07 再会
家へと帰る道中、私はとある看板を見つけて馬車を止めさせた。
「何だ?」
「あの、立ち寄りたいお店を見つけて……、少し見て行ってもいいでしょうか」
通りの角にあるその小さな焼き菓子店は、控えめな佇まいに反して随分と繁盛しているようだった。
この場所にあるとは知らなかったが、掲げられた鉄製の看板に書かれた店名に見覚えがあったため気付いたのだ。前にメイドのアナが行ってみたいと言っていた店だ。庶民向けの小規模な店だが、その味の良さから貴族の間でも話題になるほどなのだとか。
「使用人たちへのお土産に買って帰りたくて」
ルイは馬車の窓から店の様子を眺め、少し表情を曇らせた。
「好きにしたまえ。僕はここで待つことにする」
ありがとうございます、と礼を言って馬車から降りる。御者が付き添いを申し出てくれたが、庶民向けの店ということで返って目立ちそうなので断った。
店の中へ入ると、ルイが馬車で待つと言った意味がわかった気がした。店内はそこそこ混雑しており、客の大半が若い女性客だった。ただでさえ貴族ということで人目を引きそうなのに、ここにルイが放り込まれれば注目の的間違いなしだろう。
商品をゆっくりと選ぶことができたし、一人で来て正解だった。と、会計を済ませ店を出ようとする私の背後からふいに、よく知る声が聞こえて来た。
――そう、15年前からよく知っている声。
「……リア?」
私のことをリア、と呼ぶのは彼しかいなかった。
「……エドワード」
特に意識したわけではなかったが、口から出たのは『エド』という言い慣れたはずの愛称ではなかった。
ゆっくりと振り返れば、数ヶ月前に別れた時とまるで同じ彼がいた。栗色の髪、べっこうの瞳、背は高くなく、優しげで控えめで親しみやすい雰囲気の幼馴染。元許嫁。元婚約者。
そしてエドワードの隣には、彼の腕に手を添えて立つ、小柄な女性の姿があった。
緩いウェーブを描くミルクティー色の髪は肩の高さで切り揃えられており、ぱっちりとしたまん丸なオリーブ色の瞳。見たところ平民の女性のようで、貴族らしい淑女の立ち振る舞いはなく、エドワードの背に隠れ、上目遣いにこちらを伺う様子は小動物のような愛らしさがあった。
そうか、彼女が。
婚約者を奪った(という表現はやや不適切かもしれないが)女性を見ても、私の心は凪いでいた。ただ、エドワードはこういう雰囲気の女性が好きだったのか、だとしたら、申し訳なかったな、とぼんやりと思う。
「……すみませんでした」黙り込む私に、エドワードは絞り出すように言った。
「貴方が、私の処遇に対して父上に掛け合ってくれたと聞いて……、ずっと感謝を伝えたかったのですが、私の方から連絡を取るべきではないとも思い……」
その判断は正しかっただろう。礼を言われてもどんな顔をすればいいのかわからないし、今だって、できれば声をかけずにいてほしかった。
「私は何も」
私は適当に愛想笑いをし、少し後退ってその場を切り上げようとする。が、エドワードは尚も話を続ける。
「貴方が私との婚約を解消した後すぐに結婚させられたと聞いて、本当に申し訳ないと思い。謝罪などできる立場ではないですが、私は――」
心苦しそうなエドワードの腕を、恋人であろう女性がギュッと掴む。
「ううん、私が悪いんです――、リアーネさん、本当にごめんなさい」「クラリス……」
小動物のような彼女は、クラリスという名前らしい。
「でも、私たちずっと愛し合っていて……、悪いと思いつつ、私がエドワードさんを諦められなくて。けれどそのせいで、リアーネさんが見も知らぬ男性と無理やり結婚させられることになるなんてっ、思ってもみなくて」
ぐすぐす、と後半は涙声になりながらも謝罪するクラリス。と、その背を支えるようにして慰めるエドワード。
私が『無理やり結婚させられた』と彼らは思っているらしい。いや、逆だ。どちらかというと私が『無理やり結婚を迫った』側なのだが……。
それよりも、クラリスの零した「ずっと愛し合っていて」という言葉に、私は動揺を隠せなかった。
「ずっと愛し合っていて」、「諦められなくて」。
つまり彼らは、私とエドワードが結婚の話を進めている間も――いや、もしかするとそれよりもっとずっと前から、恋人関係にあったということか。
紳士的で誠実なエドワードのことだから、クラリスへの愛情に気付いてすぐ私に別れを告げたのだと思っていた。
いったいいつから彼らは『愛し合って』いたのか。それを追及したところでもはや何の意味もないのだけれど。
「リア、こんなこと私が言う資格はないとわかっていますが――」
そこまで言ったエドワードの口が閉じられることなく、ぽかんとした顔で私の後ろを見ていることに気が付いた。隣にいるクラリスも同じような顔をしている。
よく見れば、店中の人間がこちらへ注目していた。彼らが見ているのは私ではない。私の背後に立つ人物だ。
「遅い。いつまで待たせる気だ?」
振り返れば、そこには不機嫌そうな顔のルイがいた。
***
貴族のお屋敷とは違う小さな店内で、庶民の女性客ばかりのこの空間で、長身のルイはそれだけで目立つ。それに加えてこの外見。人々が振り返って見てしまうのも無理はない。けれど元婚約者と、その彼女と遭遇中、という場で、さらに周りの視線まで集めてしまうのは最悪の展開だった。
「あの、知人がいたのでつい話を。すみません、もう行きましょう」
私はこの場を去りたい一心で、ルイに小声で手短にそう伝える。
しかしルイを一目見て貴族だと気が付いたエドワードは、彼に向かって正式な挨拶を始めた。
「初めまして。私はギャルヴァン子爵家の三男、エドワード・ギャルヴァンと申します」
とことん紳士で生真面目なその性格に、拍手すら送りたくなる。貴族としては正しい行為かもしれないけれど、圧倒的に空気が読めていない……!
