2−2 確認
朝のこの時間。というよりもローテーションが変わる時間。教学院には、いやおそらくどこでも同じだろうが、人が多かった。
その中、ゴミ箱、モップ、箒、塵取などを乗せた台車を押し、私は担当する棟へと向かっていた。
淡い黄色のつなぎ、濃い黄色の4本から2本のライン。そのラインをまたぐ白か青のスラッシュ。学生たちと教員たち。
あるいは、淡い緑色のつなぎに濃い4本から2本のライン。そのラインをまたぐ青か、くすんだ緑色のスラッシュ。事務員たち。
「おいBlack」
不意に後から声をかけられた。今すれ違った学生のようだ。その学生は、パッドから一枚の紙を剥ぎ取り、丸めていた。
「これをそのゴミ箱に入れておいてくれ」
そう言って、その学生は紙を放り投げてきた。
私は思わず受け取ったが。
「あ、ここは私の担当ではないので」
丸められた紙を片手に持ち、その学生に答えた。
「そうなのか。それは失礼」
学生は私の手から紙を取り上げ、自分のポケットに押し込み、歩き去って行った。私も担当の棟へと台車を押した。
正直に言えば、どうせ目の前にゴミ箱があるのだから、そこに投げ込めばいいだけの話だ。学生がそうしろと言ったら、私はそうする。そうすることに躊躇いはない。
だが、問題はグラスを通して最適化システムが見ているということだ。
それが私にとっては都合がよかった。余計なことをしなくて済むという話ではない。見られているにもかかわらず、何かをするヒトがいるかどうか。私が勝手にそうしているだけではあるが、これを私はある種のテストにしている。今まで、一人もそういうヒトはいなかったが。
担当する棟に着き、入口の近くのゴミ箱を見る。地面を見て、ゴミが落ちていないかを確認する。
私が設定しているテストではないが、ともかく例外と言えるのは一人だけだった。昨晩の8579だ。
「Yellow-2-Blue」 私は仕事をしながら彼女を思い出していた。知的階級、2位。2位ということは教学院の教員だろう。それがどういうつもりで私を誘ったのかがわからない。とくに友愛を求めるわけでもなく、もちろんそんなことがあるとも思ってはいないが、礼賛をしていた。
どういうつもりだったのだろうか。Blackに礼賛の講義をしたつもりだったのだろうか。少なくともそういう感じではなかった。自分自身が礼賛をすることに酔っているようでもなかった。
昨夜は礼賛劇場での疲れもあり、私自身、幾分なりとも演じきれていなかった部分もあったかもしれない。ただ、今になって思うと、私が演じきれていなかったことに8579は満足していたようにも思える。
だとしたら、8579は何なのだろうか? やはりたんに自分自身が礼賛することに酔っていたのか。Blackに礼賛を講義することに満足していたのか。この二つなら何の問題もない。仕事のノルマの不達成を今朝指摘されたが、それか、あるいは他の私の行動から、私の思想を確認したのだろうか。だとすれば、もっと気をつけなければならない。もっと演じなければならない。最後の一つ、そしてもっともありえない可能性は、彼女がこちらのテストにも通過するという可能性だ。
しばらく前に弱いフォーンという交代の一時間半前のサイレンが鳴った。それからもう一度、担当の棟を回った。
8時間の仕事が終りに近づいた。そろそろ、また教学院がざわついてきている。
私は担当の棟の廊下で、雑務部へと台車を押していた。ずっと考えていたからだろうか、台車が進むのを遮るように一人の女性が立っているのにふいに気付いた。急に出て来たのか、あるいは待ち構えていたのか、わからない。
「あなた、……さんのお孫さんですよね?」
淡い黄色のつなぎに、濃い黄色のラインが3本。教学院の高学年生だ。そして青色のスラッシュ。エンハンスト=2。私に話しかけるような立場ではない。
その女性は真面目な目で私を見ている。
「あの、ゴミでしたら、台車のゴミ箱に入れて下さい。そろそろ終業なので雑務部に戻るところですので」
それでもその女性は廊下をあけない。
「……さんのお孫さんですよね?」
その女性は、名前だけを小声で、もう一度言った。
「たしかに、そうですが」
女性はそれを聞くと、わかるかわからないかという程度に微笑んだ。
そして道を空け、私の隣を通りすぎようとした。
通りすぎるそのとき、女性は小声で言った。
「先生からお聞きしました。またお会いできるといいですね」
私はその声に振り向くことはなかった。ただ、右手でつなぎの上から腰のポケットに手をやった。キューブが入っている。それが、この何かはわからない不安を柔らげてくれる。