なぞえの街から (リニューアル版)
なぞえの街から
なぞえ ― ななめ 斜面
華乃子は、目の前の小さなスペースに置かれた、何冊かのミドル向けの女性誌数冊の中から一冊を手にとった。
その雑誌の何かに興味をひかれた訳ではなく、時間のかかるヘアカラーの間、暇つぶしになるものを探していただけである。
だが気乗りしないままぺージをめくり始めた華乃子は、ふと「港町の坂道の魅力」と書かれたページに目をとめた。そこには、坂のさまざまな角度から写した、有名ないくつかの港町の美しい写真と、その街を紹介した記事があった。
華乃子はそこに、故郷の懐かしい景色を見つけた。
神戸は坂道の街である。
華乃子の目に浮かぶ街並みや風景の中には、必ず坂道がある。
華乃子は記事を読み始めた。
流行の移り変わりが早い土地柄だから、記事で紹介されているカフェやレストランはどれも華乃子の記憶になかった。
だが写真の中の神戸異人館の風景、風見鶏の館やうろこの家は、華乃子の記憶にある姿のままであった。
「市倉さん、ご旅行に行かれるんですか?」
担当の若いスタッフが話しかけてきたので、華乃子は鏡越しに返事した。
「どこかに行けるものなら行きたいけれど、そんな予定はないわ。あなたは何か予定ある?」
「ないです。予定もお金もありません」
あまりにも元気のいい返事だったので、華乃子はつい笑ってしまった。
「その写真は神戸のものですか?いいですね。一度行ってみたいです。市倉さんは神戸に行かれたことがありますか?」
華乃子の見ている記事をのぞき込んで言った。
「私は神戸の出身なの」
「そうなんですか。でも市倉さんの言葉には関西訛りがないですよね」
「そうね、子供達が笑うから、出来るだけ使わないようにしているの」
華乃子は今日、全体的に髪の色を明るく染めてもらうために美容院を訪れた。
まだそれほど多くはないが、白髪が気になるようになってきたからである。
会計を済ませ美容院を出ると、夏もそろそろ終わりだというのに、外はまだまだじっとり暑かった。
華乃子はせっかくシャンプー・ブローしてもらった髪の毛が、早々に汗をかき始めた首筋にくっつくのが嫌で、どこかクーラーのよくきいた店に早く入らなければ、と思った。
あと数日で九月になる。
華乃子は指を折って数え始めたが、すぐ止めた。そんなことをしなくても分かる。
父が亡くなって今年で十五年になるのだ。
華乃子の実家は、御影山手という高台の街にあった。
神戸市には、市の中央を横断するように、いくつもの区に渡って東西へのびている山がある。だから神戸の東西の道はどれも平坦なのだが、それに比べて南北の道は、海から山へと向かう道になるから、そのほとんどが坂道なのであった。
御影山手のある東灘区は、海から山までの直線距離約五キロの範囲に街がある。
まるで山を駆け上がるように家やビルが立ち並んでいるから、夜になるとその立体的な景色が、海から見ても山から見ても美しい街であった。
華乃子も華乃子の父の壮一も、御影山手の家で産まれ育った。曾祖父の代から受け継がれてきた家である。
華乃子の父は、商社へ就職し東京本社への転勤を機に一度は家を出たが、三十歳の年、商売を始めるために突然会社を辞め、東京育ちの妻と産まれたばかりの華乃子を連れて関西へ戻った。
阪急電鉄御影駅近くの店舗を借りた壮一は、自らがヨーロッパで買い付けた衣類や雑貨を売るための店を始めた。
神戸の南北の道のほとんどは山を突き当りにして北側へ道は通じていないから、山のふもとは住民以外の往来がなく閑静な住宅街である。
その静けさを稀有なものとし、神戸では山に近ければ近いほど、交通が不便になるにも関わらず、土地の値段は高くなった。
華乃子の父の店のあった御影駅は、山へ向かって伸びる高級住宅街のちょうど入り口にあたり、住民にとっては最寄りの電車の駅になるのであった。
街まで出るのが億劫な近辺の住民達は、駅の近くにあるその店を重宝してくれた。
品揃えの趣味の良さも手伝って御影店で顧客を順調に増やすことに成功した壮一は、数年で自分の商売を軌道に乗せることに成功し、神戸の観光地である北野町に二店舗目を開店することが出来た。
華乃子は異人館街の端にある北野町のその店がとりわけ好きであった。
北野町店には名物のオルゴールが置いてあった。それはドイツのポリフォン社が十九世紀に作ったオルゴールで、父がドイツのアンティークショップで見つけて購入したものだった。
