半分は誰かが殺した
部屋の中央に縛られている女がいた。すらりと長い手足のその女は目隠しをされて脅えているようだった。
「大丈夫」かすれた、震える声で男は言った。
女は声に反応して体をびくつかせた。反動で肩のあたりで髪が揺れる。さっきまでうつむいていた顔を上げた。目隠しをされている。神経質に頭を動かした。見えない相手を認識しようとしているようだった。
女は木製の角ばった椅子に座らされていた。手は椅子のうしろに回され、そこで縛ってある。足首も紐でむすばれ、肉に食い込んでいる。白いきれいな肌の、紐の周りだけが、ほのかに紅くなっていた。
その数メートル先、部屋の入り口の前に男は立っている。右手に包丁を握っていた。男は女のほうへと歩き出した。
「何をする気?」
気配を感じたのか女が尋ねた。
「大丈夫」男は立ち止まって、さっきと同じことをもう一度繰り返した。
「なんでこんなことをするの?」
男は答えない。また女のほうへ歩いていく。
「やめて」声がうわずっている。「来ないで」
男は止まらない。目が血走っている。
「言うとおりにすれば、何もしない」男は言った。
「言うとおりにするから、お願い」
男の包丁を持つ手は小刻みに震えていた。近づいていく足取りはふらふらとしている。「お願いだから、助けて」女は叫ぶように言った。
二人の距離は触れられるほどまで縮まった。男の手の震えは全身にひろがり、目は白目をむいている。ひざはがくがくと震え、頭は台風に吹かれたリンゴの実のよう揺れた。口は半開きになり、正体不明の液体が流れ出ていた。
女はますます不安そうに顔を歪め、身を縮ませた。
「やめて」消え入りそうな声で言った。
男はもう一歩を踏み出そうとして、思い切り転倒した。大きな音がした。
女は悲鳴を漏らした。さらに身を固くした。しかし、何も起きなかった。
男はそのまま動かなかった。
佑が目を開けると、カーペット敷きの床と誰かの足が見えた。足首には紐が巻かれている。その上に一筋、赤い線が走っていた。顔を上げて見ると、少し離れたところに女がいた。椅子に縛られたまま、血まみれになっている。
佑は悲鳴を上げた。
女は腹をめった刺しにされていた。そのあたりから血が溢れていた。女の頬にも血が塗られている。それを見て、佑は吐き気を催した。それから、自分の両手が血でべとべとになっているのに気づいて、また悲鳴を上げた。
体を起こしてきょろきょろと周りを見渡した。佑と女以外には誰もいない。静かだった。怖くなって、体が震えはじめた。この場から逃げ出したくなった。
女は死んでいるに違いなかった。
「嘘だ……」 佑は頭を抱えた。自分の部屋で死体と二人きりで目覚めれば、誰だってこう言うだろう。
ゆっくりと立ち上がり、もう一度あたりを見回した。間違いなく佑自身の部屋だった。
佑は寝室から出て、ドアを後ろ手に閉めた。それから居間まで歩いた。時計を見て、居間が夜中の一時すぎだということを知った。
懸命に何が起こったかを思い出そうとした。彼女の後をつけていたことは覚えている。彼女の名前はたしか、戸田さおりといったはずだ。
自分の名前を口にするときの怯えた姿を思い出す。同時に、今日の夜の出来事が頭に浮かんできた。
一人で夜道を歩く彼女。うしろから近づいた。ナイフで脅かす。すぐに大人しくなった。自由にできないようにして車に乗せ、家に連れてくる。そして椅子に縛りつける。
彼女は怯えきっていて、佑は興奮した。
記憶は匂いが嗅ぎとれそうなほど生々しかった。しかしそのあたりから記憶が曖昧になってくる。必死に集中しても目の前の映像はゆらゆらしていて、思い出すだけで気絶してしまいそうだ。
(そうだ。気絶したんだ)
佑は思った。今ようやく目を覚ましたところなんだ。
普段は人気のない河川敷に何台ものパトカーがとまっていた。川にはボートが二艘出ていて、船上の警官が網や棒を使って水中を調べている。遠巻きに見物するやじうまも何人かいた。
「遺留品は?」煙草をくわえた年配の刑事がきいた。
「まだ何も」そばにいた若い刑事が答えた。
「収穫なしか」年配の刑事は溜息をついた。シャツの脇のところが汗で濡れていた。「だが珍しいな。重りもなんもつけずに捨てるなんてよ。ドラマやなんかでもそういうことはいくらでもやってるだろうに」
「たしかに。よほど慌てていたんでしょうか?」
「それか、錯乱していたとか」
「なるほど」若い刑事は難しい顔をして唸った。
「わからんがな」
「大畑さんはどう思いますか? この事件、やっかいですか」
「俺の勘は当てにならないからな」年配の刑事は言う。
「そんなことはないでしょう」
「別に変わったことのない事件だとは思うが、こういうのが曲者だったりするからな」大畑は言った。「まあ、とにかく気を抜かずにいかなきゃいかん」
高岡は川のほうを見た。向こう岸にちょうど太陽が沈んでいくところだった。オレンジ色の光が水面を照らしている。
「それにしても暑いな」
大畑は左手にスーツの上着を持っていた。
