第二話「土曜日猫カフェいましたか?」
猫吸い。
それは人類の生み出した究極のリラックス方法。
猫の全身にあるアポクリン腺という汗腺からとてつもなく良い匂いがし、その匂いを嗅いだ者は幸福状態に陥るらしい。
その中毒性から猫は麻薬だとかドラッグだとか謳う者もいる。
受け入れ態勢完了の猫に顔を埋め思いっきり吸う、それが猫吸いだ。
私もよく家で飼っている猫でやってしまう。
そう、人間は本能のままに猫でキメる。
それは目の前にいる彼女も例外ではなかった。
人目もはばからず猫の腹に顔を埋めて深呼吸している。
「……はっ」
あまりもの異様な光景に言葉を失い立ち尽くしていた私は、ふと我に返り彼女を観察した。
容姿は間違いなくどこからどう見てもあの高浜先輩だ。
ただそのしぐさや表情は先輩とは真逆、別人だと決めつける圧倒的な相違点であった。
双子の姉妹か、あるいはドッペルゲンガーか何かだろうか。
「ウッ……!肉球……ぷにぷに……♡」
窓ガラス越しなのであまりよく声が聞こえないが、悶えているようだ。
肉球を触りながらうずくまっている。
「うう……さくら~~~……」
うずくまっている先輩の容姿をした女性がそう名前を呼ぶ。
「うぐ……」
変な声が出てしまった。
私の事じゃない、私の事じゃない。
彼女が呼んでいるのは猫のさくらだ。
わかってはいるのだが、なんというかこう……変な感じだ。
先輩の姿でその呼び方を、そんな甘えるような声で呼ばないでくれ。
あの冷ややかな声でしか呼ばれたことが無いからこそ、変に耳に残ってしまった。
「はあ……何してんだ私」
ふと我に返る。
見てはいけないものを見てしまった感が今更になって込み上げてきた。
きっと別人だったのであろう。
仮にこれが先輩だったとしても、プライベートでどう過ごそうが先輩の勝手だ。
見なかったことには……できないかもしれないけど。
言いふらしたりする人もいないし、今日見た事は私の中で留めておこう。
目線を少し外したのと同時に、さくらを抱えうずくまっていた彼女が顔を上げため息をつく。
私もそれにつられ、もう一度彼女の方を見た。
先程のような溶けた表情は無く、じっとさくらを見つめている。
その姿は、部室で見るあの先輩と同じだった。
「……」
じっとさくらを見つめる先輩の顔は、微笑んでいたがどこか寂しそうで、
その姿が酷く目に焼き付いた。
*
家に帰り、自分の部屋のベッドに寝転がった私は、先ほど買ったばかりの本に手も付けず、先輩について考えていた。
あれが先輩であったのは間違いない、ただあんなにも普段と違うものなのだろうか。
そもそもあちらの姿が普段の先輩なのだろうか。
それよりも……去り際に見たあの様子は一体何だったのだろう……。
目つきが悪く静かだったり、猫にデレデレしたり、なぜか急にセンチメンタルな表情になったり、私が知っていた先輩はほんのごく一部だったのだと気づく。
「なんなの本当……」
今度部室で会ったら会話でもしてみようか。
実は話してみたら案外気さくに会話してくれるかもしれない。
……そんなはずないか。
そもそも何の話をすればいいのか、共通点なんて同じ部活であることくらいしかない。
いや、それ以前に私の会話のスキルが怪しい。
自身のコミュ障加減に落胆する。
「にゃあ」
ベッドでうなだれていると愛猫のヨモギが部屋に入ってきた。
「どしたのヨモギ、心配してきてくれたの?」
ヨモギはベッドに飛び乗り、首元の小さな鈴をカラカラと鳴らしながら私の隣で伸びをする。
「私は大丈夫だよ、ありがとね」
仰向けになって撫でてアピールをするヨモギの首元を撫でる。
しばらく撫でていると、満足したのかすっと体を起こし部屋から出て行った。
「さて……本読もっと」
私は鞄の中から先ほど購入した本を取り出した。
ヨモギのおかげで少しリラックスできたが、やはり先輩については気がかりだ。
あれこれ考えていても仕方ないので、今は読書にふけて頭の中を切り替えよう。
*
翌々日、いつものごとく誰とも話すことなく授業を終えた私は部室へと足を運んだ。
今日も先輩は来ているだろうか。
居たら一昨日のことを聞いてみようか……、いや、聞くって何をどう聞けば……。
ずっと胸の奥でつっかえている気持ちをさっさと解消したいので居てほしい反面、まだ心の準備ができていないから居ないでほしい気持ちもあった。
