EPISODE 09
「おい。ここ片づけておけって言っただろ?」
店長の声がした。とりあえず,俺は,いつものように謝った。
「すいません。この後やります。」
ほっとけばいい。どうせ,後で忙しくなれば,忘れるんだ。仕込みをして,料理を作って,皿を洗って,厨房を片づけて…。何も考えないで,ただ目の前のことをこなすだけだ。俺は,そう思って,退屈な時間をやり過ごしていた。
父親が入院したのがきっかけで,ちょっと前に地元に戻ってきた。予想はしていたが,それ以上に働き口は少なかった。たまたま調理師の免許を持っていたから,とりあえず,ってことで働き始めたわけだ。
メイド・カフェ。と言えば,楽しそうに聞こえるかもしれないが,ここは東京じゃない。秋葉原のカフェを何軒か知っている人なら,この店を見て,おそらく,腹を立てるか,あるいは,それさえ通り越して,笑い出すだろう。
週末と祝祭日の昼間だけメイド・カフェになるというシステム。週末限定の店なら秋葉原にもあるが,それとはまったく違う。夕方にキャバクラとして開店するまでの時間,スペースを遊ばせないためだけに存在している店だ。
『東京では,メイド喫茶ってものが流行ってるらしいぞ。』
本人から聞いたわけではないが,店長が,安易なマスコミの特集でも見て,思いついたのだろう。
経営する側がそんな発想だから,女の子たちの勤務態度も,ひどいものだ。
少しでも稼ぎたくて,気まぐれにシフトに入るキャバクラ嬢。時給の安い時間帯ということで,当然のように手を抜く。そして,コンビニやファーストフードより時給が高いという理由で働いている学生。元々メイドが好きだったり,腐女子だったりするわけではないから,やはり,仕事に何のこだわりもない。
そして,客。彼らにとって,カフェの時間は,ディナーだと高いレストランでも,ランチタイムなら行きやすい,というのと一緒だ。だから,表向きには,口説くのと『おさわり』は禁止ということになっているが,それも,なし崩しになりかけている。
そういう悪条件が,メイド・カフェとは名ばかりの,場末の閉塞した空間を作り上げていた。もちろん,ロリータ・ファッションが好きで入店する子もいたが,その惨状に耐えられず,みんなすぐに辞めてしまった。それが,県内唯一のメイドのいる店というから,少数派の彼女たちにとっては,まったく気の毒なことだ。
「おい。ボケっとすんな。」
気づくと,店長が厨房をのぞき込んでいた。彼は,舌打ちしながら,持っていたトレーを差し出した。その上には,数分前に俺が載せたアイス・コーヒーがあった。
「運べ。」
「え?」
俺は,意味が分からず,ホールを見回した。
急な「病欠」があり,二人しかいない女の子は,常連客の席に座り込んでいた。オールナイトで遊んだ後なのだろうか。そのうちの一人が,だるそうな表情で,テーブルにあった飲み物をすすった。
「ちょっと待ってください。それじゃ,メイド・カフェじゃないですよ。」
俺は,初めて店長に反論した。
彼は,俺が勤め始めてからずっと 『どこの馬の骨だかわからんヤツを雇ってやってるんだ。』という態度だった。履歴書は,「職歴なし」にして,それまでの「バイト」の内容もほとんど話さなかったから,仕方ないのかもしれない。でも,俺は,この店を一目見た時から,自分の「過去」を話す気にはなれなかった。
「何だと?お前,俺に意見すんのか!?」
店長が,店全体に響くような声で叫んだ。彼は,カウンターにトレイを置いて,俺の胸を手のひらで突いた。
「わかったようなこと言うな!お前に何がわかる?お前は,黙って料理作ってりゃいいんだよ。店のことに口出ししてんじゃねえよ!」
もう我慢できなかった。俺は,彼の手首をひねり上げて,怒鳴り返した。
「わかってるよ!少なくとも,あんたよりな。俺は…『めいど in へぶん』の店長だったんだからな!」
店を飛び出した後,しばらく歩き回って,駅前のバス乗り場にたどり着いた。どこにも行くあてはなかった。俺は,乗る気もないまま,ベンチに座り込み,走り去るバスを何台も見送った。
