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何もない日 ― 湖と、釣りと、知らない言葉



 その日は、珍しく――

 本当に、何も予定がなかった。


 依頼もなし。

 見回りもなし。

 誰かが倒れたとか、町がざわついたとか、そういう話もない。


 朝の光がカーテン越しに差し込む中、

 メアリーはベッドの上で、しばらく天井を見つめていた。


「……今日は、なにをすればいいんでしょう」


 隣でふわりと浮かぶお魚先生が、くるりと回る。


「なにもしなくていい日、ってやつよ」


「……なにもしない?」


「そう。働かない。走らない。追われない」


 メアリーは、少し困ったように笑った。


「……それ、ちょっと難しいです」


「でしょうね」


 お魚先生は楽しそうだった。


「だから今日は――練習じゃない遊びをしましょ」


「遊び……?」


「釣り」


 その一言で、メアリーは完全に固まった。


「……つ、釣り?」


「そう。湖に行くの」


「え、えっと……私、魚は好きですけど……

 捕まえたことは、ないです……」


「だから行くのよ」


 お魚先生は、当たり前のように言った。


「知らないことを、知らないままにしない日」



 湖は、町から少し歩いた先にあった。


 水面は穏やかで、空をそのまま写したように静かだ。

 風が吹くたび、小さなさざ波がきらきらと光る。


 メアリーは、お魚先生の背に乗って、ふわりと湖畔に降り立った。


「……わぁ……」


 思わず、声が漏れる。


「こんな場所、あったんですね」


「町の人はあんまり来ないわ。

 何も起きない場所だから」


 お魚先生は、釣り竿を差し出した。


「はい。これ」


「……これで、どうするんですか?」


「まずは座る」


「座る?」


「そう。焦らない」


 メアリーは言われた通り、湖の縁に腰を下ろす。

 水の匂いと、草の匂いが混じって、少しだけくすぐったい。


「釣りってね」


 お魚先生は、糸を垂らしながら言った。


「待つ遊びなの」


「……待つ」


「考え事しながらでもいいし、

 何も考えなくてもいい」


 メアリーは、湖面をじっと見つめる。


「……仕事じゃないのに、

 こんなふうに座ってるの、久しぶりです」


「でしょ」


 そのとき。


「おーい!」


 聞き覚えのある、やたら元気な声。


「何やってんだー!」


 振り向くと、サジとカエナが走ってきていた。

 手には、それぞれ簡素な釣り道具。


「釣りだよな!?」


「絶対そうだと思った!」


「……なんで分かったんですか?」


「この湖で釣りしてるの見たら、

 十中八九あんたらだろ!」


 サジは笑い、カエナは勝手に隣に座る。


「よし、混ぜろ混ぜろ」


「いいの?」


「いいに決まってるだろ」


 気がつけば、三人並んで湖を見ていた。



 しばらく、誰も喋らなかった。


 風の音。

 水の揺れ。

 糸が、水に触れるかすかな音。


 それだけ。


「……なあ」


 サジが、ぽつりと口を開いた。


「こういう日、嫌いじゃねえな」


「うん」


 カエナが頷く。


「何も起きないって、

 実はすごいことだよね」


 メアリーは、少し考えてから言った。


「……前は、

 “何も起きない日”が、怖かったです」


「え?」


「自分が、ここにいていいのか分からなくて」


 湖面が、きらりと揺れた。


「でも今は……」


 メアリーは、糸を見つめたまま続ける。


「何も起きなくても、

 ここにいていいって、思えます」


 サジは照れくさそうに鼻を鳴らした。


「重いこと言うなよ……」


「でも、わかる」


 カエナは素直だった。


「今、変に静かで……悪くない」


 そのとき。


「……あ」


 メアリーの竿が、ぴくりと揺れた。


「せ、先生!」


「引かない。まだ」


「え、でも……」


「今」


 くい、と竿を上げる。


 ぱしゃっ。


 小さな魚が、空を切って跳ねた。


「……!」


 メアリーの目が、まん丸になる。


「と、取れました……!」


「初釣果ね」


「すごいじゃん!」


「やるじゃんメアリー!」


 メアリーは魚を見つめて、少しだけ戸惑った。


「……このあと、どうするんですか?」


「食うに決まってるだろ」


 サジが即答した。


「焼く?」


「煮る?」


 カエナが首をかしげる。


 お魚先生が、にやっと笑った。


「ほかにもあるわよ」


「ほか?」


「刺身、とか」


「……さしみ?」


「寿司、とか」


「……すし?」


「天ぷら、とか」


「て、てん……?」


 メアリーは完全に置いていかれていた。


「……知りません、その言葉」


「だろうね」


 お魚先生は楽しそうだった。


「今日はね、釣りだけじゃなくて――

 知らない世界の話も、いっぱい教えてあげる」


 湖の上を、風が通り抜ける。


 何も起きない日。


 でも確かに、

 メアリーの中で、何かが増えていく日だった。



 魚は、ちゃんと全部、美味しく食べられた。


 それが一番の成果だったかもしれない。




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