「ええ」高岡は頷いた。「夕方になっても気温が下がらない」
「うちの近くの公園じゃセミの声がすごいよ。おかげでよく眠れない。捜査なんてやってられんな」
「わたしたちは明日から聞き込みですか?」高岡がきいた。
「ああ、そうだよ」大畑は溜息を吐くように言った。
川に停泊させてある船に引っかかったゴミ袋から遺体が発見されたのは、今日の昼過ぎだった。検死の結果、殺人の疑いが強いとわかった。だが見つかった遺体は、たとえ死体についてなんの知識もなくても、一目見れば刺殺だとわかるようなものだった。
被害者は若い女だった。身元はまだわからないが、おそらく捜索願いが出ているだろう。
「ストーカーですかね」
「可能性はあるな。決め付けはよくないが……」大畑は言った。「明日になれば身元がわかってるだろうから聞き込めば何かわかるかもしれん」
「ええ。がんばりましょう」高岡は腰に手を当てて言った。
その日のうちに女の名前が戸田さおりということがわかった。高岡と大畑は彼女の友達から話をきくことができた。彼女は戸田さおりが見知らぬ男と二人で歩いているのを見かけたのだという。場所は彼女や戸田さおりが通う大学の近くだった。
「なんか男の人のほうが背が低かったし、年も離れてるみたいだったし、とにかくミスマッチっていうか、合ってない気がしたんです」と彼女は言った。
彼女は目撃した男の見た目をいくら話すことができた。そしてそういう男が捜され、周囲の証言から怪しい男が何人か見つかった。しかし残念ながら彼女は男たちの写真の中から目撃した男を選び出せなかった。
「この人な気もするし、この人って気もする……」多くの写真を指差しながら言った。
「どこから行こうか?」目撃情報からピックアップされた男たちのリストを見ながら大畑が言った。
「勝手に決めちゃっていいんですか?」
「警部には俺から言っとくから大丈夫だよ」そう言って大畑はにやっと笑った。顔のしわが余計に深くなる。「この田端佑ってのはどうだ?」
「どうしてです?」
「家がここから近いからだよ」
「そんな理由ですか。死体を捨てるのに自分の家の近くを選ぶとは考えづらい気がしますが」
「いいんだよ。死体を捨てる場所なんて一杯あるかもしれんが、慌てている人間にはそう思えないもんさ」
「なんで慌てていると?」
「いっぱい刺してあったろ?」
「それだけで?」
「別に構わんだろ。近いほうが楽だしよ」
高岡は笑いながら溜息を吐いた。
大畑と高岡の二人は田端佑の自宅を訪れた。新しめのマンションの三階だった。一人で住むのにはだいぶ広い。夕方の早い時間だったから田端がいるか心配だったが、チャイムを鳴らすと静かに扉が開いた。玄関に近づいてくる音もしなかった。ドアがそろそろと半分だけ開いた。その隙間から田端が神経質な表情を覗かせた。
大畑と高岡はドアの開いているほうへ移動して「警察です」と身を乗り出した。そしてわずかに開いている隙間に手をいれ、ほとんど無理やりにひろげた。玄関に強い西日が射し込んだ。急に外の世界に引きずりだされ、田端は驚いているようだった。
「田端佑さんですね?」高岡は言った。
「な、なんですか?」田端ははじめて口を開いた。
思ったよりも若い外見だった。たしかに小柄で、玄関の上にいても高岡たちと目線が変わらない。しかし細身で均整のとれた体だった。
「警察です」高岡が繰り返す。警察手帳を開いて見せた。「このあたりで起こった事件のことでお伺いしたいんですが」
「ああ、ええ……」田端は困ったような、悲しいような、愛想笑いも少し混ざった複雑な顔をした。
「よろしいですか?」
田端はその妙な顔のまま頷いた。
「ありがとうございます」高岡は言った。「お話する場所はここでよろしいですか? 近所のかたに見られてしまうことも考えられますが」
「えっと、それじゃあ」田端は振り返って家の中を見た。「いえ、ここで大丈夫です」
「そうですか、それではお伺いします。この女性をご存じですか?」高岡は写真を一枚差し出して見せた。
「知りません」一目見て田端は答えた。
「そう言わずに、よく見てください」
今度は写真を受け取り、しばらく眺めた。
「やっぱりわかりません。誰なんです? この人がどうしたんですか?」
「この近くを通っている曲良川で死体が見つかったのをご存じですか?」
田端は頷く。
「わたしたちはその捜査をしているんです。そして彼女はその事件の……被害者です」
田端は高岡と大畑の顔を交互に見る。
「彼女のことは知りませんか」高岡は質問を続けた。「事件のことで何か心あたりなどはありませんか?」
田端は体の前で手の指を組み、うつむいて何かを考えるような姿勢をした。
「事件のことはきいてますけど、何も知りません」
「事件のあった日、彼女があなたによく似た人と歩いているところが目撃されてるんです。それで、もしそうなら何か知らないかと思って来たんですが……」
「その人とは会ったことがありません」田端は写真を指差しながら言った。見たこともない人です」