怒りが少し収まってくると,数日前のことが頭に浮かんだ。
厨房で料理を作っていると,見覚えのある顔が,中をのぞき込んでいた。いきなりだったから,一瞬わからなかったが,『へぶん』によく来ていた男だった。彼は,驚いている俺に,転勤になり,隣の県で働いている,と言った。以前,出身地について話したことがあったが,元『へぶん』のメイドから俺が地元に戻ったと聞き,あの店にいるかもしれないと思ったようだ。
俺は,この町で,「あの頃」を知っている人と会えたのが,無性にうれしかった。長く話せる状況ではなかったので,休憩時間に近くの喫茶店で会おうと約束した。
店長の「説教」のため時間に少し遅れた俺を,彼は笑顔で迎えてくれた。俺たちは,しばらく世間話をした。そして,会話が途切れた時,俺は,テーブルに視線を落として言った。
「カプチーノですね。まだミライのことを…。」
彼は,少し照れくさそうだったが,それでも落ち着いて答えた。
「はい。まだあきらめきれないんです。でも,店長に居場所を訊きに来たわけじゃないですよ。単純に話したかったんです。こっちに来てから,そういう話ができる人がいなくて…。」
ミライは,俺が店長をしていたカフェの人気メイドだった。ありがたいことに,「アキバNo.1のメイド・カフェ」と言ってくれる人もいたが,それは彼女によるところが大きかった。彼女は,年上のメイドたちからも,「さんづけ」で呼ばれるような絶対的なメイド長だった。カプチーノの泡の上にチョコレート・ソースで絵を描かせたら,彼女に勝てるメイドはどこにも見あたらなかった。ビルの建て替えを理由に,店がなくなってから1年以上経つが,今でも彼女を捜している人は少なくないと聞く。
閉店した次の日,急な出張から戻ってきたという彼が,店の前に立ちつくしていた姿を,はっきり覚えている。何もかも終わってしまった。そんな表情だった。
「申し訳ないですが,あれから一度も連絡はないんです。当然ですけどね。店長といっても,彼女に助けられるばかりで,何もしてやれなかったんですから。」
本当だった。彼女は,残務処理が終わると,かわいがっていた後輩にも連絡先を教えず,姿を消した。
「すいません。辛いことを思い出させてしまったみたいで。迷惑ですよね,もう新しい生活が始まってるのに。」
彼が,すまなそうに言った。俺は,首を横に振ってから,頭を下げた。
「いいえ。『へぶん』を覚えていてくれる人がいるのは,うれしいことです。ありがとうございます。」
俺は,他にも頭を下げるべきことがあったのを思い出して,続けた。
「それから,わざわざ来ていただいたのに,申し訳ありません。お恥ずかしいところをお見せして。一年中学園祭やってるみたいなアキバが好き,って話してくれましたよね。腹立たしい限りだと思います。あんな手作り感ゼロの,やる気のない店で。うちには,オムライスにマトモに絵が描ける女の子もいないんです。」
「ああ!それ。」
彼が笑い出した。
「初めて見ましたよ。ルリカちゃんより絵が下手な子。」
ルリカは,当時ミライと人気を二分していたメイドだった。完璧にその場を掌握できるミライに対して,ルリカはすべて愛嬌で乗り越えてしまうようなところがあった。彼女もまた,今では「伝説」となっているらしい。
笑いが収まると,彼は,カプチーノを一口飲んでから言った。
「でも,ほんと気にしないでください。店長が謝ることないですよ。」
「いえ。俺が,ふがいないんです。それから,もう俺,店長じゃないですから。今は,ただの厨房担当ですよ。」
「何言ってるんですか。あなたに上手くできない店は,誰にもできないってことですよ。それに,あなたは,まだ『店長』なんです。俺にとっても,きっと他の『へぶん』の常連にとっても。」
彼は,まったく変わっていなかった。十歳以上年下の俺に,丁寧すぎる対応をしてくれた。もちろん,それをうれしく思ったが,余計に自分が情けなくなった。俺は,ちょっと自嘲的に笑って,言った。
