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「チヴェッタ! どうしたの? ずぶ濡れじゃない!」
騒々しい女性の声に、チヴェッタは心の中で舌打ちをした。アイザックが屋敷に寄らないから、師匠に見つかる前にドレスを着替えて、何事も無かったかのように振舞う予定だったのに……。
チヴェッタの師匠であるエキドナは、愛弟子の姿を見るや否や、血相を変えて駆け寄ってきた。
「また意地悪されたの? 今度は誰? もしかして、どこかの令嬢?」
「足を滑らせて、池に落ちただけですよ、師匠」
チヴェッタは疲れたような顔で、自分の部屋へ向かう。
王宮の敷地内にあるこの屋敷は、チヴェッタとエキドナがふたりで使っている。ふたりで使うには広すぎる屋敷なので、使っていない部屋が多々あるのだが。
「貴女がそんなドジするわけないわ。木から降りられなくなったり、物がなくなったり……ここ半年の間に、随分と意地悪が増えたんじゃない?」
チヴェッタが自分の部屋に入っても、エキドナはついてきた。
エキドナは、同じ女性であるチヴェッタから見ても、蠱惑的な容姿をしている。長い紫色の髪は波打っており、チヴェッタと同じ金色の目を持ち、肌は陶器のように滑らか。
それから、ここが重要。エキドナはとても、胸が大きい。栄養のすべてが集中しているのではないか、というくらいの大きさ。
その容姿と魔法名から、『男を惑わす毒蛇の魔女』と呼ばれている。
「乾かしてあげましょうか?」
「着替えるからいいです。あ、薬草が池に落ちて、濡れてしまってるんです。乾かすなら、そっちを乾かしてください」
チヴェッタはドレスを脱ぎ、下着姿になる。エキドナは、両親を亡くしてひとりになった自分を拾い、育ててくれた恩人だ。幼い頃から一緒にいるので、今更、恥ずかしがったりはしない。
それはエキドナも同じだ。
「薬草なら、あとでいくらでも乾かすわ。今は貴女の方が心配なの」
「……仕方のないことなんです。あの人が……アイザック・ヴェンデルが私なんかに構うから」
「自分を卑下するような物言いをしてはダメよ。けど、やっぱりそうなのね」
「やっぱり? 何がやっぱりなんですか?」
着替えを中断することなく、チヴェッタは問い返す。
「アイザック・ヴェンデル伯爵のことよ。貴女のことが好きなのだわ」
「……寝言は寝て言ってください、師匠」
意に介さない様子のチヴェッタに、エキドナは子どもっぽく口を尖らせた。
「ところで師匠。いつになったらこの国を出るんです? まさか、ここに落ち着くつもりで?」
話を変えたくなったのもあったけれど、本当に気になっていたのだ。
エキドナは優秀な魔法使いだ。一番得意なのは、見た目にも合う闇魔法。
けれど、どんな属性魔法もソツなく使える。薬の調合も上手。
『男を惑わす毒蛇の魔女』――異名はどうであれ、その腕は認められていて、多くの国や有力者に声をかけられていた。
そんなエキドナだが、ひとつの場所にそう長くは止まらない。と言うのも――。
「そのことについて、明日王様とお話してくるわ」
「……まさかとは思いますけど、雇用契約を延長したりしませんよね?」
「…………」
不自然な仕草で、エキドナが目を逸らす。怪しい。嫌な予感がする。
チヴェッタはピンときた。
「また貢いだんですか!?」
「み、貢いだなんて……その言い方は好きじゃないわ。悪いことをしたみたい」
「悪いに決まってるじゃないですか! 前の国ではただの井戸水を綺麗になれる神秘の水だと言われて買って――しかも気絶しそうな値段でした!!」
「だって、ひとつも売れなくて困ってたから……。あのまま帰ったら、解雇になってしまうって……」
「そりゃ売れませんよ! ただの井戸水だもの! 怪しいもの!」
「チ、チヴェッタ……」
「その前の国では婚約詐欺にあいました。婚約指輪を買いたいけど資金がない。だから少しでいいから貸してくれ――そんな婚約者がいると思ってるんですか!? しかも! 出会って一週間しか経っていない男に!!」