「そうですか……。それでは今日は帰ります」高岡は言った。「また何かあったら伺わせていただいてよろしいですか?」
「その前に」大畑が口を開いた。「トイレをお借りしてもいいですか? ずっと我慢してたもんで」
田端は断るための理由が思いつかないようだった。大畑はそのうちにさっさと靴を脱いでしまって、家の中に上がって行く。
「申し訳ありません」高岡は頭を下げた。
大畑はトイレを通り過ぎて、廊下の先のリビングまで行った。
「トイレはそっちです」それを見て、田端は慌てて指をさした。
「失礼しました」
大畑はすぐにトイレから出てきた。
「どうですか?」高岡は小声できいた。
「居間のカーペットにしみみたいなものがあった。証拠を消されないように居座るぞ。おまえはまず連絡をしろ」
高岡は言われたとおりにした。
連絡から数十分後には田端佑の部屋の捜査がはじめられた。その結果は単純明快だった。彼の部屋からは血のついたカーペットと、被害者の傷とぴったり合うナイフが見つかった。また、カーペットからは戸田さおりのものとよく似た髪の毛も発見され、詳しく調べられることになった。
数日のうちに田端佑は逮捕された。すぐに田端は自供をはじめた。しかしなぜか、動機や犯行の様子についてはいっさい口を開かなかった。
「なかなか口を割りませんね」
「手ごわいな」大畑は頷いた。
「あれだけ証拠がそろっているのに」
「何か隠してることでもあるのかもな」
「隠し事ですか……」
「誰かをかばっているとか」
「でもそんな人がいるかどうか。田端はかなり孤独な生活を送っていたみたいですけど……」
「まあな。とりあえず今日はその辺りから探りを入れてみるか」
「そうしましょう」と高岡は答えて、取調室へと向かった。
取調室の中に入ると、田端は椅子に座って縮こまっていた。頭はうつむいたまま見上げるようにしてこちらを見てきた。
「なあ、黙ってないでなんとか言ってくれないか?」大畑が言った。「それじゃあこっちも仕事にならないんだ」
田端は視線を下げ、取調べ机の上を見た。
「何でもいいんだ。例えば、あんたの生活のことでもいい」
部屋の中はしんと静まり返った。田端は答えない。
「戸田さおりとの関係は? なぜ一緒にいたんだ? 知り合いか?」大畑は辛抱強く言葉をついだ。「目撃証言があるんだが」
高岡はそれを横からじっと見ていた。
「ストーカーか?」
やがて田端が顔を上げた。
「彼女を監禁したのは俺です。でも、殺したのは俺じゃないんです」彼は、意外なことを言った。
「何だって?」思わず高岡はききかえしてしまった。
「共犯がいるってことか?」大畑がきいた。
「い、いや……」
「誰だ?」大畑がまたきいた。「誰が殺した」
「わかりません……」
「わからない?」
高岡と大畑は顔を見合わせた。
「どういうことだ?」高岡が気を取り直してきいた。
「知らないんです。俺が気づいたら彼女は死んでいたんです」
「何を言ってる?」
「もう少し順を追って説明してくれないか?」高岡は言った。
「俺は彼女の後をつけていました。ナイフで脅して、家まで連れ帰ったんです。あの居間の椅子に縛り付けました。そして彼女に近づこうとしたら、急に頭がふらふらしてきて……目の前が真っ暗になったんです」
「それで?」
「目が覚めたら、彼女は死んでいました」
そう言って、田端は目を伏せた。
「そんな馬鹿な……」
しばらく高岡は口をきくことができなかった。
「つまり、あんたは戸田さおりを誘拐しただけだと?」大畑がきく。
短い沈黙の後、田端は「そうです」と答えた。
「それを信じろと?」
「でも、本当なんです……」
「だいたい、なんで誘拐なんてしたんだ? 縛り付けた後、あんたは彼女に何をしようとしたんだ? 殺そうとしたんじゃないのか?」
「ずっと昔からだったんです」と田端は言った。「ずっと前から、俺は彼女みたいな女を縛り付けてナイフや何かで脅かすことを妄想してたんです。そればっかりが望みだった。そのことばかりを考えていたんです。縛り付けた後のことは考えたことがなかった……」
「殺すつもりで誘拐したわけじゃなかったと?」
「はい……」
「あなたが気を失っているうちに誰かがあなたの部屋に入ってきて、戸田さんを殺害したということですか?」高岡は口を挟んだ。
「たぶん、そうです」
「それが本当だとして、犯人は?」
「わかりません……」田端はうつむいて、体の前で手をすり合わせた。背負わなくてもいい責任まで背負っているというふうなしぐさだ。
「なんでその犯人はあんたの部屋なんかに入って来るんだよ」
田端は答えなかった。
「知るわけないってか」大畑は溜息をついた。
「本当なんです。信じてください」
「そう言われてもなあ……」
取調べを終えた後、高岡と大畑の二人はデスクに座りコーヒーを飲んだ。
「大畑さんは信じますか?」高岡がきいた。
「あんなものが信じられるか?」
「でも田端は真剣そうでしたけど」
「だからってな……。言ってることがめちゃくちゃだ。女に近づいたら倒れただと?」