「買いかぶりですよ。俺,なぜか年上の人には,人当たりがよくて,そこそこ場を仕切れるように見えるらしいです。それで,大学時代の先輩と知り合いだった『へぶん』のオーナーに気に入られた,ってだけなんです。」
「それは違いますよ。さっき,ミライちゃんに助けられてばかり,って言ってましたが,彼女の能力を発揮できる雰囲気を作ったのは,店長なんですよ。」
ますます居心地が悪くなった。俺は,彼の視線を避けるように,窓の外を見た。そこには,生まれ育った町のさえない風景があるだけだった。
県庁所在地の中心だというのに,人もまばらな商店街。シャッターが閉じたままの店もある。俺が高校生の頃から時間が流れていないみたいだった。
俺は,彼に向き直って,口を開いた。
「田舎でしょ,ここ。子供の頃から,大嫌いだったんです。いつかここを出てやる,って思わない日はなかったですよ。でも,だからって,何をするわけでもなく…。勉強はできない,部活もやってない,なんの取り柄もないガキでした。専門学校に行くなんて理由つけて東京に出たけど,ほんとは目的があったわけじゃないんです。都会なら自分を変えられるかもとか,そんな甘いこと考えてただけです。」
「みんな同じようなものです。というか,俺なんて,もっとひどいですよ。いい歳して,まだ学園祭から離れられないんですから。どうしようもないダメ人間です。」
彼は,表情を変えず,穏やかに言った。俺は,大きく息を吐き出して,自分の頭を指さした。
「この髪はね,『へぶん』で働くことが決まってから染めたんです。笑っちゃいますよね。『社会人デビュー』ですよ。それから,ピアスも。俺以外,店にいるのが女の子だけだから,こうしたんです。恐く見せたかったんですよ。セクハラとかしようとするお客さんが少なくなるように,って。でも,肝心な時には,いつもミライに助けられました。ほんと中途半端野郎です。」
「いいじゃないですか。その場に合った服装をしようとしただけですよ。サラリーマンは,平日,スーツ着て,ネクタイしてます。真面目に見えるようにね。それに,俺も,新入社員に助けられたりしますよ。ところで,店長…。」
彼は,急に真顔になって,訊いた。
「東京に戻ることはもうないんですか?」
されたくない質問だった。自分自身,どうしていいかわからなかったから。俺は,正直に答えた。
「わからないんです。東京に戻っても,もう『へぶん』以上の店ができそうにないから,とか言えれば,少しはカッコつくんですが。実際は,よくわからないんです,どうすればいいのか。父親の入院なんて,ただの理由づけで,逃げてるだけなのかも,って思うことがあります。」
彼は,うなずきながら聞いていたが,そのまま頭を下げた。
「すいません。率直に言いますが,確かにがっかりしました。もちろん,『へぶん』の再現を期待していたわけじゃないですけど,やっぱりね…。でも,実感できたんです。地方で,新しいことが理解されるのには,時間がかかるって。以前,どこかの県で,メイド・カフェを作ろうとしたら,地方公共団体からクレームが入った,ってニュースがありましたが,東京にいた時は,まったくリアリティなかったですからね。」
俺も覚えていた。ネットでちょっと話題になったニュースだった。それほど,地方の人たちには,メイド・カフェのコンセプトがわかりにくいということだろう。
俺は,窓の外を通り過ぎる人を見ながら,言った。
「メイド産業がどうとか言う以前に,地方では,あまり娯楽が求められてない気がしますよ。高校の同級生を見ても,結婚して子供のいるヤツが多いですから。家庭を持つのって,エネルギーが必要だから,娯楽のことを考える余裕なんてないんでしょうね。」
「確かに,そうかもしれません。でも…。」
彼は,そこで一度言葉を切った。その表情から,それまでとはまた違った,切実さのようなものが感じられた。
「でもね,地方にも,『東京』を知っている人はいるんです。東京で暮らしたいのに,何かの事情で地方に戻らなければならなかった人が。店長も俺もそうですけど,転勤とか,親が病気で看病が必要な人とか。そうなると,辛いのは,地方にはない楽しみを知ってしまったことだったりするんです。東京と地方の『格差』って,収入や便利さだけじゃないんですよね。」
