五話 少女の心は清らに濁る。
目を開けると、自室の天井が広がっていた。
「……ああ、まずったかな」
起き上がろうとして、満身に鈍い痛みが走った。
どうやら今回は、怪我の程度が重かったらしい。
いつも落ち方まではコントロールできないので、体のどこをどれだけ痛めるかは、毎回完全に運任せなのである。
「この感じだと、両腕両足、それにあばらと……うん、とにかく全身ダメだ」
なんなら、首の骨だってまずいことになってる気がする。
とにかく安静だ。今はそれしかできない。
「しっかし、何日経ったんだろう?」
怪我の程度が毎回ランダムであるように、僕が目を覚ます間隔も一定ではない。
早い時にはその日の夜に、遅い時には最長一週間くらいかかったこともある。
今回の重傷度からいえば、少なくとも数日は経過していておかしくなかった。
と、部屋のドアが、キィ、と動いた。
……来たか。
「セシリア姉さん、かな?」
息を呑む気配。
ドアの向こうに、声を出せずに固まっている姉さんの姿。
「ああ、やっぱり」
ノックをせずにこの部屋に入るのは、姉さんくらいだ。
メイドや従者たちなら、身に染みついた習慣で必ずノックだけはするし、両親や他の兄姉がここに来ることなんて有り得ない。
「どうぞ入ってください、姉さん」
優しい声で招き入れる。
だけど、僕の心臓は荒々しく脈打っていた。
どれだけ心が麻痺しても、毎回、何度だって思ってきた。
もしもこの瞬間に、姉さんが、それまでの姉さん通りでいてくれたなら――
「ごめんなさい、ダリオ。本当に、ごめん……なさい……」
部屋に入った姉さんは、膝から崩れ落ち、ポロポロと涙を零して僕の名を呼んだ。
……やっぱり、変わらないのか。
心が急速に冷めていく。期待はやはり裏切られる。
僕を見下すお転婆なセシリアはもういない。
ここにいるのは、弟を歪に溺愛してしまう、狂おしいまでに病んだ少女だ。
命を懸けて命を救われる。
そんな物語じみた極限状況が、彼女の精神をひっくり返してしまうのだ。
***
「ダリオが死んでしまったらと思うと、私……私……」
ひととおり泣きじゃくった姉さんを、僕はどうにか宥めて落ち着かせ、ベッドの脇に呼び寄せた。
今も結局嗚咽を漏らしているけれど、それでも、彼女に確認しなければならないことがある。
「大丈夫だよ……とは、簡単には言えないか。僕の治療をどうするかは、父上の意向次第だから」
姉さんの嗚咽が、ぴたりと止まった。
「このまま、僕を寝たきりにしておく可能性だって――」
「そんなことはさせないわ!」
慟哭。そして、瞳には邪気の色。
「お父様には、あなたの治療を約束させたもの。あと二日だけ我慢して。そうしたら、王都から腕の良い治療魔法の術師が来てくれるから」
させた、か。
こういう変化も、やっぱりいつも通りだ。
やはりセシリア姉さんの心は、急激なまでに変容している。
「そっか。ありがとう。姉さんが頼んでくれたんだよね?」
水を向けると、セシリア姉さんはあの日のことを、ぽつりぽつりと話し始めた。
***
「それで、セシリアは無事なんだな」
「は、はい、もちろんです。セシリアお嬢様には、目立ったお怪我はございません」
ダリオがセシリアを救助した直後、屋敷では、従者の報告を受けた父エドワードが、事の顛末を確認していた。
最初に気がついたのはダリオだということも説明を受けたが、エドワードは、それを失点として受け止めた。
「このような事態を引き起こしおって、あの忌み子め。もはや温情などかけておけるものか」
静かな声にそぐわない苛烈な表情。
使用人達は理解した。
彼はこの機に、忌まわしい妾腹の子を亡き者とするつもりなのだと。
「検分した医者を呼び戻せ! 金を握らせ、このまま事故死として処分して――」
「やめて!」
エドワードの命令を、子どもの声色が遮った。
セシリアだった。
「やめてくださいお父様! ダリオに非はありません!」
父を含め、この場の誰もがあっけにとられた
いくら命を救われたからとて、セシリアが忌み子を庇おうなどとは。全くの意想外だった。
「何を言うのだセシリア。奴が為に、此度の縁談が破談するやもしれんのだぞ!」
実の娘の奇矯なふるまい。しかし、父の怒りは収まらない。
ならばと、セシリアは提案した
「第四王子との面会がつつがなく終われば良いのでしょう? 幸い、私には外から見える怪我はありません。予定通り、このまま王子を屋敷にご招待ください。立派に役目を果たしてみせます」
だから、ダリオを決して罰さないで。
セシリアは必死に、命すらをも差し出す覚悟で、父に向かって懇願した。
周りの従者も、これに同調した。
ダリオを助けるためではない。
本来、最も功績を残したダリオを処罰したとなれば、それで主人の怒りが収まりつかぬ時、次の刃が向くのは自分たちだからである。
娘と従僕たちの説得に、さしものエドワードもついに折れた。
彼は王子との顔見せがうまくいくことを条件に、ダリオの治癒を約束した。
果たしてセシリアは、完璧なまでの振る舞いで、第四王子の歓心を買った。
***