部室の扉に手をかける。
鍵は、閉まったままだった。
「居ない……か」
残念よりも安堵の気持ちが大きかった。
やはりちゃんと何を話すか決めてからじゃないと話せたものではない。
「……よかった」
私は鍵を取り出し鍵穴へ差し込む。
「何がよかったのかしら?」
「うわっ!」
今年一番の大きい声が出てしまった。
振り向くとそこには高浜先輩がいつもの無表情で立っていた。
「こ、こんにちは……」
「こんにちは……入らないのかしら?」
「あ、あぁ、入ります……」
驚きで放心していた私は鍵を開け部室に入る。
それに続いて先輩も部室へ入った。
し、心臓が止まりかけた……。
足音もなく近付かれ背後を取られていたようだ。
私は暗殺でもされようとしていたのだろうか。
あの姿を見た者は生かしてはおけぬ、みたいな……。
先輩は窓際の席、私は入り口近くの席につき、各々本を開く。
先輩が来てしまった以上読書だけして帰るわけにはいかないか……。
本を読むふりして、どうあの件について切り出すか考えなくては。
変に刺激してこの部に居られなくなってしまえば、私の平穏な読書ライフにも終止符を打たれてしまう。
聞くとしても慎重に、慎重にだ……。
こういう時はなんだ、天気か?
いや、猫好きなんですか?から会話を広げるべきか……いや、直球すぎる。
それっぽい話題に持っていけるものはないだろうか……。
ふと先輩の方を見ると、鞄に見覚えのあるキーホルダーが付いていた。
「あ」
反射で声が出てしまう。
先輩がこちらを向き、何かしらと言わんばかりの目で睨みつけてくる。
しまった、まだ何も話す内容を決めていないというのに、今更引き下がれない。
私は焦りながら先日買った『ねこが消えた町』の特典キーホルダーをカバンから取り出し。
「お……お揃いですね……」
と、引きつり笑いしながら告げた。
終わった。
大して仲良くない後輩から突如告げられたお揃いキーホルダー宣言。
そう、先輩の鞄についていたキーホルダーは、私があの日小説の特典で入手したキーホルダーと同じものだった。
何?急に……こわ……やめて頂戴、ああ、ドン引きの幻聴が聞こえる。
さようなら私の平穏で静かな読書ライフ。
こんにちは、シャーペンカリカリ音の図書館読書ライフ……。
私はゆっくりキーホルダーを鞄の中にしまい、小さな声で「なんでもないです……」と呟いた。
というか先輩も同じ本、読んでいたのか……。
キーホルダーを持っているという事は、やはりあの時猫カフェで見た先輩は本物だったという事で……。
「瀬戸さん」
「なんでしょうか……」
「それ、最後まで読んだのかしら」
「え」
「ねこが消えた町、読んだのよね」
引かれていなかった。
それどころか先輩から話題に食いついてきている。
「はい、読みました……」
「そう、どうだった?」
「どうって……」
どう答えるのが正解なのだろうか……。
これは文芸部の部員として試されているのか?
面白かったです、だけで済ませるわけにはいかないな……。
「春香ちゃん、無口で弱気な子だったんですけど、話の真相に近づくにつれてよく話すようになってきて……」
春香ちゃんとはこの物語の主人公の名前だ。
序盤で出会う謎の女の子、ヨシノと一緒に、猫が消えた真相を突き止めるために旅をするといった話で、今回の巻でちょうどクライマックスを迎えている。
私はずらずらと感想を述べる。
「第一章からずっと一緒にいるヨシノの正体も次で明かされるみたいですし、どうなるのかすごく気になって……あ、あと、春香ちゃんがヨシノと一緒にゲートへ飛び込むシーン、あの弱気だった春香ちゃんが覚悟を決めて足を踏み出すところは涙なしには読めず……あ……」
熱く語ってしまっていた。
先輩は変わらず無表情でこちらを見ている。
「す、すみません……つい」
「構わないわ、好きなのね、これ」
「はい……」
先輩はそれだけ聞くと読書に戻った。
私はいつのまにか前のめりになっていた体を元に戻す。
いい感じにお話できているのではないだろうか。
とりあえず先輩にも本の感想を聞こう。
いいタイミングであのことについて聞き出さなくては。
「高浜先輩は……」
というと先輩がこちらを向く。
その表情はいつものように鋭くはなく……。
なんだか少しにやけているような……?