その通りだった。この町に戻った頃,することもなく,数年ぶりに歩き回ってみようと思った。だが,すぐに虚しい気分になった。予想以上に,「居場所」がないことに気づいたからだ。
俺は,強くうなずいてから言った。
「そうですね。東京で暮らすと,いろいろな人や物が見られます。それで,価値観が変わったりするんですよね。実は,メイド・カフェで働くと決まった頃は,あまり乗り気じゃなかったんです。一度も行ったことなかったし,オタクでもないからアキバのこともよく知らなかったんで。でも,仕事してるうちに,思いました。自分の店は必要とされてるんだって。それまで,自分が誰かの役に立てるなんて思ったことなかったから,素直にうれしかったですね。だから,この町にもメイド・カフェがあると知ったときは,喜びましたよ。それが,あの店なんですけど。」
「そうですか。俺なんかよりも,失望は大きかったでしょうね。」
「ええ。はじめは,なんとかして少しでもマシな店にしようなんて思ったりしましたが,やっぱり無理でした。ミライなしじゃ何もできないことが再確認できただけです。だから,過大評価されると,正直つらいです。」
しゃべり過ぎかもしれない,と思った。彼と話していると,なぜかそうなってしまう。『へぶん』の店内で彼と話した様々なことが,頭に浮かんでは消えていった。
彼が,気遣うような微笑みを見せて,言った。
「でも,大事なのは,『差』がわかる人がいることじゃないでしょうか。店の側に,『東京』を知ってる人がいるってことが。東京とまったく同じなんて,ありえないですけど,俺は,少しでも似た空気を感じられる場所がほしいと思ってます。それに,地元を離れたことがなくても,嫌なことがあったりすると,ちょっと女の子と話がしたくなる,って人はいると思いますよ。アルコール抜きで,もっと気軽に,ランチタイムなんかにもちょっと立ち寄ったりとか。仕事以外で,自分を知ってる人がいる場所があるって,なんか安心できるんです。それで,店長。」
彼は,本題を切り出すというように,少し身を乗り出した。
「提案があります。経営のこととかわからないから,勝手な要望と言ったほうがいいかもしれませんが。」
戸惑っている俺に,そう前置きして,彼が話した。
「こんな店があったら,ってよく思うんです。確かに,『メイド』って言葉に過剰に反応する人は多いです。それで,興味があっても偏見が恐くてメイドにならない子もいると思います。だったら,思い切って使わなくてもいいと思ったりします。女の子は,メイド服に限らず,好きな服を着ればいいし,『ご主人さま』なんて言わなくていい。ただ,メイド・カフェと同じように,話ができる雰囲気と,手作り感のあるメニューと内装があればいいんです。それなら,女の子たち,それから客も,人目を気にせず楽しめるんじゃないか,なんて。」
「…そうですね。そんなことができたら…。」
どうコメントすればいいのか,考えがまとまらなかった。言葉を探している俺の前で,彼の目が,いたずらを思いついた子供のように輝いた。
「メイド・カフェなのか,そうじゃないのか,都合よく解釈できるんです。これって,学園祭で,実行委員だまして,企画書と別のことやるみたいで,なんかちょっと痛快な気がしませんか?あ。結局また学園祭の話になってますね。ほんと申し訳ない。」
別れ際に,彼は笑顔で言った。
「ありがとうございました。お互い『懐かしい』って言葉を使わずに話せたのが,何よりうれしい気がします。そう言ってしまうと,すべて過去になってしまうみたいだから。」
過去か…。
彼にとって,「あの頃」は,まだ終わっていなかった。
そして…。
俺は,立ち上がって,目を閉じ,大きく伸びをした。不自然なくらいに時間をかけて。
目を開けてみた。俺の前には,変わらない景色があるだけだった。
あえて口に出して言った。
「さて,これからどうすっかな。」
〜 オムライス・クレイジー EPISODE 09 『願い』 〜