海底神殿、終幕 そして、空へ
⸻
腕に巻いた《女神の加護石》が、
……チカッ、チカッ
と、淡い光を繰り返した。
「……ん?」
ザミドが完全に消滅し、
海底神殿を覆っていた禍々しい気配が嘘のように消え去った、その直後だった。
《女神の加護石》は、普段ならただの青白い石に過ぎない。
それが今は、まるで呼吸するみたいに、一定の間隔で淡く輝いている。
「なによ……今さら何の用?」
アタシは、少し警戒しながら石に意識を向けた。
――すると。
視界が、ふっと歪んだ。
水の感触が消え、
重力すら曖昧になったかと思った次の瞬間。
気づけばアタシは、
見覚えのある巨大な神殿の最奥――
あの、地下四階の大広間に立っていた。
「……あ」
そこにいたのは、二人。
一人は、澄んだ水色の髪を持つ精霊王。
もう一人は、深海そのもののような気配を纏った女神。
「久しいな、小さき魔の芽よ」
精霊王メルニーナが、穏やかに言った。
「……イケ様も」
海の女神イケは、優しく微笑んでいる。
だがその瞳の奥には、はっきりとした“覚悟”の色があった。
「呼び戻した理由は、一つです」
イケが静かに告げる。
「邪神ザミドの完全消滅――
それは、世界の均衡が一段、前へ進んだということ」
「……均衡?」
アタシは首を傾げる。
「ええ」
メルニーナが、続けた。
「だが同時に、あなたの存在もまた
“世界に記録された”」
「魔神の器として」
……ああ、やっぱり。
ザミドの最期の言葉が、脳裏をよぎる。
――魔神となる存在。
――終わらせられる存在。
「別に、世界をどうこうする気はないんだけど?」
アタシが言うと、
イケは困ったように微笑んだ。
「それでも、世界は“役割”を押し付けてきます」
「望もうと、望むまいと」
「……迷惑な話ね」
アタシは肩をすくめた。
「だからこそ」
メルニーナが一歩、前に出る。
「我らは、あなたに選択肢を与える」
「この海底神殿は、もはや“牢獄”ではない
だが、あなたが留まる場所でもない」
「……つまり?」
「地上へ行きなさい」
イケが、はっきりと言った。
「今のあなたは、海に縛られる存在ではありません」
アタシの腕に巻かれた《女神の加護石》が、
再び、チカリと光る。
「この石は、ただの守護ではない」
「あなたが“境界を越える”ための鍵です」
「境界……?」
「海と陸、
魔と理、
そして――運命と自由」
イケは、そっと手を伸ばし、
アタシの額に触れた。
瞬間。
身体の奥で、何かが弾けた。
( 確認しました。
《浮遊》が安定化しました。
陸上活動制限が解除されます。)
「……は?」
思わず素っ頓狂な声が出る。
「つまりね」
メルニーナが、楽しそうに笑った。
「あなたは、空を渡れる」
「水がなくても、死なない」
「魚なのに?」
「魚だからこそ、です」
イケは優しく頷いた。
「あなたは、もはや“ただの魚”ではない」
「……」
しばらく、言葉が出なかった。
「……女神様って、
意外と無責任よね」
ぽつりと、そう言う。
「魔神になるかもしれない存在を
地上に放つとか」
イケは、少しだけ目を伏せた。
「ええ」
「ですが、それを止めるのが“勇者”であり」
「それを超えるかどうかは――
あなた次第」
「……ふーん」
アタシは、笑った。
「じゃあ、面白くなってきたじゃない」
その瞬間。
広間全体が、淡い光に包まれた。
「さあ」
メルニーナが告げる。
「帰りなさい」
「あなたの選んだ道へ」
光が、視界を埋め尽くす。
⸻
次にアタシが立っていたのは、
海底神殿の外。
崩れ落ちた神殿の残骸と、
穏やかに揺れる海流。
「……戻ったか」
すぐ隣に、アーヴァインが立っていた。
黄金の鎧を纏った骸骨騎士は、
剣を肩に担ぎ、こちらを見下ろしている。
「どうやら、女神たちに呼ばれていたようだな」
「まあね」
アタシは、軽く尾を揺らした。
「地上に行けってさ」
「……ほう」
アーヴァインは、少し驚いたようだったが、
すぐに納得したように頷いた。
「お前なら、そうなるだろうと思っていた」
「何それ、予言者?」
「騎士の勘、というやつだ」
ふっと、静かな沈黙が落ちる。
「……アーヴァイン」
「うむ」
「アンタは?」
「私は――帰る」
彼は、迷いなく言った。
「たとえこの姿であろうとも」
「我が魂は、ヴァールシュタット王国の騎士だ」
「……そっか」
別れが近いことを、
言葉にしなくても分かった。
「世話になったわね」
「こちらこそだ」
アーヴァインは、剣を胸に当て、
正式な騎士の礼を取った。
「再び会うことがあれば――
その時は、敵かもしれぬな」
「その時は、容赦しないわよ?」
「望むところだ」
二人して、少しだけ笑った。
「じゃあ……」
アタシは、身体を持ち上げる。
背中側で、何かが“ふわり”と浮く感覚。
空だ。
水のない、空間。
「……本当に、飛べるのね」
「行け」
アーヴァインが言った。
「お前の戦場へ」
「……うん」
アタシは、一度だけ振り返り。
「元気でね、黄金の骸骨騎士」
「お前もだ、空を渡る魔の魚よ」
そのまま、アタシは上昇した。
海面を突き破り、
空へ。
雲へ。
陸へ。
新しい世界が、眼下に広がる。
「――さて」
風を受けながら、アタシは呟いた。
「勇者だか、世界だか知らないけど」
「邪魔するなら――
先に見つけて、潰してあげる」
空の彼方へ。
新たな旅の、始まりだった。
後書き
邪神ザミドは滅びた。
長く海の底に巣食い、世界を歪めていた存在は、確かに消え去った。
けれど——
それで、すべてが終わったわけではない。
封印が解かれ、神殿が崩れ、
神々が静かに去っていった後も、
世界は何事もなかったかのように、淡々と回り続けている。
アタシは勝った。
確かに、邪神を倒した。
それなのに胸の奥に残るのは、
達成感よりも、得体の知れない違和感だった。
ザミドの最後の言葉。
「真なる勇者」という強者の存在。
そして、腕に巻かれた《女神の加護石》。
今はまだ、何も語らない石。
何も示さない未来。
——だが、確実に“何か”は動き始めている。
勇者とは、救う者なのか。
それとも、終わらせる者なのか。
魔神となったアタシは、
いずれ“討たれる側”になるのか。
それとも——違う選択肢があるのか。
答えは、まだない。
あるのは、ただ
これから始まる“旅”だけだ。
そして次に出会う存在が、
敵なのか、運命なのか、
それとも——
想像もしなかった“救い”なのか。
それは、まだ誰にもわからない。
けれど一つだけ、確かなことがある。
この物語は、
邪神を倒したその先から、本当の始まりを迎える。
——夜空の下、満月を見上げながら。




