完全忘却の暗躍
夜の帳により、閉ざされた世界。
物音はなく、唯梟が鳴いているのみ。
家々の全てが寝静まる丑三つ時に、影が駆け抜けていた。
まるで花弁のようなその影は。
十章文壇の五壇目、完全忘却、明の宮現、その人だ。
屋根を蹴り、電線を飛び越え、翔ける。
長い茶髪が空中で解き放たれ、踊っている。
派手な装飾の施された紫のグラデーションの羽織は、ふわりと広がり、彼女を蝶のようにも魅せていた。
彼女の目的は、実験体の確保。
目的地は、山2つを越えた先。
普通ならば車や電車を利用する方がはやく着くだろう距離だ。
歩こう、自分の足で向かおうなどと考えることなどないだろうし、仮に自分の足で向かったとしてもすぐに諦めるだろう。
しかし彼女は、疲れひとつみせずに駆けていく。
その速さは、下手な乗り物を利用するよりも速かった。
小さく笑みなど浮かべながら、彼女は翔けていく。
待ち望んでいたものが手に入ったかのような、笑みを浮かべながら。
ある種狂気的な笑みを浮かべながら。
そして、目的地にたどり着いた彼女は、実験体の確保へと動いた。待ち伏せだ。
目的の人物は、茶髪の少年である。
彼女がビルディングを出たのは、二時間程前のこと。
宴夢に頼まれた後で亜未のところに行き、協力をとりつけて来たのが、遅くなった主な原因だった。
少しくらい遅くなるのは覚悟していた現も、ここまで遅くなるとは思っていなかったようで。着いて少し気分が元のようになったのか、ふと漏らした。
「やはり、亜未の話は長い故わざわざ協力するよりも妾がさっさと行った方がよかったか……。」
「失礼ですね、頼んでおいて!私だって、仕事が多くて大変なんですよ?でも、現姐様が頼みに来るから、注意事項を話したりしたんじゃないですか!」
現の呟きに反応し、インカムごしにわめきたてる亜未。相当疲れが溜まっているようだ。普段はもう少し穏やかな語り口なのだが、疲れると機嫌がおかしい彼女である。
「こうなるなら一人で良かったのう?」
「現姐様は方向音痴なので、それだけは却下ですよ!姐様一人では、反対方向に向かえばまだいい方なんですから!ロシアが目的地だったのにアメリカに行ったの、まだ私憶えてますからね!」
「まあまあ、少し静かにせい。」
「誰のせいだと!」
かなり怒っている亜未に、宥めるように現は言った。一向に落ち着く様子をみせない彼女に、現は続ける。
「今は監視中なんじゃ、静かにせい。気付かれたらどうするのか?音、すぐに漏れるんじゃぞ?」
「解ってますよ機材係なのでぇ!……え?ちょ、宴夢姉様、何しに戻って………………え?あの子が?って、あ、取らないでくださ…………。
「?どうしたのかえ?亜未?」
突然慌てだした亜未に、訝しげにする現。亜未はインカムを取られてしまったようで、静かになる。だが、それもつかの間のことで、すぐに幼女の声が聞こえてきた。
「現ねぇ、聞こえル?」
「状況を説明せい。もしか、彼奴が帰ってきたのか?」
「あってるヨ。ただ、迷惑事も一緒だけド。」
ため息を吐く宴夢。つられて現もため息。だが、帰ってきたのが迷惑事をつれたその子でなければ普通に歓迎していただろう。その子だけ、迷惑事だけ、ならマシだ。しかし、セットになるとよろしくない。その子は、迷惑事をさらに掻き回していくのだ。愉しそうに。宴夢にもその気はあるが、その子に比べれば可愛らしいものだ。
だからネ、と宴夢。
「現ねぇ、亜未は暫くサポート出来ないカラ。」
「承知した。まあ、しばらくは観察に徹する心算じゃったからの。」
「じゃ、きるネ。」
通信がきれる。訪れた静寂の中、現は一人呟いた。
「…………なにか、増えそうじゃな。」
それが的を射ていたことには、まだ、誰も気づけない。波乱の幕開けだったことにも。