EPISODE 11
絵に描いたような穏やかな週末だった。
オーストラリアに出張中の俺は,たまたまガイドブックで見つけた海辺の町に来ていた。シドニーから電車で50分程度。初めての海外で,一人での移動にまだ不安のあった俺には,ちょうどいい距離だった。
遠泳大会が開かれていて,昼下がりの浜辺は,色とりどりの水着であふれていた。時折,犬を連れた人たちが,立ち止まっては,笑みを残して去って行く。よく晴れた日で,遙か遠くに,海に突き出した半島の先端が霞んで見えた。
だが,俺は,そんなのどかな景色の中で,ひどく異質に見えたことだろう。この国ではどこに行っても見かける日本人が,他に見あたらないというだけではなかった。
俺は,砂浜に座り込んで,ガムを口に放り込んだ。力任せに音を立てて噛むと,口の中に毒々しい甘さが広がった。
何もかもわからなくなっていた。
『日本人は働き過ぎだ。』
そんなことをよく耳にする。だが,初めて海外に来てみると,予想よりずっと大きな落差に衝撃を受けた。都市部でも,夕方6時過ぎに閉まる店が多く,人口密度が一気に下がるビル街は,まったく違った場所になる。郊外では,仕事を終えた人々が,まだ明るいうちにランニングやジョギングを楽しんでいる。
これでも国は回るんだ。実感をともなって,それが理解できた。
この国に来てから,何度も大学時代の友人の言葉が,頭に浮かんだ。
『イタリア人になりたいもんだな。あくせく働いて,世界で2番より,お気楽にやってて,5番とか6番のほうがよくねえか?』
振り返ってみれば,何かに追われっぱなしの人生だった。
「受験戦争」とやらに巻き込まれ,中学,高校と楽しくもない勉強に時間を費やした。「人よりいい生活ができるなら。」と考えることが,唯一の救いと言えた。だが,就職を考えるようになった頃,俺たちを待っていたのは,バブルの崩壊だった。
大学の同級生の兄の引っ越しを手伝ったことがある。証券マンだった彼は,それまで住んでいた広い部屋を離れ,家賃の安いアパートに移ることになった。挨拶をした時,彼は,自嘲的な物言いで,生活レベルを下げなければならないことを嘆いていた。でも,まだマシだろう。俺たちは,数年の差で,一時でさえバブルの恩恵にあずかることができなかったのだから。
結局,俺は,なんとかそこそこの仕事を見つけた。大学の偏差値の威光がまだ残っていたということだ。周囲から見たら,幸運に見えただろう。だが,実際には,興味の持てない仕事を黙々とこなしながら,なんとか日々をやり過ごすだけだった。
『仕事に慣れて,歳を重ねれば,楽になるだろう。』
そんな淡い期待にさえ裏切られた。景気はいっこうに良くならず,テレビをつける度,悲しいニュースを目にした。精神的に辛くなって,ドロップアウトしていく同僚も,一人や二人ではなかった。なかには,地元に戻ったはいいが,再就職の口もなく,「貧困スパイラル」に陥ったというヤツもいる。
そんな時だ。正月,帰省していた俺は,母親から,高校の同級生の近況を聞いた。大学入学以来,地元の知り合いとは誰とも連絡を取り合っていなかった。別に興味もなく聞いていた俺は,ある男について聞き,本当に嫌な気持ちになった。
そいつには,同級生のあいだでネタにされたエピソードがあった。三者懇談で,担任から『関東一円,君の行ける大学はないよ。』と言われたという話だ。いわば受験戦争の敗者だったわけだ。そいつは,しかたなく専門学校に進学した。それが,今では,自分の理容室を持ち,月100万以上稼いでいるという。
別に,理髪師という仕事に悪い印象は持っていなかったし,そいつの生き方を否定するつもりもなかった。それでも,やはり比較して考えてしまう自分を,どうにもできなかった。
いろいろなことが頭のなかを駆けめぐった。放課後,課外を受けている時,窓の外に見えた下校中のそいつと彼女の笑顔。会社を去ることが決まって,私物の整理をしていた元同僚のさみしげな横顔。男性社員に負けまいと,意地になって仕事に打ち込み,婚期を逃した女友達。そして…。
俺は,何をしてきたんだろう。「青春時代」なんて呼べたものじゃない学生時代。残業と休日出勤だらけの社会人の日々。常に何かをしてきたはずなのに,何の達成感もない。
俺は,抱え込んだ膝に顔をうずめた。
どれくらい時間が経っただろう。風が強くなってきた。顔を上げると,波打ち際に舞い降りたカモメが,俺のほうに近づいてくるのが見えた。カモメたち―もしかしたら,ウミネコだったのかもしれない―は,エサを探しているのか,一様にクチバシを下に向けて歩き回っていた。
この町では,どこに行っても,カモメの姿があった。初めて間近で見るカモメは,意外なほど悪人面をしていた。夏の海などの「さわやかな風景」の一部というイメージは,あっさりとうち砕かれた。でも,俺は,その荒んだ目つきに親近感を覚えていた。
どこかにエサになりそうなものがなかったか。そう思って,俺は,バッグを開いた。書類の束をかき分けていると,袋菓子よりも先に目にとまったのは,一冊の雑誌だった。
すっかり忘れていた。
『日本って,おもしろそうだな。』
現地で知り合った人が,そう言って手渡してくれたものだった。着いたばかりで戸惑っていた俺は,暇そうに見えたのかもしれない。
おもしろい,って,何が?
俺は,ページをめくり始めた。それは,日本にもありそうな写真週刊誌だった。特別興味を引く記事もなかった。だが,しばらくして,俺の指が反射的に止まった。そこには,明らかに異質なページが開かれていた。
『MAID IN JAPAN』
秋葉原の特集だった。
日本を訪れる外国人にとって,もっとも興味のある街と紹介され,アニメ,マンガ,ゲーム,メイド喫茶などの盛り上がりが伝えられていた。内容は,大筋で現状をとらえていたが,タイトルとは裏腹に,写真はすべてアニメのコスプレだった。
一瞬,あの街のゆるい空気に包まれたような気がした。
俺は,立ち上がり,取り出した袋を乱暴に破って,スナック菓子を砂の上にばらまいた。人目も気にせず,大声で笑いながら。
〜 オムライス・クレイジー EPISODE11 『Born In Japan』~