「土曜日に猫カフェいましたか?」
「っ!」
ガン!と大きな音がした。
しまった、気を取られて思っていた言葉がつい口から出てしまった。
先輩は勢いよく太ももを机にぶつけたようで椅子からゆっくりと床になだれ込む。
私は慌てて先輩の近くへ寄った。
「あ、あの先輩……?大丈夫で」
「見たの?」
そこに先ほどのにやけたような表情は無く、いつもより数倍鋭い目で睨みつける先輩が居た。
「み…………、ミテマセン」
「嘘」
低いトーンでそう言いながら、ずいと顔を寄せてくる先輩。
ああ、なぜ口を滑らせてしまったのか。
黙っておけばこうはならなかったものの……。
「さ……さくらちゃんとお話ししているところを、その、少しだけ……」
私がそういうと先輩は片手で顔を抑えながらゆっくりと椅子に腰かける。
「最悪……」
先輩の周りにどんよりとした雰囲気が漂う。
私は殺されるのだろうか……。
そっと先輩の顔を覗いた。
般若のような表情をしているかと思いきや、以外にもそうではなく
「恥ずかし……」
顔から耳までを赤くしながら恥ずかしがっていた。
そんな顔できるのか、と驚く半面、少し可愛いとも思ってしまった。
「誰にも言わないで頂戴」
先輩は火照った顔をぱたぱたと手で仰ぎながら、目だけこちらに向け訴えかける。
「言いませんよ、私友達いないですし」
「そう……なら、いいけども」
友達がいないことが良いのかどうかはさておき、殺されずに済んだことは良かった。
私は元の席に戻りながら話を続ける。
「先輩、外だとあんな感じなんですね、意外でした」
「……」
先輩は眉をひそめながら小さくため息をつく。
「猫に対してだけよ」
「猫に対してだけ……?」
「私、人前ではあんな姿で話をしたりしないわ」
そうでしょうね、先輩があんな話し方で急に人と話し始めたら学校全体がざわつきますよ。とも言えないので、小さく「あはは……」と笑うしかなかった。
でもそうか、先輩も私と一緒で人と話すことが苦手なだけだったのか。
目つきが悪いだけで態度が悪いわけではないし、私含め周りが勝手に勘違いしていただけなのかもしれない。
先輩は続けてぽつぽつと話しを続ける。
「猫と戯れている時間が落ち着くというか、いつも肩に力が入ってしまっているから、急激に気が緩んでしまうのよね」
「ああ、わかります、私も家だとそんな感じで」
そう私が言うと先輩が目を見開いてこちらを向く。
「……瀬戸さん、猫飼ってるの」
「え?はい、三毛猫が一匹」
「三毛猫」
「はい、ヨモギって言うんですけど」
「ヨモギちゃん」
「はい」
先輩は持っていた本で口元を隠した。
鋭い目つきでも誤魔化せない程口角が上がっているのが見える。
「……先輩、にやけてます?」
「に、にやけてないわよ」
「嘘」
先輩は慌てて私から顔を背け窓の方を向いた。
本を閉じて机に置き、両手で顔をぎゅっと抑える。
「別に隠さなくていいですよ、この前見たので」
「……恥ずかしいから嫌」
先輩は後ろを向いたまま、自分の頬をぐりぐりとし深呼吸をしている。
ヨモギの姿を想像して自爆してしまったのだろう。
実物を見たら倒れてしまうかもしれない。
「この前通販で魚の形をしたおもちゃを買ってあげたらすごく食いつきよくて、ベッドの上だったので爪でシーツ引っ掻かれて穴が空いちゃったんですけど……」
「瀬戸さん」
先輩は私の名を呼び立ち上がると窓際に近づく。
しまった、また夢中になって話してしまった。
「す、すみません、喋り過ぎました」
「この後予定あるかしら」
「え?いや、特にないですけど……」
「そう、じゃあ……」
先輩は長い黒髪をなびかせながらこちらを向く。
「今日の部活は、課外活動にしましょう」
逆光を浴びながら、不敵な笑みを浮かべるその姿はさながらラスボス。
いや、不敵な笑みに見えるがにやけているのを我慢しているだけのようだ。