記憶の扉の向こうへ
無理
記憶の扉の向こうへ
椅子の人物――“影”が立ち上がった瞬間、部屋の空気が変わった。
風の精霊は、思わず息を止める。
その動きは、まるで記憶の中の誰かが再び形を持ったようだった。
影は、ゆっくりと顔を上げる。
だが、顔はまだ見えない。
光が差していないわけではない。
ただ、そこにあるはずの輪郭が、どこか曖昧だった。
風の精霊は、静かに言葉を継ぐ。
「……あなたは、私たちの記憶なの?」
影は答えない。
けれど、部屋の奥にある壁が、わずかに震えた。
その震えは、まるで何かが反応しているようだった。
風の精霊は、床に置いた日記を見下ろす。
そのページが、かすかな風に揺れていた。
「私たちは、忘れていたのかもしれない。
閉じ込められていた理由も、ここに来た意味も。
でも、あなたはずっと……見ていたんだよね?」
影が、ゆっくりと一歩踏み出す。
その足音は、重くはない。
むしろ、静かすぎて、耳の奥に直接響くようだった。
風の精霊は、胸の前で手を組み直す。
その手が、少しだけ震えていた。
「……私たちは、選ばれたの?
それとも、罰を受けていたの?」
影は、もう一歩近づく。
その距離は、もう数歩分しかない。
風の精霊は、影の中に何かを見た気がした。
それは――自分自身の姿だった。
過去の記憶。
誰かを傷つけたこと。
誰かを守れなかったこと。
誰かを信じられなかったこと。
それらが、影の中に浮かび上がっていた。
風の精霊は、静かに目を閉じた。
そして、ゆっくりと口を開く。
「……私たちは、ここから出たい。
でも、それは逃げるためじゃない。
向き合うため。
あなたが“私たち自身”なら――
どうか、教えて。
この扉の先にあるものを」
その瞬間、影が止まった。
そして、初めて――声が響いた。
それは、風のようにかすかで、
けれど確かに、言葉だった。
「この扉の先にあるのは、第三の試練。
記憶を受け入れた者だけが進める。
忘れた者は、ここに残る。
試練は、過去を越え、未来を選ぶためのもの」
風の精霊は、目を開けた。
影は、もう目の前にいた。
その顔は、やはり見えない。
けれど、そこにある“存在”は、確かに彼女を見ていた。
そして、影が静かに手を伸ばした。
その手は、風の精霊の胸元に触れることなく――
日記の上に、そっと置かれた。
次の瞬間、部屋の奥にある壁が、静かに開き始めた。
その先には、淡い光に包まれた空間が広がっていた。
風の精霊は、通気口に向かって声を送る。
「みんな、聞こえる? 扉が開いた。
ここから先は、第三の試練。
記憶を越えて、未来を選ぶ場所。
一緒に進もう」
彼女は、日記を胸に抱え、光の中へと歩き出した。
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次章予告:「第三の試練・記憶の回廊」
開かれた扉の先に待っていたのは、精霊たちの記憶が形となった回廊。
そこには、過去に言えなかった言葉、選ばれなかった選択が並んでいた。
第三の試練は、ただ進むだけでは終わらない。
それぞれが、自分自身と向き合い、未来を選ぶ覚悟を試される。
風の精霊は、仲間とともに――記憶の回廊を歩き始める。
無理