「極度の興奮で気を失ったと考えればあるいは……」
「いいか。あいつが言ってることはだな」大畑は言った。「『僕は獲物をつかまえただけです。殺してません』ってことだぞ。ただの責任逃れにしか思えん」
「それを言ったらそうですが……」
「犯行の記憶を失くしたことも考えられる」
「たしかにそれもありえますが」
「共犯を匿っているというふうに捉えられなくもないな。そういうタイプには見えんが」
高岡はコーヒーを一口飲んだ。「やっぱりあれは、田端の嘘でしょうか」
「途中まで誘拐殺人の典型的なパターンなのに、殺す寸前にぶっ倒れてそこだけ記憶がないって言うんだ」
「都合が良すぎ、ですね」
「ああ」大畑は頷いた。
「でもいいんですか?」
「何がだ」
「たとえ嘘でも、完全に無視するのは大畑さんのやりかたではないでしょ?」
「まあな」
それをきいて高岡は少し笑った。
それから数日の間、高岡と大畑はその男のことを調べた。しかし何の手掛かりも見つけることはできなかった。
「それにしても暑いな」大畑は自前の扇子で襟元をあおぎながら言った。
太陽は空の高いところにあって、ぎらぎらとした光を放っていた。幸い田端のマンションの近くはこじんまりとした住宅街で、日陰が多かった。
「見つかりませんね」
「ああ」大畑は唸った。「不審な男どころか、田端と戸田さおりの姿を見た人間もいない」
「車を使ったとはいえ、このあたりの様子だと、女を脅しながら家に連れ込むのはかなりリスキーだと思うんですが……」高岡は歩きながら腕を組み、首をひねった。
「一人ぐらい目撃者がいてもよさそうなもんだが」
「やっぱりあの田端の言葉だけじゃ、調べようがないですね」
「それに暑すぎるのも問題だな」大畑は空を見上げながら言った。
「本当に」高岡も額に手をかざして太陽を仰ぎ見た。こめかみのあたりを汗が流れる。「署内じゃ私たちの行動に文句をつける連中もでてきてるみたいですよ。田端がつくりだした架空の人物を探してる、って」
「そりゃあそうだろうな」大畑は他人事のように言った。
「なにせ証拠はすべて犯人は田端だと示していますからね」
「架空の人物、か」大畑は言った。「そういうやつの言うことをきいてやるのも大切かもしれん」
留置場の中でずっと、佑は頭をうなだれ、膝を抱えて座り込んでいた。一日のうち、食事以外で動くことはほとんどなかった。佑は捕らえられてカゴに入れられた虫を想像した。自分の力では何もできない。運命は外にいる人間に委ねられている。そんな存在だ。
外に出る望みはもはや潰えていた。解放されたとしても芋虫に空を飛びまわることはできない。それでも、これから自分の身に起こることを考えると怖かった。電気椅子は冷たいだろうか。佑は死刑がどんな方法で行われるか、よくわからなかった。絞首台から落ちて、首の骨が折れるとき、罪人はその音をきくのだろうか。
今朝、佑を訪ねて来た男は信じられそうになかった。男は弁護士だと名乗った。黒い直毛に、日焼けした肌の男だった。名前はたしか八木といった。
「無罪を主張します」と八木は言った。「あなたの話をきいたところでは、事件当時あなたはかなり激しい錯乱状態にあったようです。心神喪失です。これは無罪にできますよ。無罪」
できるわけない、と佑は思った。しかし八木は佑の言葉に耳を貸さなかった。
「任せてください」とだけ言って彼は帰っていった。
八木が帰った後、佑はさらに不安になった。自分がしたことを後悔した。しかし、殺してはいない。殺したのは俺じゃない、と佑は思った。誰にも信じられないだろうけれど、本当なのだ。
「おい」呼びかけられて、佑はびくっと体を起こした。
声のほうを見ると、檻の向こうに、二人の刑事がいた。年配のほうが大畑、若いほうが高岡だったはずだ。
「おい」大畑がもう一度呼びかけてくる。
「なんですか?」佑は二人を見上げてきいた。
「みっともない姿だな。ずっとそうやって床に座ってるのか」
佑は答えなかった。
「しゃきっと立ってみろよ」
「いいんです。べつに、立ってもうれしくないし……」
「何を言ってるんだおまえは」大畑はあきれた顔で言った。「まあ、いいや。とにかく話をきかせろ」
「だから何度も言ったでしょう? あれ以外のことは覚えてませんし、わからないんです」
「何か思い出したりは?」高岡がきいた。
「ありません」
「まあ、そういうな。俺たちはおまえのために暑い中歩き回ってるんだから」大畑は言った。
「それで、何か見つかったんですか?」田端は不健康な笑い顔を浮かべた。
「だからおまえに何か話せって言いに来たんだろうが」
「ですから――」
「それとも自分の嘘を認めるのか?」
「信じてくれたんじゃなかったんですか?」
「俺たちはそんなこと言ってないぞ。とにかくおまえがこれ以上何も知らないっていうなら俺たちはお手上げだ」
「そんな……」
「おまえにがんばる気がないなら俺たちも努力をやめる」
佑は大畑から目をそらし、床を見つめた。なんの反応も帰ってこなさそうな無機質な床だ。結局、何も言わなかった。
