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カルロ村――産声を上げた約束の地


 朝の空気は、針で刺すような鋭い冷たさを帯びていた。

 夜の間に降りた深い霧が、朝日を浴びてキラキラと白銀の粉を撒き散らしている。


 メアリーは、お魚先生の温かな腕に抱き上げられるようにして、丘の頂から眼下に広がる光景を眺めていた。小さな肺いっぱいに、澄み渡った冬の終わりの空気を吸い込む。


「……すごい」


 その言葉は、白い吐息と共に震えながら零れ落ちた。

 数日前まで、ここはただの「忘れ去られた場所」だったはずだ。


 冬枯れた草丈の高い原っぱが広がり、獣が通るような曖昧な踏み跡があるだけの荒れ地。それが今、朝焼けの光を浴びて、明確な**「村の形」**を成してそこに横たわっている。


「村、って……本来なら何年もかけてじわじわと形になるものなんだけどねぇ」


 お魚先生は、眼鏡の奥の瞳を細めた。感心したような、あるいはその異常な速度に少しだけ呆れたような、複雑で温かな溜息をつく。


 丘の斜面をなぞるように降りた先。

 村の中心部には、広場となる予定のやや広めの空き地があり、それを取り囲むようにして三棟の木造建築が、生まれたての赤子のように背を丸めて並んでいた。

 一番手前に建つのは、荒削りながらも重厚な風格を漂わせる建物だ。

 切り出したばかりの杉の香りが風に乗って漂ってくる。壁材の節や凹凸はそのままに、しかし基礎には巨大な石が据えられ、びくともしない頑丈さを誇っていた。


「ここが共用の倉庫兼、作業場ね」


 お魚先生の指差す先、その扉の横には一枚の木札が掲げられている。


 墨で書かれた字は、一画一画に力が入りすぎて少し歪んでいるが、それがかえって書き手の実直さを物語っていた。


《共同作業所》


「……この字、誰が書いたんですか?」


「ネロよ。意外と几帳面で、指先を真っ黒にして何度も書き直していたわ」


 その奥、風の通り道を空けるようにして建つ二棟の家。

 基本的な造りは同じだが、屋根の勾配や窓枠の飾りに、作り手の遊び心がわずかに滲んでいる。


 それはただの「シェルター」ではない。これから誰かがここで朝を迎え、夜を過ごすための、生活の器としての温もりを宿していた。


 家々の裏手に目を向ければ、さらに驚きが待っていた。

 黒々と肥えた土が掘り起こされ、幾筋ものうねが定規で引いたように真っ直ぐ伸びている。


「……畑まで、もう出来てる」


「ええ。あの『骨の人たち』の集中力といったら……休憩も取らずに黙々と土を耕すんだもの。人間じゃこうはいかないわね」


 畑のさらに先、緩やかな斜面の底には、宝石を溶かしたような澄んだ水場があった。


 もともと地表に滲み出していた湧き水を、手際よく石を積んで囲い、即席の洗い場へと作り変えたようだ。水面には朝日が反射し、小川へと続く細い流れがさらさらと心地よい音を立てている。


