02 愛ってなんだろう
『ゆっくり休むといい』
ルイにそう言われたものの、私はゆっくり眠ることはできなかった。身体は疲れ切っており、ベッドに横になるなり一度は気を失うように眠ったのだが、夢にうなされすぐに目が覚めてしまった。
月明かりに照らされた天蓋ベッドの天井を眺めながら、私は元婚約者のことを考えた。
エドワードは式に呼ばなかった。というか、たとえ呼ぼうにも呼べなかっただろう。彼らの家族がエドワードを殆ど勘当していたし。
私はエドワードからの婚約破棄を受け入れた。両親はエドワードを責めたが、私は怒ることも泣くこともなかった。
私の両親よりも更に憤っていたのがエドワードの家族だ。ギャルヴァン家の人々は、エドワードが平民の娘と共になるつもりだと知って、彼を勘当し家門から追放すると言い張ったのだ。私が宥め何とか思い止まらせたのだが。婚約破棄されようとも、一応は大切な幼馴染なのだ。偽善かもしれないが、自分が関わった事柄で彼が不幸な目に遭うのは避けたかった。
しかし何より驚いたのは、あのエドワードが家族に勘当すると言われても自分の意思を曲げなかったことだ。
私は彼が、そんなふうに誰かに強く歯向かうことができる人間だとは知らなかった。私の知る彼は、いつも控えめで、人に気を遣っていて、紳士的だったから……。
結局日が登るまで浅く眠ったり覚醒したりを繰り返し、ちっとも休んだ気がしないまま私は朝食の席に着いた。
ルイは既に身支度を終え、先に席に着いていた。彼は相変わらず整った顔で、周りのことになんて一切動じなさそうに冷たい表情をしている。私は寝不足でひどい顔だ。私が彼だったら、昨日結婚した嫁がこんな楽しくも美しくもない女だと改めて認識してうんざりするだろう。
「おはようございます」
「……おはよう」
ルイはこちらをチラと見ただけでぶっきらぼうに挨拶を返した。
「僕はこの後家を出る。ここでの仕事を覚えるために、手始めにあちこち回らなくてはならないからね。帰るのは夜になるだろから先に休んでいて構わない。暫くはそのようなスケジュールの予定だから──」
ルイの言葉を聞き流しながら、私は適当に相槌をうっていた。彼の声は低く、語気も神経質でどことなく高圧的だった。
今まで私の周りにはこんな喋り方をする人間はいなかった。エドワードはいつも丁寧で、物腰柔らかな人だったし、父も言葉こそ強い時はあれど、こんなふうに人を寄せ付けない話し方はしなかった。
政略結婚を迫った身なのだから好意を持たれるはずはないとわかっていたけれど、私は思った以上にルイに嫌われているのかもしれない。
──だからといって、悲しむ理由もないけれど……。
「……君、聞いているのか?」
ルイの訝しげな声で、顔を上げる。
「あ……すみません」
「──ぼんやりするんじゃない。君があの日、家名のため、ここの領民のためだと語った言葉は偽りだったのか? 僕が領主としての務めを果たしているかどうか見張るんじゃなかったのかね?」
ルイは苛立ちを隠そうともせず、責め立てるように言い放つ。
……返す言葉もない。
あの日、ルイの前で偉そうに啖呵を切っておきながら、未だに私はめそめそと感傷に浸っているのだから。
けれどこの三ヶ月間のせいで、精神的に疲れ切っているのも事実だった。
「……すみません。ちょっと、体調が優れなくて」
ルイのつり上がった眉がぴくりと動く。じっと私のほうを見つめるので言い訳するなと怒られるかと思ったが、彼は語気を和らげた。
「食事が進んでいないね」
「……食欲がなくて」
私は皿の中を突いていただけのフォークを置いた。
「医者を呼ぼうか」
「え?」
思いがけない言葉に戸惑い、聞き返してしまった。
「いえ、あの……、大丈夫、です。ただの寝不足だと思いますから」
「……そうかい。なら今日は身体を休めるといい」
ルイはメイドに「彼女を休ませるように、体調が悪化したらすぐ医者を呼ぶように」と言付け、席を立った。
座る私に近づき、顔色を確認するように覗き込む。
「僕が戻るのは夜になるが、問題ないかね?」
呆気に取られながらこくこくと頷く私に、見送りはいい、と言うとルイは食堂から出て行ってしまった。彼の去った扉を暫く見つめた後、私は妻の務めである「いってらっしゃいませ」を忘れたことに気が付いた。
***
ルイ・グラックと初めて出会ったのは、つい二ヶ月程前だった。
グラック家の屋敷は大きく豪勢であるものの、中はどことなくがらんとしており、展示品のない美術館のような印象を受けた。
だからかもしれない。応接室で見たルイの第一印象は、精巧な人形のような人だった。
この寒々しい美術館の中で、彼は忘れ去られ置いていかれた唯一の展示品なのだと、そんなふうに思えた。
私よりも頭ひとつぶんくらいは身長が高く、けれど威圧感を覚えないのは線が細く繊細な雰囲気を持っているからだろうか。かといって決して華奢な体つきではないのだから不思議だ。
白くきめ細やかな肌に、短く切り揃えられた薄金の髪は絹糸のように艶があった。薄い唇に、透き通ったラベンダー色の瞳。長い睫毛。全てが職人の手によって完璧に計算し尽くされ作られた、美術品のようだった。
3つも歳上の男性にこんな表現は変だけれど、下手に触れれば壊れてしまうのではないかと、そう思うくらい彼は美しかった。
「……そこで突っ立っていないで用件を話したらどうだね。こちらも暇じゃないのだが」
はっとして、慌ててスカートの端を摘み会釈をする。
「お、お初にお目にかかります。私はデュシェル辺境伯令嬢、リアーネ・デュシェル……」
お決まりの挨拶を述べながら、今しがた言われた言葉を頭の中で反芻する。
突っ立って? そこで突っ立っていないで用件を話したらどうだね……? この人、私に向かってそう言った?