チヴェッタは叫びに叫んで、部屋を飛び出した。向かうのは書斎だ。
そこには金庫がある。エキドナとチヴェッタが稼いだお金はすべて、この金庫に入れている。
「な、ない……空だわ」
書斎に飛び込み、金庫の鍵を開け、中を食い入るように見つめるけれど、金庫の中身は見事に空っぽだ。昨日は確かに、金貨や銀貨の袋が入っていたのに。
「全部使ったんですか……?」
「こ、孤児院の経営が困窮して困ってたから……」
「この国は平和です。比較的、貧富の差なんてありません。国の援助でどうにかなりますよ……」
つまり、困窮した孤児院なんて見たことない。少なくとも、ここ王都では。
チヴェッタは力なく、書斎の床に座り込んだ。
エキドナは、頭が悪いわけじゃない。魔法や薬草に関する知識は絶対に忘れないし、新しいこともすぐに覚える。
それなのに、男性が関わるといつもこうだ。
「どうせ、大した会話もできないまま、はいはい言ってたんでしょう」
「そ、そんなこと……ないわ」
エキドナは相も変わらず、視線を合わせようとしない。
男を惑わす――なんて言われているけれど、実際は違う。エキドナは男性と、まともに話せないのだ。
「……どうするんですか。銀貨どころか、銅貨の一枚だって無いんですよ。これじゃあ、何にも買えません」
「それなら大丈夫よ。宰相様にお手紙を書いたら、お金を貸してくれるそうなの」
「……借金。また借金……」
思えば、宮廷魔法使いになったのも、借金が理由だ。男に散々貢いだ挙句、無一文になってしまったふたりに、幸か不幸か、噂を聞きつけた王宮の使いがやって来て、働かないか、と言ってくれたのだ。
エキドナは、男性に捨てられてばかり。
なので、捨てられるたびにその街を、あるいは国を逃げるように去っていく。
それが、ひとつの場所に長居しない理由だ。
けれども今回は、少しばかり良くない状況だった。何せ、借金の連帯保証人になってしまったのだ。借金を返すまで、国を出られない。
という事情の元、ふたりは宮廷魔法使いとなった。期限付きで。
「大丈夫よ。利子はいらないそうだから」
「そういう問題じゃないです」
エキドナは悪人じゃない。身寄りのないチヴェッタを引き取って、育ててくれたのだ。優しい人。本当に優しい人なのだ。
だからチヴェッタは、エキドナを心から愛している。母であり、姉であり、親友であり、恩人だから。
エキドナに弟子入りした多くの者は去ってしまったが、チヴェッタはずっとそばにいると誓っている。
「ねぇ、チヴェッタ。明日、一緒に王様に会ってくれる?」
「私がいないと、師匠は男性の前で話せないじゃないですか」
チヴェッタは現実を受け止め、そして飲み込むことができたようだ。床から立ち上がると、ドレスのシワを伸ばす。
そう悪い状況じゃない。
この屋敷は家賃を払わなくていいし、王宮の厨房に行けばいつでも食事ができるのだ。前向きに考えよう。
「ねぇ、チヴェッタ。気に入った国があったら、遠慮なく言っていいのよ。根無し草は、大変だし、疲れるし」
「私は宿り木のない梟。止まり木があるだけで十分です。さぁ、仕事をしましょう」
チヴェッタはドレスの裾を揺らしながら、書斎を出て行く。
「チヴェッタ……」
エキドナはいつも、チヴェッタに申し訳ないと思っていた。自分がもっと、ううん、人並みにでも男性と話せる人間だったら、きちんと嫌なことは嫌だと言えただろう。
男性を前にすると、うまく言葉が出てこないのだ。相手の顔もよく見れないし、自分に向けられる言葉が嘘なのか真実なのかも判断できない。
もう二十八にもなるのに、ちっとも成長できていない。魔法だけは、自信が揺らがないのに。
エキドナは金庫の鍵を閉め――中身が無いけれど、念の為だ。
そして、何度目かも分からない決意を胸に、書斎を出て行く。
――今度は、今度こそは、嫌なことは嫌だと言ってみせるわ。銅貨一枚だって、渡さない。約束するわ、チヴェッタ!