3−4 礼賛劇場
私はつなぎの上からキューブを握っていた。
グラスの呼び出し音が鳴り、祖母の記憶から呼び戻された。
グラスをかけると、6476の声が聞こえた。
「大丈夫か?」
既に酔ってはいるものの、心配そうな声ではあった。
「あぁ。何とか」
「調子が悪そうというのは珍しいからな。気にはなるさ」
「ありがとう。少し落ち着いたと思う」
「まぁ、そんなことよりだ。彼女、来てるぞ」
6476の声は楽しげに変った。
「それで?」
「誰かを探しているか、待っているかという感じだ。誰かさんをな」
「いや、今日はもう休むよ」
そう言った時、グラスに映像が映った。
「ほら、こんな感じだ」
8579は確かに友愛登録カウンターの近くから、バーを見回し、誰かが遊興館に入ってくるとそちらを向いていた。
「俺をってわけじゃないさ」
「いや、お前以外の誰をだよ。それに夕食で足りないナノカプセルをバーでは入れてくれるはずだろ。調子が悪いなら、むしろ来たほうがいいんじゃないか?」
「いや、一晩休めば大丈夫だと思う」
6476はしばらく黙ってから、言った。
「生活リズムが崩れるだろう。それでは充分に奉仕できないぞ」
「ナノカプセルが補ってくれるさ」
6476から送られてくる映像の中で、8579が遊興館から出て行くのが見えた。
「そうか。まぁ、そう言うなら無理にとは言わないが。じゃぁ明日な」
「あぁ」
そう言って、私はグラスを外し、またテーブルに置いた。
私はまた右のポケットを握った。
左のポケットからカサっと音がした。教学院で学生が捨てた紙を入れていた。その紙を取り出し、広げる。そこには19桁の数字が書かれていた。
その数字にコールをしようかと考えていると、グラスがまた鳴った。
私はそれでもしばらく19桁の数字を眺めていた。9392487253269665611。
グラスはまだ鳴っている。
私はグラスをかけた。8579の番号が表示されていた。私は着信を受けた。
「こんばんは」
8579はそう言った。
「あぁ、何の……」
「昨日言ったでしょう。静かな所で会わないかって」
「いえ、会っておきたいのだけど。礼賛劇場のメインの入口で待っていますよ」
そう言って8579は通話を終えた。
どういうつもりなのか。だが、学生と関係しているかどうかだけは確認できるだろう。私は礼賛劇場へと足を向けた
礼賛劇場の入口には8579が立っていた。
私が近寄ると、8579は入口の端末に手を当てた。ゲートは簡単に開いた。
8579に連れられて、礼賛劇場の中に入った。
「人がいるんだな」
夕方、もうそろそろ暗くなろうかという頃だが、礼賛劇場の所々に人がいる。二体の立像は強烈な光でこそライトアップされていないが、足元から淡い光が投げかけらえれていた。観覧席の所々にも弱い照明が光っている。
「それはそうでしょう。礼賛劇場が、礼賛をしようという人を拒絶してどうするの」
それもそうかとも思う。「門は開かれている」という古い言葉を、ここでも実践していのか。
観覧席への入口から少し離れた席に座った。
「今日、学生から数字をもらったんだが」
私は左のポケットから折った紙を取り出した。
8579はそれを手で押し返した。
「それは憶えておいて。でも、コールしても無駄だから。あなたからのコールは受け付けないようになっているから」
「俺からの?」
8579はうなずいた。
「じゃぁ、8579からのコールは?」
「受け付けるわよ」
私は折ったままの紙を見ていた。
「何で俺からのコールは受け付けないんだ? 俺はこんな番号を知りもしないのに。何でこいつは俺のコールを受け付けないんだ? 受け付けないようにする理由だってないだろう?」
私は左手で紙を振った。
「あなたは、この社会になった頃にはまだ小さかったでしょう。私と年もそれほど違わないし。何か憶えていることを教えてくれない? 私も何かあれば思い出せたらと思うから」
8579は私の質問には答えず、そう言った。
そういうことは禁止されているわけではない。禁止すらされていない。
8579の目はいたって真面目で、その目を無視できなかった。
「そうだな。いつだったかは憶えていない。ただ真夏だったと思う」
8579は立像に目をやって聞いていた。
「空を見たんだ。真っ青だった」
私も立像に目をやった。
「真っ青だったから、空の一番上を見たんだ」
その時の空が、目の前に蘇えった。そばにはたぶん祖母がいた。
「空の一番上は……」
私はそこで言葉を切った。目の前に蘇えった空は真っ青で。その一番上は。どう言ったらいいのかがわからない。
「空の一番上は、空じゃないように見えた」
「空じゃない?」
8579がそう言った。
「あぁ。紫か、それとも暗いのか」
「空なのに?」
「あぁ。空というよりも、その向こうが見えたような気がした」
その時、たぶん私はしばらくその空の一番上を眺め続けていたのだと思う。帽子をかぶせられ、ふと右を見ると、祖母が立っていた。
「何を見ていたんだい?」
「空の向こう側!」
私は空の一番上を指差した。祖母も日傘を傾げ、空を見上げた。
「あぁ、本当だねぇ。空の向こう側が見えそうだねぇ」
「空の向こう側か。私も見てみようかな」
8579はポツリと言った。目の前の風景が消え、8579が見えた。
それからもういくつか。道端の小さな青い花のこと。アリの行進を追い掛けたこと。いつも祖母はそばにいた。
「いい話が聞けたかもしれない。また、そういう話を聞かせてもらってもいい?」
「それは、構わないが。他に何を思い出せるかもわからない」
8579は微笑んだ。
「それでもかまわないでしょう?」
かまわないだろうか。そもそも会う理由がないと思うが。
「そう言えば、学生は学びたいという気持があるかと言っていたが」
「それは気にしないでいいですよ。その時の答で充分でしたから」
何が充分なのかとも思う。
8579は立ち上がり、私に手を差し出した。
「そろそろ出ましょう」
そうして、劇場の前で分かれた。