大畑は舌打ちをした。
「しょうがねえ。帰るぞ」
二人の刑事が去っていく足音だけがきこえた。
「あんなこと言う必要あったんですか?」高岡がきいた。
「少しやりすぎたかもしれん」大畑は認めた。「でも、あいつの態度が気に食わなくてな」
「これからどうします?」
「もう一度現場を洗いなおしてみるか」
「それしかないですね」
「まずは書類とにらめっこだな」
二人は事件の資料を片っ端から集めて回った。あまりいい顔をしないものもいたが、なんとかすべての資料を貸してもらうことができた。それを二人のデスクの上にひろげた。
「全部集めてみるとかなりの量ですね」高岡が言った。
「こうしてまとめて見てみれば、普段はわからないことが目に付くこともあるだろうよ」
「がんばりましょう」高岡はそう言って自分のデスクに座った。「こういうときはデスクが隣だと助かりますね」
「普段はどうだっていうんだ?」大畑は少しにやついた顔で言った。
高岡は唇を上げただけで何も答えず、資料との格闘をはじめた。
こうして見ていると、田端が死体を捨てて、証拠を消そうとしてしまったことが悔やまれる。おかげで事件後の状況がわからなかった。死体がどんな状況に置かれていたのか、田端がどこに倒れていたのか、凶器はどこにあったのか、それらはすべて推測するしかない。ほとんどの手掛かりが消されている状態になっていた。
事件当時の状況を唯一語れる田端も、記憶があいまいで証言が定まらない。そんなものを信用することはできないということで、田端の証言は無視されることになったから、ますます状況を再現することは困難になっていた。
「これ見てくださいよ」高岡は血の分布をあらわした部屋の見取り図を差し出した。
ルミノールを使ってこまごまと調べていったものだ。見取り図の中の、死体があったと思われる場所に印がつけられていた。部屋の奥のほうだ。
「死体の倒れていた位置ですが、田端が倒れていたのが証言どおり部屋の真ん中だとすると、少々遠すぎませんかね?」
「ん? ああ」大畑は見取り図を受け取りながら言った。「たしかにそうだな。犯人が、動かしたのか……?」
「被害者を殺害するのに田端が邪魔だったんですね?」
「もしあいつの証言が正しいとしたらだがな」
「田端の言っていることが本当なら、誰かがあそこにいたという可能性がある……」
「まるで幽霊の痕跡を探しているみたいだな」
「資料じゃなくて死霊を見ている感じですか」高岡はしれっと言った。
「誰がうまいことを言えと言った」大畑はにこりともせずに答えた。
二人は黙々と書類をめくった。部屋のクーラーは利きが悪く、少しかび臭かった。高岡も大畑もシャツの袖を捲って作業した。
「これを見てみろ」大畑が言って、煙草に火をつけた。
「気をつけてくださいよ」高岡は資料の山を見ながら言った。
「大丈夫だよ。今は休憩中だ。作業するときは消すよ」大畑は煙を吐いた。「それよりこれだ。この髪の毛」
「ちりちりですね」
「田端の部屋の居間から採取された髪の毛だ。あいつも戸田さおりもこんな髪じゃあ、なかったよな?」
「戸田さおりはストレートですし、田端の場合少しウェーブしてはいますがこんなではありませんね」高岡は言った。「じゃあこれが田端が言う犯人の?」
「とにかく誰か別の人間があの部屋に入ったことはたしからしい。田端は五年前からあの部屋に住んでるが、家を訪ねてくる人なんかいなかったと言っていた」
「前の住人のときのものでは?」
「田端の部屋は男の一人暮らしにしてはよく片づいていた。きれい好きだったんだんだろう。ゴミはほとんどなかった」
「五年も前の髪の毛はない、か」
「一応詳しく調べてもらう必要はあるがな。いずれにしろこんな髪の毛のやつはそうはいないだろ」
「見事にちりちりですね」高岡はビニールに入った髪の毛を蛍光灯に照らして見上げた。「パーマですかね?」
「知らん」大畑は即答した。「だがしばらくはこれを手掛かりに探すことにしよう」
「犯人は天パーか……」
すべての資料を見終わるころにはもう日が暮れていた。大畑の灰皿は吸殻で埋まっていた。結局、他にはおかしなものは一つもなかった。すべての資料が疑わしいのは田端だと言っているように思える。
「まあ、しょうがないわな」大畑は言った。「明日からは髪の毛の持ち主を探そう」
次の日、朝一番に高岡と大畑の二人は再度留置場の田端を訪ねた。
田端は、同じように床の上に座っていた。まるで昨日からずっとこうしていたようだ。
「おまえ、まだそんなかっこうしてんのか」大畑が言った。「いつまでもそうしてると、そのうち自分の力じゃ立てなくなるぞ」
田端は顔は上げず目だけで二人のほうを見て、口を開いた。
「どうせ年をとればみんな歩けなくなるんだ……」
大畑は呆れかえった顔で上を見た。
「この髪の毛に見覚えはありませんか?」高岡は借りてきた髪の毛が入ったビニールを鉄格子の近くに差し出した。「あなたの部屋に落ちていたんだ」
