2章 3節〜最終調整〜
職場に入った瞬間、端末が震えた。
短い振動。
音は抑えられている。
表示を開く。
極致計画 進捗 99%
要対応通知:1件
「……来たか」
声は低く、自然に出た。
驚きはない。
この段階なら、何か一つくらい残っていても不思議じゃない。
通知の詳細を開く。
区画番号:C-17
状態:未統合
備考:微細誤差
不要区画として閉じられたはずの場所だ。
それが、まだ完全には揃っていない。
「最後の引っかかり、ってやつか」
誰にともなく言いながら、通路を進む。
照明はさらに減っている。
点いている灯りの間隔が、広い。
足音が、やけに響く。
途中、すれ違った作業者が一人だけ立ち止まった。
「もうすぐ極致に至るらしいぞ」
軽い口調だった。
報告のようでもあり、雑談のようでもある。
「そうか」
それだけ返す。
それ以上、話すことはない。
C-17区画の前で立ち止まる。
扉は閉じられているが、完全には封鎖されていない。
端末をかざすと、短い認証音が鳴る。
中は静かだった。
機械は動いている。
だが、どこか噛み合っていない。
数値を確認する。
誤差は、ほんのわずか。
人が気づくようなものじゃない。
だが、完璧には届いていない。
「これか……」
作業は単純だった。
指示通りに調整を入れる。
確認。
再計測。
問題は、すぐに解消されるはずだった。
――そのとき。
チ、チ、チ。
ポケットの奥で、懐中時計が主張する。
今までで一番、はっきりと。
チ。
チ。
チ。
間隔が短い。
秒が、詰め寄ってくる。
「分かってる……今やる」
独り言が、少し早口になる。
端末の表示が揺れる。
数値が収束していく。
誤差、解消。
未統合、解除。
確認ボタンを押す。
一瞬の沈黙。
端末全体が白く光った。
極致計画 進捗 100%
その表示を認識した瞬間、
ポケットの奥で、音が途切れた。
チ、
――鳴らない。
違和感に、思わずポケットに手を入れる。
懐中時計を取り出す。
蓋を開く。
秒針は、止まっていた。
「……あ」
声にならない音が、喉で詰まる。
さっきまで確かに動いていた。
俺よりも、先を急ぐみたいに。
なのに今は、
完全に静止している。
耳を澄ます。
機械音がない。
作業音もない。
遠くの気配も、消えている。
静かすぎて、
自分の呼吸のほうが異物に感じられる。
「終わった……んだな」
そう言ったつもりだった。
だが、声は空気を震わせなかった。
言葉が、
外へ出ていかなかった。
境界が、曖昧になる。
職場と俺。
身体と空間。
内側と外側。
区別する理由が、薄れていく。
俺が見ていた表示板。
俺が触れていた端末。
俺が点検してきた街。
それらが、
「外」にあるものじゃなくなっていく。
理解が、先に来た。
極致とは、
完成ではない。
分離が、不要になることだ。
懐中時計を、そっと握る。
動かない針は、冷たい。
それでも、
嫌な感じはしなかった。
時間を刻む必要が、
もう俺にはない。
視界が、広がる。
いや――
広がったのは、俺のほうだ。
街の状態が、分かる。
数値ではなく、感覚として。
誤差はない。
引っかかりもない。
すべてが、
あるべき位置にある。
「……問題なし」
最後の確認が、
世界そのものに溶ける。
懐中時計が、
俺の手の中で、ただの物になる。
次の瞬間、
それを握っている“俺”という輪郭が、薄れていった。
音もなく。
痛みもなく。
作業者は、
作業を終えた。
そして、
世界は――
もう、彼を必要としなかった。
これで前作の過去となるこの街と世界が止まった理由が明らかになりましたね
止まった世界とその呼吸
極致に至った世界は、、、まだ話は続きます




