04 猟犬
パーティーの喧騒から離れた私は、バルコニーで夜風を浴びながら月を眺めていた。
初めての社交会デビューに付き添ってくれたのは、エドワードだった。
私は、彼の隣にいるのは自分であるのが当然だと思っていた。いや、そんなことを考えもしなかった。なんの疑問も心配も抱かずに、彼にエスコートされてきた。15年間ずっと。
「月が綺麗ですね」
突然隣から声がして、驚いて振り向けばそこには黒髪の青年が立っていた。
いつの間に隣にいたのだろう。足音や気配がわからないくらい、私は思想に耽っていたのか。
「知ってます? 東洋ではこの言葉は愛を伝える意味になるんだとか。なぜだかわかります?」
にかっと口を横に広げて笑い、男は挨拶もなしにそんな問いかけをしてきた。
「さ、さぁ……?」
「ま、オレにもわかんないんですよ。ただの聞いた話ですから。あはは!」
あははって……。私が呆気にとられていると、彼は佇まいを直して軽く一礼した。
「初めまして。マルセル・イグニ・ヴァロアです」
ヴァロア――子爵家の人か。それよりも私の興味を引いたのは、彼の名乗ったミドルネームだった。
「島の出身の方ですか?」
「! はい、よくわかりましたね」
「島の方は出身地を苗字に名乗ると聞いたことがあったので」
イグニという地名には聞き覚えがあったので、もしやと思ったのだ。それによく注意して聞けば、話し方に少々訛りがある。
「母が島の人間で。2年くらい前にヴァロア家に世話になる形でやってきました」
だからだろうか。マルセルは中央の貴族たちとはどことなく雰囲気が違って見えた。
スーツの上からでもわかる、細身だが鍛えられたしなやかな肉体。やや長い黒髪は後ろでひとつに縛られ、肌も浅黒い。大きな口で笑うたび、尖った犬歯が目に入った。人懐っこそうな笑顔を見せるが、目だけは金色に爛々と光っている。
なんだか、猟犬のような男性だと思った。
「それで、貴方は……」
マルセルに促され、自分がまだ名乗っていなかったことを思い出す。
「失礼致しました。私はデュシェル辺境伯夫人、リアーネ・デュシェルと申します」
膝と腰を軽く曲げ礼をすると、頭上から「え!?」と驚きの混じった声が聞こえてきた。
「じゃあ、貴方があの、噂の……」
「はい?」
噂?
「あ、すみません。いえね、あの女性人気の高いルイが結婚したっていうから、お相手はどんな人だろうとずっと気になってたんですよ。ルイが結婚したって話が広まってから、彼を狙ってた令嬢たちは怒りだすわ泣きだすわで、もう中央は大変な有り様だったから。今日だって、令嬢たちはみんな貴方にこっそり注目していたはずですよ? 気付きませんでした?」
全く気が付かなかった。
ルイのフォローに回るので忙しかったし、こんなに大勢の人がいる中で、周りの視線に気を配る余裕もなかったから。
それにしても、やはりアンネだけではなく、ルイに想いを寄せる令嬢は数多くいたらしい。
「……申し訳ないですね」
私はポツリと呟いた。
彼女たちの恋路を、私は自分の家名と領民のためとはいえ、身勝手に奪ったのだ。今の今まで、私はそのことに気付きもしなかった。
もちろんルイに愛人を作る自由はあるけれど、女性にとって愛する人の正妻になれないという事実は辛いものだろう。
そんな私を、マルセルはきょとんとした顔で見つめた。
「……貴方は不思議な人ですね」
「え?」
「夫に想いを寄せていて悔しがってる女性がたくさんいるって話を聞いても、優越感に浸るでもなく、不安や嫉妬心を持つでもなく、ただその女性たちに申し訳ないと思ったんですか? どうして?」
……言われてみれば、確かに妻の反応としては不自然だったかもしれない。
「今だって、こうして目を離してる間にルイは節操のない令嬢たちに言い寄られてるかもしれないですよ? 愛されてる安心感ゆえの余裕? それとも信頼?」
「えぇと……、まぁ」
私は苦笑いしつつ、歯切れの悪い返事をする。
安心感。信頼。
かつてエドワードに対して抱いていた感情だ。
自分がいるべき場所にいるという安心感。けれどもうそれはどこにもない。ルイの隣だって、私の『いるべき場所』ではないのだ。
「……けれど、直接貴方と話してわかりました」
マルセルはにこりと笑顔を浮かべる。
「貴方は美しく思慮深い方だ。だから選ばれたんでしょうね」
ウツクシク、シリョブカイ。