「……デュシェル辺境伯、ルイ・デュシェルだ」ルイはエドワードは一瞥すると、会釈もせず、エドワードを見下ろしてそう言った。
「妻が世話になったね」
驚いたように息を呑むエドワードに背を向けると、ルイはさっさと店の扉のほうへと歩いて行ってしまう。
慌ててルイの後を追う私の背中に、「待って!」とクラリスの悲痛な声が届いた。ルイも私も、足を止め彼女に振り返る。
「……おふたりは……、政略結婚なんですよね……? 貴族の人たちはみんな……、何とも思わないんですか? 好きでもない人と無理やり結婚させられたりっ、偽物の夫婦でいたりっ……、間違ってるって思わないんですか!? 私だったらそんなの、耐えられない……!」
ふるふると肩を震わせ、目を潤ませるクラリスに、店の客――貴族ではない女性たち――は、共感するような眼差しを向ける。
私は何と言っていいかわからずに、ただ困惑して立ち尽くしていた。確かに、彼女からすれば私は敵なのかも知れない。許嫁、という決められた結婚により、クラリスとエドワードの仲を引き裂くところだったのだから。
エドワードは今にも泣き出しそうなクラリスの肩に手を回し、彼女を支えるように立っている。彼らは愛を選んだ正義のカップルで、私とルイは心の無い悪の仮面夫婦というわけだ。
政略結婚をしたことで、ルイに想いを寄せる女性からは愛を奪い、エドワードやクラリスからは愛を知らない恥知らずだと責められる。
――あぁ、私はとことん『愛』に嫌われているらしい。
ふと、左肩に温かな重みを感じて私は顔を上げた。ルイが、私の肩に手を回している。ちょうど、目の前にいるエドワードがクラリスにしているように。何故だか理由がわからず、私はルイの顔を見上げた。けれど彼の視線はまっすぐ前だけを向いていて。あ、結婚式の時も、この角度で彼の顔を見た、と、私はまるで関係のないことを思い出していた。その時もルイはまっすぐ前を見ていて、――近寄り難くて温かみのない顔だと、何を考えているかわからないと思った。けれど今は、僅かに力の入った目元から、怒り……のようなものを感じた。
「政略結婚だと、誰が言ったのかね?」
ルイは静かにそう言った。
「……え?」クラリスも、エドワードも、そして私も、呆気に取られたようにしてルイを見上げる。
「だから、僕たちが政略結婚だなどと誰が吹聴している? 証拠でもあるのか?」
「えっ、それは……、だって……」
しどろもどろになりながら、クラリスは縋るようにエドワードを見る。そしてエドワードは困惑したように私を見る。いや、そんな目で見られたところで、私だってわからないのだからやめてほしい。
「君は見たところ平民のようだから、後学のために助言してあげるけれど」
ルイはクラリスを睨むと冷たい声で言った。
「無礼にも人に向かって政略結婚だなどとのたまう行為は、貴族によっては名誉を傷付けられたと感じてもおかしくないだろうから気をつけたまえ。あぁ、馬鹿にもわかりやすく説明しよう。辺境伯である僕が望めば、君の隣にいる男の家を没落させることもそう難しくはないという話だ」
クラリスと、エドワードの顔色がさっと変わる。
「もちろん僕はそんな下品で面倒な真似はしないがね。言っただろう? これはただの助言だ。自分の身と、愛する者を守りたいのなら、賢くなれとは言わないが、せめて最低限の礼儀くらいは身につけたほうがいいと思うがね」
クラリスが青ざめた顔で、大きな目に涙をいっぱいに溜めて、ごめんなさい、と小さく謝った。
「失礼なことを言って、ごめんなさい」先程の勢いから一転し、ぺこぺこと頭を下げるクラリスを見て、意外と根は素直な子なのかもしれない、と私は思う。
彼女の子供っぽい言動と、一件落着したような雰囲気によって、いつの間にか店内の緊張感もなくなっていた。客も、買い物という本来の目的に戻ってくれたようで、私はそっと安堵する。婚約者に捨てられ政略結婚をした貴族として悪目立ちするなんて、絶対にごめんだ。
「……で、君は?」
ルイが私の肩に回した手を少し引き寄せ、そっと尋ねてきた。
「あの元婚約者に、平手打ちくらいはしても許されると思うけれど?」
……知ってたのか。
ルイにはエドワードとのことを話していなかった。別に隠してもいなかったが、婚約者に捨てられたので貴方と政略結婚しました、などといちいち説明するのも妙なので黙っていたのだ。
ぐすぐすと泣き出してしまったクラリスにハンカチを差し出すエドワードを見て、私はつい笑みを零す。
「いえ、いいんです。行きましょう」
幼い頃、実家の裏庭で転んで泣いてしまった私に、エドワードは同じようにハンカチを差し出してくれた。優しく涙を拭ってくれるハンカチが柔らかくて、温かくて。いつだって、私が泣いた時にはエドワードがハンカチを渡してくれた。けれどそれは幼かった頃の、遠い過去の記憶だ。もうずっと長いこと、彼の前で涙を流したりはしていなかった。きっと私に、彼のハンカチは必要なくなっていたのだ。
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