1話 〜なみのり〜
居酒屋さんでのとめどない出来事。
出来事でさえない、やり取り。
それを、何も求めず読んで頂けたら……
私はアユミ32歳。
この街に越してきて早速そのドアを開けたのだった。
そこは、居酒屋なみのり。
店内はややチープな椅子とテーブル。
そこに居座る客層は……触れないでおこう。
「いらっしゃいませ」
店主らしき中年の声。
席が空いているかを互いに見回す私と店主。
「こちらで宜しければ座れますが」
見ると、多人数掛けの広いテーブルに、中年男が2人、そしてやはり中年女が1人、何を話すでもなく笑い合っていた。
少しの躊躇いと好奇心を天秤に掛けたところへ、
「飲み物は何にしますか?」
と、店主。
その言葉に、
(ま、いっか)
と、
「じゃあビールを」
答える私も中々の能天気ではある、えっへん。
会釈と共に席に着くと、
「いらっしゃい、いらっしゃい、ここは初めてですか?」
と奥の席の男がにこやかな顔をする。
「また〜、あんたはほんと若い子が好きなんだから」
と、私の隣の中年女が、やはり笑っている。
店内の壁狭しとばかりに天井にまで飾られた絵の数々。
こんな店で絵を見る人がいるのか?
と疑問に思っていると、
「ここの絵は全部あの人が描いているんですよ」
と、カウンターの男を指差し教えてくれたのは、後ろの席の夫婦だろうか?
その旦那らしき人だった。
「へぇ、そうなんですか、画家さんなんですね」
自然な反応を返したつもりの私。
「いや、どうなんでしょうかね」
ん?あまり知らない関係なの?
気を取り直し、お通しをつ突きビールをググッといくは——私サイコー!
するとまた、
「もう5年になるのですがね、一緒によく歌うんですが、多分私の名前も知らないんじゃないのかね、あの人」
えええ、なんか寂しいよぉ〜、でも悪い気はしないその伝え方。
その理由は、その笑顔だった。
(みんな仲いいんだ)
私もここの常連になれるかな?
今度は目の前の男が、
「もう何か食べてきたんですか?ここは美味しいですよ」
お前は恵比寿さまかぁ?てくらいのニコっ、いただきましたっ。
あ、店主は鼻が効くのか?もう嗅ぎつけて来た。
「何か食べます?色々できますよ」
「じゃあ、何かオススメは……」
メニューらしきものを探す私。
「肉巻きはどうですか?」
肉巻き!?今の私にピッタリな響き、なんて甘美な響きなのぉ。
「それでお願いします」
「おまかせでいいですか?」
「はいっ」
ウキウキしながら、あれっ!?もうビールがない!
すると、
「どうぞどうぞ」
とビールを分けてくれる奥の男の顔は、もう真っ赤だった。
「ここね、ちょこちょこ料理が変わるからね。でもね、女将さんの料理の美味しさは変わらないから安心して」
何がぁ〜、アンタはなんなのぉ〜。不安にさせたいのか、期待させたいのか?
でもなんかいい雰囲気ぃ。
私もここに混ざってやっぱり常連になりたいっ!
そして、ほろ酔いに時が流れて家路へと向かう私。
「あー、いい店ゲット!また行こっと」
相も変わらずドアノブを回す私。
いつものレトロなブロンズ風のドアは、横にインターホンを付けたら、人ん家か?てなるよね。
でも、それが味わいって奴なんだろね?
「いらっしゃいま、ああ、こんばんは」
と、事務的な挨拶を切り上げ、私を常連として扱うのは、あの店主の孫だ。
そう、ここに通い始めて早40年が経っていた。
当然だが、あの頃の客も、カウンターの男も、赤ら顔さえも、もういない。
あの彼が旅立った後、店主と女将さんも追うように逝ってしまった。
そして、その子供も退き、またその息子が今の店主であった。
肉巻きの味は少し甘く変わってしまったが、それでも美味しい料理に、アットホームな雰囲気。
そして、あの彼が残していった絵。
変わらないものもそこにはあった。
この年になると歌も、歌えて1曲2曲かな?
みんなと歌った曲を懐かしみながら歌い、そして帰路に着くのが日課となった私。
「ご馳走様、あと何回来られるかね私も」
「はは、アユミちゃんが来なくなるなんてあり得ないよ」
「こら、私にちゃん付けとはこの坊主が」
と、楽しむ私。
「自分がそう呼べって言ったんじゃん」
と、支払ったばかりの札をレジに入れながらボヤく店主。
「ふ、あれはもう20年も前の話だろ?マスター」
と、笑う私のシワも随分と増えたな。
コートの裾に入り込むラピスラズリの風。
デュエットの時、何度も肩を抱いてくれたのに——やっぱり私の名前さえ知らなかったのだろうな……
完