お世辞でも言われたことのない言葉に、私は暫しぽかんとするが、「もったいないお言葉です」と慌てて頭を下げた。
***
帰りの馬車では、ルイはかなり疲れている様子だった。
「まったく……、社交会なんて二度と出たくない。人は多いし騒がしいし、話題といえば見栄と自慢か他人のゴシップしかないときた。わざわざ金をかけて集まる意味がわからない」
ブツブツと文句をこぼすルイに、私は半分くらいは同意する。けれどルイはほとんど不機嫌そうに立っていただけだし、代わりに会話の相手をさせられた私の方がよっぽど疲れていると思う。そんな不平を訴えたところで意味もないので黙っているが。
「けどまぁ、お話もできて楽しかった方もいたし……」
マルセル、と名乗ったあの猟犬のような男性を思い出す。
私の言葉に、思い出したようにルイが尋ねる。
「そう言えば君……アンネと話していたね。何か妙なことをされなかったか? あれは余計なことしかしない上、何度言ってもまるで聞き分けがないからね。多分、脳みそが半分くらい綿でできているんだろう……」
暴言にも程がある。
「い、いえ、アンネ様は可愛らしくて……素敵な人でした。あの、彼女に言わないんですか?」
「何を?」
ルイを見つけた時の、アンネのキラキラとした笑顔を思い出す。
彼女には多少失礼なことを言われはしたが、憎む気にはなれなかった。無遠慮に思い切り感情をぶつけるアンネが、私にはどこか羨ましくさえ感じた。
「私たちの結婚は政略結婚で、愛がないと……」
「は? そんなことを言いふらして歩く気かね? やめろ。君も余計なことを言うんじゃない」
ルイの目が「馬鹿かお前は」と語っている。確かにその通りだ。貴族の世界に政略結婚などありふれてはいるが、それを表立っていうような人間はどこにもいない。
けれどアンネに言い訳がましくそれを伝えたくなるのは、きっと、自分が悪者にはなりたくないという自分勝手な思いからだろう。
「すみません」
私はため息混じりに呟いた。
「何を謝る?」
「いえ、貴方を政略結婚に巻き込んでしまったことです。私は自分勝手で、そのくせ自分ばかり傷付いたつもりでいて……」
落ち込む私を、ルイは呆れた目で見た。
「自分の都合で僕に結婚を迫っておいて、そんなことに今更気が付いたのかね? それに僕の前で落ち込んでみせるところが更に傲慢で身勝手で、思い遣りに欠けている」
さすがに辛辣すぎる。
「だがまぁ、それがなんだという話だ」
「え?」
顔を上げると、ルイと目が合った。
「僕もこれでいて、自分のために行動しているつもりだ。別に君の身勝手さに振り回されているつもりはない。僕自身、どこぞの誰かからすれば憎むべき対象かもしれないが、関係ないね。誰からも愛される聖人になどなれはしないし、なるつもりもない。当然だろう? 誰か一人に優しくすれば、それは同時に他の全ての人間に冷たく背を向けていると同意なのだから」
「それは極論です……」
それに開き直りすぎだ。
けれどルイの言う通り、他人を気にしてクヨクヨしてばかりいても仕方がない。私は私の人生を守らなくてはならないのだから。
「それと……」
ルイは、窓の外に目を向けながら少しばかり言い淀んだ。
「君のドレスも似合っていると思うよ」
…………はぁ。
え、
「今?」
今このタイミングで……!?
会話の流れガン無視だし。あと10分もすれば家に着いてしまう、今このタイミングで言うこと!?
「出発前に君がべらべらと捲し立てるから、褒めるタイミングがなくなってしまったんだろう!? 文句があるならさっきの言葉は取り消す」
「いや、文句はないですけど……」
紳士のマナーとして、パートナーのドレスを褒めておかねばならないということだろう。確かに、出発前の玄関ホールで、というベストタイミングを奪ってしまったのは私だが……。
窓から目を離さないルイの横顔は拗ねた子供のようで、可笑しくなってつい私は笑った。
「笑うな。不愉快だ」
「すみません、でも……ありがとうございます。嬉しいです。今日のドレスは、貴方に合わせて選んだから。ラベンダー色、ルイ様の瞳と同じだと思って」
ルイは、驚いたようにこちらを見た。月明かりが反射する、透き通った薄紫の瞳はやはり綺麗で。
人形のようだと思っていたけれど、意外と感情豊かでわかりやすい、と私は思った。
続きは明日。