下位貴族である男爵にすぎないグラック家の次男坊が、辺境伯令嬢である私に、そんな口の聞き方を……?
憤慨したのではない。生まれて初めての出来事に、ただただ心底驚いたのだ。
「そ、それで、前もってお送りした手紙は読んで下さいましたか?」
「あぁ……」
ルイは、懐から開封済みの封筒を取り出してみせた。
「この僕が、婿養子としてそちらの家へ入る形で君と婚姻を交わせば、グラック家が国に抱えている借金を代わりに返済してやろう、と……、噛み砕いて言えばそういうことだろう?」
……表現が少々直接的すぎるきらいがあるけれど。
「はい、その通りです。次男である貴方はグラック家の爵位を継ぐことはない。デュシェル家の婿養子に入れば辺境伯という爵位を継ぐことができますし、グラック家が昔事業に失敗しできた借金も帳消しになります。決して悪い話ではないと思うのですが……」
「断る」
「……はい?」
「断らせてもらう。なぜ家のためにこの僕が身売りのような真似をしなくてはならない? 借金も僕が作ったものではないしね。馬鹿馬鹿しい。家名を振りかざすことしか脳内にない貴族連中のお遊びの駒になるくらいなら平民に下ったほうがよっぽどマシだ」
眉を寄せ、心底不愉快だといった様子で、ルイは吐き捨てるように言った。
「君も君だね。親の言いなりなのか知らないが、今の今まで僕のことなど知りもしなかっただろうによく求婚などできたものだね。手紙を送った時に知っていたのは僕の名前と年齢くらいのものだろう? 僕が目も当てられないような醜い男だったら? 女性を加害することが趣味のような性根の人間だとしたら? それも家名のためなら仕方ないのか?」
立て続けに責め立てられ、頭の中が真っ白になる。
何だ? この人は? 私は何で怒られているのか……?
「デュシェル家の爵位を継ぐ人間がいなくても問題はない。血が途絶え領主がいなくなれば領地は国に返納され、王が別の貴族に領地を振り当てるだけだ。君は辺境伯令嬢として充分に遊んで暮らしていけるだろうし、政略結婚なんてする必要はない。以上だ」
もう話すことはない、と言った様子で、ルイは手に持っていた封筒を叩きつけるようにしてテーブルに投げ捨てた。
「……困ります……」
私は独り言のように呟いた。
ルイ・グラックに政略結婚の話を持ちかけたのは、彼以外に適役がいなかったからだ。
辺境伯の爵位があるとはいえど、今では衰退した田舎の地方貴族の元へ婿養子に入りたがる貴族はそうそういない。私が絶世の美女でもあったのならば別かもしれないが、残念ながら、地味で冴えない行き遅れかけの平凡な女だ。両親はいくら家のためといえども、私を20や30も歳の離れたような男性に嫁にやることを拒んだ。貴族家で、歳が近く、悪い噂もなく、こちらが何らかの手助けによりメリットを提示できる男性。それらの条件に当てはまるのはルイ・グラック、彼しかいなかったのだ。
両親は結婚を急ぐことはないと私に言ってくれた。けれどそうはいかない。婚約者がいるという安心感に胡座をかいて、私はもう24になってしまったのだ。結婚適齢期を過ぎれば過ぎるほど、こちらの分が悪くなる。
「政略結婚です。否定はしません。私を妻として扱う必要もありません。貴方が愛人を作ろうと、家に帰って来ずとも構いません。貴方の生活や趣味趣向にも口出ししません。ただ、家名を継ぎ、領主として正しく土地を治めてほしいので──」
言葉に詰まった。私を見るルイの瞳があまりにも冷たかったからだ。
呆れ……いや、軽蔑。そこまであからさまに人から嫌悪の感情を向けられることは、経験したことがなかった。
「愛のない結婚をすることを恥と思わないのかね?」
愛。
愛ってなんだろう。
それはエドワードと別れてから一ヶ月間、ずっと考え続けてきたことだった。
15年間連れ添った許嫁を振り、家族に勘当されようとも、地位も責任も捨てて守ろうとするものが愛なんだろうか。
