何もない日(後) ――湖、無言の参加者
湖畔に、静かな時間が戻っていた。
メアリーの初釣果はすでに籠に入り、
サジとカエナは次の一匹を狙って、のんびり糸を垂らしている。
お魚先生は、水面すれすれを漂いながら、
時々だけ小さく指示を出す。
「焦らない、力入れない、考えすぎない」
「は、はい……!」
そのときだった。
――ざり。
草を踏む、重たい足音。
誰も声を上げない。
ただ、全員が同時にそちらを見た。
そこにいたのは――
ヨハンだった。
逆薔薇の剣ではなく、
手に持っているのは、年季の入った釣り竿。
何も言わない。
目も合わせない。
ただ、メアリーたちの少し離れた場所に腰を下ろし、
無言で糸を垂らした。
「……」
「……」
「……えっと」
メアリーが小声で囁く。
「先生……ヨハンさん、何も言わずに……」
「うん」
お魚先生も声を落とす。
「来ると思ってた」
「そうなんですか?」
「ええ。
“何も起きてない”って聞いたら、あの人は来るのよ」
サジが口をひくっと歪める。
「……あの爺さん、絶対こういう時だけ嗅覚いいよな」
カエナは笑っていない。
「黙ってるけど、内心めっちゃ満足してるタイプ」
その証拠に。
――くい。
ヨハンの竿が、微かにしなった。
無駄のない動き。
音も立てず、水を切る。
ぱしゃ。
中々の大きさの魚が、一匹。
ヨハンはそれを静かに籠に入れ、
何事もなかったように、また糸を垂らす。
「……」
「……」
「……あ」
メアリーが小さく息を呑む。
「……上手……」
「そりゃあね」
お魚先生は苦笑した。
「戦場で“待つ”ことを覚えた人よ。
釣りが下手なわけがない」
⸻
しばらくして、今度は軽い足音が増えた。
「……ここか」
理路整然とした声。
アルスだった。
その後ろには、星丈を肩に担いだボミエ。
「おや、全員いるニャ」
「……休みだと聞いた」
アルスは湖を一瞥し、納得したように頷く。
「理にかなっている。
戦闘後の回復には、刺激の少ない環境が最適だ」
「難しい言い方するね」
カエナが笑う。
「要するに、釣り?」
「……そうとも言う」
アルスは否定しなかった。
ボミエは水面を覗き込み、ひげをぴくりと動かす。
「魔力の流れが穏やかニャ。
魚も警戒してないニャ」
「……釣りに魔力の話が出るのね」
メアリーがぽつりと言うと、
「万物は魔力の循環ニャ」
即答だった。
⸻
やがて、籠は十分に満たされた。
日も傾き始め、湖面が橙に染まる。
「……じゃあ」
お魚先生が手を叩く。
「次は、料理」
「料理……!」
メアリーの声が弾む。
「焼く? 煮る?」
サジが聞くと、カエナが首を振った。
「今日は、アレだろ」
ヨハンが、初めて口を開いた。
「……刺身にする」
メアリーが固まる。
「……さ、さっきも出てきました、その言葉」
「生で食うやつだ」
サジがあっさり言う。
「えっ!? 生!?」
「新鮮なら問題ない」
アルスが冷静に補足する。
「理論上、最も素材の情報を保持できる調理法だ」
「情報……?」
完全に未知の世界。
ボミエは興味津々だ。
「火を通さない調理……面白いニャ」
お魚先生が包丁を取り出す。
「よく見てて、メアリーちゃん」
手際は無駄がなく、滑らか。
魚は美しい切り身へと変わっていく。
「……」
メアリーは、息をするのも忘れて見ていた。
「はい」
一切れ、差し出される。
「……いただきます」
恐る恐る口に運ぶ。
――。
目が、見開かれた。
「……!」
「どう?」
「……やわらかい……
あったかくないのに……美味しい……」
サジが笑う。
「だろ?」
「……これが、刺身……」
ヨハンは、何も言わずに頷いた。
アルスは一口食べ、静かに評価する。
「理に適っている。
余計な処理がない」
ボミエは目を輝かせる。
「これは……魔法じゃないニャ?」
「文化よ」
お魚先生は笑った。
湖は、静かだった。
誰も戦っていない。
誰も追われていない。
ただ――
同じ魚を食べ、
同じ時間を共有している。
それだけで、十分な一日だった。
⸻