田端はしぶしぶといった感じで立ち上がり、ゆっくりした動作で鉄格子のところまでやってきた。
「知らない」そう言ってすぐにまた座り込んでしまった。
「天然パーマだ」高岡は言った。
「別にそうとは限らんが珍しい髪の毛だろ? これがおまえの部屋にあったんだ。変だとは思わないか」大畑が言った。
「別に……」
「もしかしたら犯人のものかもしれんのだぞ」
「犯人」という言葉に田端は反応し、ぴくっと動いた。
「でも、知らないんです。何も知らないんだ……」
「おまえの知り合いにこういうやつはいないのか」
「いません」
「それじゃあ、心当たりは? どこかで見かけたことは?」
田端は無言で首を振った。駄々をこねる子供のような姿だった。
「まあ、おまえには期待しちゃいない……」大畑は言った。「だがな、近くに答えがあるときに怠るようになっちゃだめだ」
収穫なく、二人はその場所を去った。
佑は考えていた。
ちりちりの髪の男。または女。
どこかで見たことはないか。でも、やっぱり駄目だった。そんな人は思い浮かばなかった。今までの人生で会った人の中にそんな人いただろうか? いろんな人の顔を思い出した。最近からはじまって幼い頃まで。
やっぱり無理だ……、佑はそう思った。答えはちっとも近くになんかない。
だけど、どうしてそんな髪の毛が部屋にあったのだろう。まったく覚えがない。佑が知らないうちに入りこんだとしか思えなかった。ずっと何年も前から、あの部屋には見知らぬ男が住んでいたのかもしれない。そいつが今になって出てきて女を殺し、去っていった。そんな妄想が佑の頭には浮かんだ。佑が知らないだけで、ずっと一緒に暮らしてきたのだ……気味が悪い。
そんなわけない、とも思ったけれど、そうでなければどうしてあんなことが起こったのだろう? まるで大掛かりな悪い冗談のようだ。もしかしたらちりちり頭のやつは魔術師かなにかかもしれない。
そんなやつにかないっこない。
そんなやつのことを知るわけがない。
もう駄目だ……。
自分の頭のどこかにおかしなところがあって、それが原因でこんなことが起こっているのかもしれない。彼女を殺したのは本当は他の誰でもないかもしれない。犯人なんていないかもしれない……。そう考えると怖くなって、ひざを抱えた肩が震えた。
佑は考えるのをやめた。
ものごとを考えないようにするのは得意だった。小さい頃からずっとそうして来た。しかし、なぜか今はそれができなかった。二人のことを考えてしまう。二人の刑事が髪の毛の持ち主を探し回る。本当にいるのかもわからない人間を……。
そんなこと、考えたくなかった。なのに勝手に頭にその姿が浮かんできた。どうがんばっても思い通りにならなかった。
佑はいらだたしくて、髪をかき乱して唸った。
高岡と大畑は田端の家の近くをききこみして回りつくした。前回と合わせて、二度三度と話をきいた人もいた。それでもちりちり頭の目撃情報は得られなかった。
一人だけアフロヘアの大学生が近くに住んでいることがわかったが、この学生は田端や戸田さおりとはなんの接点もなかった。念のために髪の毛をもらっておいたが、高岡が見ても明らかに違う髪であるのがわかった。
田端のマンションを観察することができるところにある公園で二人はベンチに腰掛けていた。遊んでいる子供は今はひとりもいない。ここからあまり遠くないところに大きな公園があるから、みんなそっちに行ってしまうのだ。子供の代わりにセミたちが大きな声で喚いていた。
「どうやら例のゴーストは目撃されてはいないようですね」高岡が言った。
「まったくよっぽど用心深いか運がいいんだろうな、そいつは」
「これからどうするんです?」
「言っただろ? 目撃されてようがいまいが、相手が出てくるまで待つって」
「本当にただここで待つんですか?」
「しょうがねえだろ。それが一番可能性があるんだ」大畑は薄紫色になった空を見上げながら言った。
高岡は顔を上げて溜息をついた。白い月が出ている。
「実はあと一箇所、待ち伏せに向いた場所がある」
「どこです?」高岡はきいた。
「大学だ。田端が戸田さおりを待ち伏せていたあたりだ」
「どうしてそんなところが?」
「単純に、そいつが田端を見かけることができるのは車に乗っていないときだけだ。つまり、誘拐する相手を物色中か、連れ込むときってことだな」
「それより以前の可能性は?」
「ある。だが大学に向かう前は家にいたわけだから、探すのはやはりこの二箇所だ」
「じゃあ、明日は大学近辺でききこみですね」
「その結果しだいで張り込む体制を考えよう」
「どっちにしろ、可能性の低い捜査ですね」
大畑は頷いた。「まあ、しょうがねえだろ」
夏の日は長かったが、太陽が沈むと暗くなるのはあっという間だ。夜になると、昼ほどの猛烈な暑さはなくなった。生ぬるい風がゆっくりと流れた。車内の温度が危険域を脱した頃を見計らって、二人は車の中に乗り込んだ。
「おまえもよくやるなあ、こんな仕事」大畑が言った。