「……愛なんて」
私はうめくように言った。
「愛なんてどうでもいい」
ルイの目が、驚いたように見開かれる。
「愛だなんだというんなら、私は生まれ育った自分の土地を愛してる。領土を返納して、どこぞの誰とも知らぬ貴族に、私たちデュシェル家が先祖代々守り抜いてきた土地を渡すわけにはいかないんです。一部の貴族たちの悪行は貴方だって知ってるでしょう!? 私にはあの土地で領民を守る責務がある! 私が男だったらこんな面倒なことはしなくて済んだだろうけど仕方ないじゃない! 一人娘として生まれたからには婿を迎え入れて立派な領主として働くよう支え育てる、それが私の決めた生き方なんだから! 愛だの恋だの小さいこと今は言ってらんないの!!」
こんな啖呵を切ってから三日後、驚くことにルイから正式に婚約を申し込む手紙が届いた。
***
「多分、私たちはビジネスパートナーみたいなものだと思う」
仲良しのメイドでらあるアナに髪をとかして貰いながら、私はぼやいた。
「何言ってるんですか、夫婦でしょ〜?」
アナは私より四つ歳下で、メイドという立場にも関わらずたまにとても無遠慮なところが好きだった。
「私の経営理念に感銘を受けて、手を貸そうという気になってくれたんだ。でないと結婚を承諾してくれた理由がわからないし。だから私も、その想いにちゃんと応えなくちゃいけない」
「お嬢様はたまによくわからないことを言いますね〜」
くるりと振り返り、私はアナを睨みつける。
「もうお嬢様じゃなくて、お・く・さ・ま、だってば!」
「だってぇお嬢様の方が言い慣れてるんですもん」
「この歳にもなってお嬢様はキツいよ……」はぁ、とため息を吐く。
コンコンと控えめなノックが響いた。
「旦那様がお帰りです」
私はネグリジェ姿にガウンを引っ掛け、玄関ホールまで夫を出迎えに行く。今日も夜遅い。
ルイは朝食を共にとった後家を出て、夜、私が寝る支度を終えた頃に帰ってくる。
「お帰りなさいませ」
「……ただいま」
彼はろくに目も合わせない。
会話らしい会話もなく、彼は寝る支度に入り、私も部屋に戻る。そんな日常がもう一週間も続いただろうか。
別にそれでも構わない。書類と帳簿を見れば仕事を粛々とこなしてくれていることはわかるし、私にもこの家を管理する仕事がある。互いにやることはやっているので口出ししない、ということだ。
ビジネスパートナーとしては協力関係が足りない気もするが、滑り出しとしては上々だろう。
ルイとの結婚を決める時、もっと詳細に書類上で契約を交わしてもいい、と私は彼に持ちかけたことがある。
「グラック家の借金の返済は正式に取り決めましたけれど、その他にも……、例えば愛人を別邸に住まわすことに合意する、とか、プライベートを詮索しない、とか、細かく決めても構わないですよ?」
「それでは契約結婚だろう」
呆れたようにルイは首を振った。
「違うんですか? 政略結婚も契約結婚もさして変わらないかと……。あ、もちろん、契約書を作らなくても口煩くするつもりはないですが。仕事さえきちんとこなしてくれれば、私は構わないので」
「逆に聞くけれど、君は必要ないのかね?」
ルイはじっと私を見つめた。
「プライベートに口を出すなとか、愛人を作らせろとか、半径2メートル以内に近づくなとか」
彼の提案に私は思わず笑う。
「まさか! 私は必要ないです」
「そうかい、なら、僕にも必要ないよ」
余計な契約を交わさない、その程度には信頼されていると前向きに捉えても構わないだろう。
ルイの信頼を裏切らないためにも、領主として働いてくれている限り、彼の生活に不用意に踏み込むことは避けるつもりだ。
今夜もまた挨拶だけ済ませ、部屋へ引っ込んでしまうのだろう。そう思っていたのだが、ルイはすたすたとこちらへと歩いてくると、私を見下ろし唐突に言った。
「君、社交会へは出られるか?」
続きは明日