プロローグ
前作『世界の呼吸』の前史となる物語
この世界はまだ呼吸をしている
人々は最適化された世界を求め歩み続ける
その歩みの先に待つ未来は一体
「くそっ、またトラブルかよ」
作業員は天井裏から顔を出し、吐き捨てるように言った。声は換気ダクトを流れる風に削られ、すぐに薄くなる。都市の内部では、言葉はいつも短命だった。残るのは警告灯と、並んだ数値だけだ。
通路の床はまだ濡れている。清掃ドローンが通ったばかりで、薄い水膜が照明を引き延ばしていた。遠くで、同じ型の警告音が三度鳴る。規定通りの間隔、規定通りの音量。異常は分解され、問題は切り分けられ、世界は今日も滞りなく進んでいる――はずだった。
「圧、落ちてるぞ。三番ライン」
作業員は工具を鳴らし、配線に手を伸ばす。
ラインの名称は、ただの番号だ。昔はもっと別の呼び方があったらしいが、今は誰も使わない。言葉は整理され、意味は軽くなった。
それでも、彼は一瞬だけ手を止めた。
ダクトの奥で、流れが不自然に途切れた気がしたからだ。
「……まあ、いいか」
数値は安定している。警告は基準以下。報告書に書くほどのことじゃない。彼はそう判断して、作業を続けた。都市は完成に近づくたび、こうした“引っかかり”を嫌う。引っかかりは非効率で、非効率は是正される。
通路の照明が一段、明るくなる。更新が走ったのだろう。影は薄くなり、人の輪郭は床に溶けた。作業員は気に留めない。留めなくていいように、世界は組まれている。
「極致計画も7割超えたらしいぞ」
背後で、誰かが気楽に言った。
最近よく聞く言葉だ。終点、完成、最適な状態。そこに何があるのか、彼は知らない。ただ、トラブルが減るなら、それでいいと思っていた。
ダクトの奥で、流れがわずかに揺れる。
しかしそれはすぐに均され、平らになる。
「……直ったな」
作業員は工具を収め、通路を歩き出す。
その足音は新しい床材に吸われ、どこにも残らなかった。
世界はまだ動いている。
だがその動きは、静かに、別の形へと整えられつつあった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
前作でなぜ世界は呼吸を止めたのか
最適化とは一体何なのか
この作品があなたの生活の一呼吸となることを願います