「案外悪くないですよ。こうして車の中、闇に目を光らせてじっとしていると、何か心が騒いでくるんです」
「そうなのか?」
「大畑さんは、違うんですか?」
「たぶんそれはおまえだけだと思うぞ」
「じゃあ大畑さんはなんでこんなことを?」高岡はきいた。
「さあな。おもしろい嘘をつくやつがいたもんだと感心したから付き合ってやってるだけかもな」
「ははあ」高岡は感心して言った。「偉いですねえ」
「いいからおまえはもう寝ろ。交代の時間になって眠いままでも知らんぞ」
「こういうときってなかなかすんなり寝れないんですよ。興奮ですかね?」
「ガキか、おまえは」大畑は呆れたように言った。
高岡は後部座席に移り、横になった。狭かったが、どちらかというとそういうところで寝るほうが得意だった。睡魔は意外と早く訪れた。
大畑のダミ声で高岡は三度目の起床を迎えた。今度こそ本当の朝だった。体の下の座席は汗と熱を吸ってざらざらと嫌な感触だった。起き上がって時計を見ると、八時だった。 結局、目的の人物は現れなかった。
「さっさと移動して、ききこみだ」大畑は言った。助手席で煙草をふかしている。
高岡は「はい」と言って、重い体を動かした。
田端の家と大学の中間地点、幹線道路を走っているときに大畑の携帯電話が鳴った。「はいよ」と言って大畑は出た。
「え? 田端が?」大畑は言った。驚いた声だった。「わかった。向かうよ」
「どうしたんです?」
「田端が俺たちに話があるそうだ」
「田端のほうから?」高岡は驚いた。
「おもしろいことになるかもな」
すぐに進路を変え、留置場へと向かった。
外は明るい日射しが照っていても、留置場の中はいつも通り薄暗かった。
「おう、なんの用だ?」到着するなり大畑は言った。
田端は二人を見上げ、立ち上がった。「あの後、何か手掛かりになるものを見ていないか、考えてみたんです」
「ほう、やるじゃねえか」
「いろいろ思い出したんですよ」田端は言った。「あの日、どんなことをしていたのかとか、どうしてあんなことをしようと思いはじめたのかとか……、あの日までの俺は何をしていたんだろうとか。いろいろ考えました」
高岡は黙ってきいていた。隣の大畑もそうしている。
「それで、気づいたんですよ。あの髪の毛の持ち主を見かけてたってことに」
高岡と大畑は思わず同時に声を上げた。
「なんだって?」
「あの日……事件のあった日、俺はあの男を見ました。あいつは車に乗ってたんだ」
「待て。どこで見たんだ?」
「俺が都合のいい女を探しに大学に向かっているときです」田端は言った。「赤信号で停車したとき、たまたま横の車を見たんです。そのとき、その車に乗っていたのがあいつです」
「あいつって、あの髪の毛だけで……」高岡が言うのを大畑が制した。
「間違いありません。あの髪はあの男のものです。間違いない」田端は強い口調で言った。それから少し何かを考えてから続けた。「あいつは俺の斜めうしろをしばらく走っていました。だけど、大学の近くに差しかかるとわき道にそれて、その後は見ていません」
「なるほどな……」大畑は言った。顎に手を当てて考えこんでいる。「そいつはたしかに男なんだな」
「そうです。身長はわからないけど、顔は大きかった」
「髪型はどうなんだ?」
「あの髪の毛がいっぱい頭に乗っかっている感じです。ちぢれ麺とか固焼きそばみたいな……」
「なんだそりゃ、そんな髪型があるか?」
「なんていうか、小さいバネが絡み合ったみたいなっていうか……」
「こういう感じか」高岡は自分の頭の周りで手を動かしてきいた。
「そうです」田端は勢いよく頷く。
「どういう感じだ。俺にはまったくわからん」大畑が言った。
「大丈夫です。後で絵に描いてあげますから。とにかく早く調査に行きましょう」
大畑はまだ釈然としない様子だったが、高岡と一緒に大学へと向かった。二人が来てから帰るまであっという間だった。佑はそれを思って少し笑った。
なんだか疲労感があった。百メートルを全力疾走したらこんな感じかもな、という気がした。全力で走ることなんてここ何年もしていない。でも、ここが留置場じゃなければ、そうしてもいいような気分だった。
自分が人を殺していないということがわかって、安心していた。人を殺していないということがこんなにもうれしいことだとは思わなかった。記憶にもない事実がわかっただけでこんなにも気持ちが変化するなんて、不思議だった。
裁判もそんなに怖くはなくなった。嫌な人間たちに取り囲まれて、揉みくちゃにされるのにだって耐えられる気がする。
今日は久しぶりにすんなりと眠りにつけるかもしれない。
「これが?」高岡が描いた絵を見て大畑は言った。
「これです」高岡は胸を張って答える。
「こんなのありか?」大畑は目を見てきいた。「やっぱり今からでも田端に確認したほうが……」
「大丈夫です。田端も私のであってるって言ったじゃないですか」
「そりゃそうだがなあ」
「たぶんこいつが出てきたときには、うげーって言いますよ大畑さん」
「そんなことは言わん」
