
すると、天井から薔薇の花が降り出した。
それを合図に、音楽が鳴り始める。ダンスが始まったのだ。
「どうかしら……ここにいないだけで、本当はいるのかもしれないわ」
「ですが、貴族ではないのですね」
エルネスタが抑揚のない声で告げた。振り返って彼女を見れば、落ち着いた声とは裏腹に、瞳は揺れているようだった。
やはりチャールズの相手は、王族、もしくは貴族がいいのだろう。
「もしかしたら、他の国の人なのかも。それか、まだ参加する年齢ではない、とか」
チヴェッタがそう言うと、エルネスタはほんの少し、安心したようだった。
エキドナがもう一度、杖を振る。
そしたら、薔薇が一瞬で弾けて、素晴らしい香りが会場を満たした。次いで杖を振れば、今度は光の粒が天から降り注ぐ。美しい光景だ。
この世のものとは思えない美しさ。
きっと、今夜の舞踏会で恋に落ちる男女がいる。
チヴェッタは、そう思った。
「私達には、一生縁のない世界ですね」
「そう、ね。そうなのかもしれないわ」
チヴェッタは、美しく着飾った令嬢達を見つめながら、チラリとアイザックを見た。仕事中で無かったら――いや、仕事中であったとしても、令嬢達は期待している。
アイザックが自分に、ダンスを申し込む瞬間を。
そんなことが自分の身に起きたら、彼女達は失神してしまうのではないだろうか。コルセットでキツく締め上げているだろうから。
「あの方は、アガーテ・ダフネル様――伯爵家のご令嬢です」
アイザックに歩み寄る女性がいた。堂々とした女性だ。亜麻色の髪は結い上げられ、真っ直ぐにアイザックを見つめている。
エルネスタが、彼女の名前を教えてくれた。やはり、貴族だったのだ。
「綺麗な人だわ。綺麗なふたり」
チヴェッタは微笑んだ。
まるで、完成された芸術品を愛でるかのような微笑みだった。
笑って、笑うのよ。
彼女の手を取るの。手袋を外して、優しく触れて、そして微笑えむの。
チヴェッタはふたりが、外へ出て行くのを見て、よかったと思った。
それなのにどうしてだか、胸が痛い。掴まれて、握り潰されているような痛み。
「…………」
胸は痛かった。
けれど、舌打ちはしなかった。
これが運命というものだ。人の手では変えられない、神が定めた、歩むべき道。
梟が気安く、書き換えられるものではない。自分は神じゃないんだ。
チヴェッタは前を見た。胸はもう、痛くない。
そして気づいた。誰かが――エキドナでも、エルネスタでもない誰かが、そこにいた。