「飲み水、洗い物、そして火急の備え。最低限のインフラは整ったわ」


 村の背後、北側を守るようにして深い森が控えている。

 風にそよぐ葉の音は、歩いて十五分ほどの距離にあることを告げていた。薪となる枯れ枝も、薬効のある草花も、この森なら惜しみなく与えてくれるだろう。


「……ここ、思ったよりずっと、素敵な場所ですね」

「でしょう?」


 お魚先生の横顔は、自分たちの手でゼロから何かを生み出した者特有の、静かな誇りに満ちていた。



 やがて、太陽が天頂へと差し掛かる頃。

 ロッペンハイマーへと続く、まだ踏み固められたばかりの簡易道の先から、三つの影が揺らめきながら現れた。

 先頭を歩くのは、冬の樫の木のように背の高い老人。

 彼は無言のまま、杖代わりにした古びた剣を地面に突き立て、一歩一歩の感触を確かめるように歩を進める。


「……ヨハンさんだ!」


 メアリーが声を弾ませる。

 その後ろには、大きなフードを深く被り、周囲を警戒するように見渡すアルスの姿。


 さらに数歩遅れて、長い杖を無造作に肩に担いだボミエが、退屈そうに欠伸をしながら続く。


 そして、一行の足元を縫うように、一匹の牧羊犬――チューリップが、尾を激しく振って駆け抜けてきた。

 村の入り口、境界線となる場所に差し掛かったところで、三人はぴたりと足を止めた。

 ヨハンは、鋭い鷹のような眼差しで周囲をゆっくりと一巡させた。

 立ち並ぶ家屋、整えられた畑、澄んだ水場、そして村を貫く一本の道。


「……ほう」


 短い感嘆。それだけを残すと、彼はゆっくりと重い足取りで村の中へと入っていった。

 彼はまず畑へと歩み寄り、膝をついてその土を一掴みにした。

 指の間からこぼれ落ちる土壌の湿度と香りを、まるで古い友人と握手するように確かめる。


「悪くない。命を育む準備はできておるな」



 次に、水場へ。

 大きな手で冷たい水を掬い、一口含んで喉を鳴らす。

「濁りなし。甘みさえある」

 最後に、真新しい家の前に立ち、その木の壁に掌を添えた。


「……ここに、人が住む。もはや単なる土地ではない」


 それは、この場所が正式に「共同体」として産声を上げたことを宣言するような、重みのある言葉だった。

 アルスは、圧倒されたように周囲を見渡し、落ち着かない様子で肩をすくめた。


「……すごく、静かですね。町の喧騒が嘘みたいだ」


「静かすぎないのが、また良いのニャ」


 ボミエが鼻をひくつかせながら、満足げに喉を鳴らした。


「魔力の流れが淀んでいない。ここなら、ぐっすり泥のように眠れそうだニャ」


 ヨハンが向き直り、メアリーとお魚先生を真っ直ぐに見据えた。


「さて。これほどの場所を整えて、お主ら、ここをどう使うつもりじゃ?」


 お魚先生は、すぐに答えを出さなかった。

 頬を撫でる風を感じ、目の前の小さな村が持つ可能性を頭の中で描く。それから、静かに、しかし確信を持って口を開いた。


「ロッペンハイマーの便利屋は、これまで通り町の相談を受け付ける拠点」


「うむ」


「でも、町の外での依頼……より多くの人手が必要なもの、腰を据えて取り組むべき仕事は、すべてこのカルロ村に集約させるわ」


 ヨハンの瞳に、納得の光が宿る。


「なるほど。前線としての町、そして後方支援としての村、というわけか」


「ええ。無理をせず、けれど止まることもなく。私たちが私たちであるために、回し続けるための心臓部よ」

 その言葉を聞いていたアルスが、期待と不安の混じった声でぽつりと尋ねた。


「……じゃあ、僕たちも、ここに住んでいいんですか?」


「もちろん」


 お魚先生は、花の綻ぶような笑顔を見せた。


「部屋ならいくらでも余ってるわ。あなたの居場所も、ちゃんとある」


 ボミエは一瞬、照れ隠しのように目を伏せたが、すぐに思い出したように付け加えた。


「……ちなみに、風呂はあるのかニャ?」


「……それは、これから。そのうち作るわ」


「なら、今は許してやるニャ」


 そのやり取りを合図にしたように、チューリップが歓喜の声を上げて村の広場を駆け巡った。

 ヨハンは、最後にもう一度、未完成の村を見渡した。

 そこにはまだ、足りないものが山ほどある。

 けれど、ここには確かに「始まり」の鼓動が打たれていた。


「……よかろう」


 老騎士の短くも力強い承認。

 その一言によって、カルロ村はもはや「ただの開拓地」ではなくなった。


 ここから先は、ただの作業ではない。

 人が集い、それぞれの役割を担い、喜びも苦しみも分かち合う。


 「開拓」が「生活」へと変わっていく、その長い旅路の始まりだった。

 メアリーは、真新しい土を踏みしめながら、まだ見ぬ明日――

 賑やかな笑い声が響き、煙突から炊事の煙が立ち上る未来の情景を、静かに、そして強く思い描いていた。



次回、物事が自然に繋がる。

•誰が定住するか

•役割分担

•獣人たちの配置

•便利屋ギルド二拠点運用の具体化

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