「それより」と高岡は言った。「ここで待ってるんで本当にいいんですかね? その日はこの辺りにいたってだけでしょう?」
「そいつが犯人なら同じことを繰り返そうとすることも考えられる」
「ああ、そうか」高岡は肩を落とした。「ここに来るって決まったわけじゃないんですね?」
「あたりまえだ。俺たちは可能性のできるだけ高いことをするだけだよ」
二人はずっと車の中にいた。つけっぱなしのクーラーは苦しそうな音を立てた。ときどき場所を変えたり、辺りをぐるりと回ってみたりした。夏休みだというのに学生の姿は結構多かった。学生たちは二人の刑事のことなど気にもとめずにわいわい楽しそうに歩いていた。
高岡と大畑は交互に昼寝を取った。高岡は一人のときに男が現れることを予期し、大畑を起こすべきかどうか悩んでいたが、結局現れなかった。
少しずつ日が傾き、日陰の場所が増えていった。その間中ずっと二人は辺りを注意していた。
気がつくともう日が暮れていた。学生の姿もまばらになっていた。
「これって何日くらい続けます?」買ってきた缶コーヒーのふたを開けながら高岡は言った。
「三日だな」大畑は言った。「それ以上は遊ばせてくれんだろ」
「これが遊びって言われちゃうんですね」高岡は溜息をついた。
そのとき、そいつが目に飛びこんできた。
思ったより小さな男だった。だが、間違いようがない。
「大畑さん、あれ」高岡は叫んだ。
「ん? どうした?」
「例の男ですよっ」高岡はドアを開けた。
「なに、どれだ!」
高岡が先に男に向かって走っていった。大畑も大慌てでついてきた。
高岡が話しかけるまで男は二人が近づいてきたことに気づかなかったようだった。二人の剣幕に驚いていた。二人が刑事だと知るとさらに驚いた。
「田端佑という男を知っていますか」高岡がきいたが、男はピンと来ない様子だった。
「曲良川で女性の死体が見つかった事件はご存知ですか?」
そう言うと男はわずかににやりとしたようだった。
「その事件の容疑者です」高岡は田端のマンションの写真を差し出した。「見覚えはありませんか?」
「ああ……」男は低い声で唸るように言った。
「実はその事件でききたいことがあるんです」
「話をきかせてもらえるかな」大畑が言った。
「いいよ」男は笑うように大きく口をあけて言った。「どうせ何も出てきやしないんだ」
「まあ、とりあえず来い」
大畑は男の横について、車のほうへと歩き出した。
「ところでよ、どうして俺に話を?」
「これだ」そう言って高岡は手書きの似顔絵を見せた。
「なんだよ、これ……」
「そっくりだ」高岡は言った。
車へ乗りこんだ。大畑が男とともに後部座席に座った。
「なんで殺した?」大畑が突然きいた。
男は答えなかった。
「なんで殺したんだ?」大畑は繰り返した。
「ここって、オフレコだよな?」男は言った。
「証言としては扱われない」
男はさっきよりはっきりとしたにやつき笑いを見せた。
「そうだな、特に理由なんてねえな。あいつにきいてやりたいぐらいだよ。なんで俺の前を通りかかったのかってな」
「あいつ? 田端のことか?」
「そう。そいつだ」
「おまえはあんなところで何をしてたんだ?」
「別に。何かおもしろそうなことはないかとぶらついてただけだよ」陽気な声で男は言った。「そうしたらあいつが、何かしでかしはじめた」
「それで追いかけたのか」
男は答えない。バックミラー越しに見える男はうつむいて、かすかに頬が上がっているように見えた。
「田端のマンションに入った後、どうした? どうやって田端を気絶させたんだ?」
「知らねえよ。知っててもそんなヒントは与えられない」男は言った。「だが、気絶させる必要はなかったかもな。勝手に目の前の殺人犯が倒れたかもしれない」
「田端は何もなしに倒れた……?」高岡が言う。
「運動不足だったんじゃねえか?」男はくっくっと笑った。男の笑い声は、調律の狂ったピアノの低音のようだった。
「そんなことはいい」大畑が言った。「その後どうした?」
「殺したんだろ」男は言う。
車は線路の高架下を走り抜ける。
「おまえは戸田さおりとは面識はないな」
「ああ」
「なんで殺す必要がある?」
「さあな、おもしろそうだったからじゃねえか?」男は言った。「その場で起こってたことを最後まで終わらせただけだ」
「馬鹿な……。人殺しだぞ」
「半分はそいつが殺したんだ」
大畑は黙りこんだ。
「殺されるやつだってどうせそういう運命だったんだからな。怨むなら俺より、捕まえたやつだろ」
高岡は何か言おうとしたが、言葉が出てこなかった。タイヤが転がる音だけがする。
「そんなことは関係ない」やがて大畑が口を開いた。「おまえはただの殺人犯だ」
「ほう」と男は言った。「それで俺をどうするつもりだ?」
「もちろん、捜査に協力してもらう」大畑が答えた。
「それで裁判ができるのか? どうせなんも出てきやしねえ」
「見つけるさ」
「何か当てがあるのか?」
「ない」高岡は言った。「でもおまえはもう幽霊じゃない。ただのちりちり頭だ」