9th lap カナード王子
リュートシティサーキットのVIP観覧席。そこに連なる通路を、ひとりの青年が、ひとりの侍従を連れて歩いている。
青年は一歩一歩が大股で、肩で風を切るような歩き方だ。いささか不機嫌であることは、その表情から見受けられた。
「まったく、どうして研究者連中というのはこうも話が長いのだろうな! おかげで到着がギリギリだ。レースには間に合ったが!」
「辺境伯にお伝えして、開催を遅らせることもできましたが」
「それはいかん。それはいかんぞ、コンスタンツェ。オレの為にレースがあるのではない。レースの為にオレがきたのだ。間に合ったから良い。レジエッタはどうした?」
「先に到着して、VIP席で観覧なさるそうです」
「そうか、気乗りしない様子に見えたが、さすがに約束には律儀だな」
観覧席へと繋がる重厚な扉の前には、やはり重厚な鎧を身にまとった辺境伯の私設騎士たちが立っている。彼らは、青年と侍従の姿を認めると、深々と会釈をして、その重そうな扉を開けた。
開ける観覧席は、大型飛竜三頭をまるまる収容できる大スペースに加え、全長24キロのサーキット全域を見下ろせる全天ガラス張りの一室だ。他にもレースを楽しむための様々な仕掛けがある。
すべてはこの地方を治める辺境伯が、私財を投じて設えたものだ。
「おお、殿下!」
恰幅の良い辺境伯は、両手を広げて青年を出迎える。
「お待ちしておりました。もう間もなくレースが始まりますぞ」
「うむ、白竜財団の連中に援助をせっつかれてな。遅くなった。財務はオレの担当ではないと言ってもわからん連中だ」
殿下、と呼ばれた青年は、そのままふかふかのソファに腰を下ろした。
彼こそがまさしく、レイセオン王国において第三位王位継承権を持つ王子、カナード・バンディーナ・レイセオンそのひとである。カナードが座ると、彼の侍従が観覧席備え付けのラウンジから、グラスに注がれたワインを運んでくる。
「ありがとうコンスタンツェ、座ったらどうだ」
「いえ、私は立っております」
「ふむ。まぁ、立ちたいと言うなら止めんが」
それから、カナードは首を後ろに回した。
彼が座っているのが人間用の席。そしてその後ろには、竜種用の観覧席が設置されている。
そこに鎮座しているのは、銀色の美しい甲殻を持つ一頭の飛竜。レイセオン王国に暮らすものであれば、その名を知らぬものはいない、伝説の竜だ。
「無理を言って連れ出してすまないな、レジエッタ」
「Grrrrr……」
「しかし、渓谷にこもりきりも良くないだろう。まぁ、あなたを思って、などというお為ごかしを言う気もないが」
カナードは銀翼竜のレジエッタから視線を外し、眼下に広がるサーキットを眺める。
「レースは面白いぞ。白竜大戦を生き抜いたあなたからすれば児戯にしか見えないかもしれないがな。だが、そこに全力を注ぐものたちを見るのがオレは好きだ。できることならオレも……」
「殿下」
言葉に熱が入ったカナードを、侍従が静かにたしなめる。
「……わかっている。まったく、王子という身分でさえなければな……」
それから、カナードはワイングラスを机に置き、横に座る辺境伯に尋ねた。
「今回のレース参加者は?」
「ルーキーも多いですが、期待できるレーサーがいるかどうかは、なんとも。そこを楽しむのがパブリックレースではありますがな……」
辺境伯はたるみ切った自身の顎あたりを撫でながら、書類を眺めている。
「ウォーカーがいろいろと探りを入れていたようですが。お話しされますかな?」
「うむ」
辺境伯が手元の魔導基盤を操作をすると、室内の正面に巨大な極光映晶がせり上がる。そこに、派手なアイマスクをつけたショートヘアの女性が、ドアップで表示された。
ドラグナーレースの名実況アナウンサー“ウォーカー”だ。彼女はずいぶんと楽しそうに、にこにこ笑っている。
『ごきげんよう、カナード殿下、それに辺境伯』
「息災そうで何よりだ、ウォーカー。今回のレース、あなたがどう見ているか知りたくてな」
『楽しめそうだよ殿下。ジョニー・ザ・デッドヒート選手がかなり仕上げてきている。今回の本命だね』
「ほう!」
ウォーカーの言葉を聞き、カナードは嬉しそうに身を乗り出す。
「オレも彼らの走りは好きだ。見ていて気分が良いからな。ルーキーはどうだ?」
『殿下のお眼鏡に適いそうな騎手と竜は何組か。でも、私の一押しは彼らだ』
ウォーカーがそう言うと、画面には申請書類のデータと、添付された写真が表示される。カナードは『ほう』とつぶやき、それを食い入るように見つめた。
「Grrr……!?」
それまで退屈そうに臥せっていたレジエッタが、不意に首と身体を持ち上げる。
「Gishaaaaaooou!!」
突如、彼女の口から、唸り声ではなく咆哮が飛び出した。決して狭くはないはずのVIPルームが、激しい振動に見舞われる。ばりばりと揺れるガラスの壁と空気。辺境伯はひっくり返り、バーテンダーもすっころぶ。ソファに座ったカナードと彼の侍従だけが、動じずにいる。
レジエッタの視線は、画面に表示されたデータに向けられていた。
「な、なななな、なんです!?」
情けない声を出す辺境伯。カナードは振り返り、レジエッタと見やり、それからまた画面に顔を戻した。カナードの顔には、心底嬉しそうな笑みが浮かんでいる。
「見事だ、ウォーカー! レジエッタも随分とお気に召したようだぞ!」
『ほほう、あのレジエッタ嬢が?』
「ああ、あの何を見せても退屈そうにしていたレジエッタが、吠えた!」
『それはそれは。このウォーカーの目も衰えてはいなかったね』
カナードとウォーカーが嬉しそうに話し合う間、辺境伯はソファに座り直し、画面に表示されたデータを読み上げる。
「クルス・ファブロス、23歳。騎竜は飛竜タイプ、個体名アルマファブロス……だそうです、が」
「クルスか! 運命的だな。レジエッタにとっては特別な名だ」
カナードは上機嫌になって、ソファに背中を預ける。
「レジエッタがこの騎手を応援するなら、オレも贔屓にしよう。贔屓にする騎手がいるのは良いぞ、応援に熱が入るからな!」
そのままワインをあおり、グラスをカラにするカナード。
レジエッタは、身を乗り出さんばかりにその画面を見つめ、どこか、懐かしいものを思い出すようなまなざしを、画面の中のクルスに向けていた。