曲の変更が出来ない小型オルゴールとは違い、二メートルを超える高さのアンティークの柱時計にも似た外観のそのオルゴールは、柱時計の文字盤の位置にある装飾の美しいガラス戸の中に直径二十センチほどの専用のディスクをセットし、コインを入れると、オルゴールミュージックが流れてくるようになっていた。
ディスクは全部で二十枚あり、その曲目のジャンルはさまざまであったが、華乃子はその中では特にフィガロの結婚が好きであった。
父は華乃子にその軽快な音楽は有名なオペラの一つであると言い、内容は家族の揉め事をコミカルに描いたものであるとおしえてくれた。
北野町店では買い物をしてくれたお客さんに専用のコインを渡し、その場で演奏を楽しんでもらっていたが、フィガロの結婚はその中でも何度もリクエストされていた人気曲であった。
華乃子は学校が終わるとよく父の店に遊びに行き、閉店まで執務室で宿題をしながら時間を過ごし、フィガロの結婚がかかると必ず勉強の手を止めてオルゴールの演奏を聞き入った。
御影店が五周年を迎え、北野町店の経営も軌道に乗り始めた頃、華乃子の母に癌が見つかり、治療の甲斐もなく一年後には呆気なく亡くなってしまった。
父の嘆きは、八歳の華乃子が自分の寂しさを父に訴えることが出来なくなるほど深く、祖母はそんな華乃子を哀れに思ったのだろう。少しでも華乃子の寂しさを和らげようと、日々母代わりとなって華乃子を気遣いながら支え、育ててくれた。
人を喪った痛みを少しでもやわらげることが出来るものがあるとしたら、それは時間しかない。
華乃子達にもそれは例外ではなく、時間がようやく華乃子達に心の空虚との折り合いをつけるようになった頃、今度は祖母が突然亡くなってしまった。
華乃子も壮一も、またしても深い悲しみを味わうことになったが、祖母の葬式を終えて数週間経った頃、二人は、既に悲しみと共に生きる術を学んでいることに気付いた。
父娘は互いに慰め合うように寄り添い、二人きりの生活の方法を探しながら、ただ時が自分達の心の傷を癒してくれるのを待った。
華乃子は美容院の後、スーパーに寄ることにした。
汗があっという間にひいていくのを心地よく感じながら、華乃子は店内を見てまわった。
華乃子の家族は、会社員の夫の隆一、大学生の長男一馬、それから中学生の長女美咲の四人である。
一馬が大学生になり、平日に家で四人揃って夕食を食べることは最近では滅多になくなった。だから食料品の買い物はどうしても美咲のための献立が中心になる。
先ほど見た神戸の街なみの景色が、華乃子の心を今でも暖かくしていた。
今年四十五歳になった華乃子は、神戸を離れてもう二十年近くにもなるのか、と物思いにふけった。
「異人館街なんて長いこと行ってへん」
美容院では、関西弁を使わないようにしている、と言った華乃子であったが、最近になって実は関西弁で独り言を言う癖がついていた。
きっかけは、娘の反抗的な態度であった。
美咲は中学に入学した頃から急に難しくなり、今ではほとんど母親と口をきこうとはしなかった。それだけではなく、たまに口を開けば、華乃子をわざと腹立たせようとしているとしか思えない口の利き方をした。
美咲の反抗的な態度の相手をすれば、母娘の口論はいつまでも終わらなくなってしまう。だから華乃子は出来るだけいつも聞き流すようにしていたが、美咲の理不尽な攻撃は、華乃子の心にわだかまりを残し、それは何もしなければただ積もっていくばかりである。そのため華乃子は周囲に誰もいない時、憂さ晴らしに故郷の言葉で独り言を言うようになったのであった。
「あれ、今朝のお姫様は、またご機嫌ななめだったの」
一馬がそう言いながら、部屋から出て来た。
昨夜、華乃子は美容院の後に買い物をして帰り、美咲の好きな食事を用意した。
二人きりで夕食を食べ始めたが、何度注意しても美咲は携帯を覗き込むようにして夕食を食べ、自分が終わると何も言わずさっさと部屋へ戻って行った。
期待していなかったとはいえ、美咲と二人きりなのに何の会話もないままの夕食が華乃子には寂しかった。
隆一は毎日仕事に忙しく、昨夜は終電間近の時間に帰宅して、今朝も七時前には出かけて行った。
一馬は、大学の講義の時間が不規則な上、バイトもあるから毎日忙しくしている。
華乃子は最近の一馬の予定は全く把握していないから、今朝とうに出かけたと思っていた息子が部屋から出て来たのを見て少し驚いたのだった。
「家にいたのね。今日は講義ないの」
華乃子がそう聞くと、一馬はあくびをしながら答えた。
「今日は午後から行けばいいんだ。お母さんの声で目が覚めたよ。今朝のお母さんと美咲の喧嘩の理由はなんなの」
華乃子は少しむっとして答えた。
「失礼ね、喧嘩じゃないわ。喧嘩ってのは対等な立場でするものよ。私と美咲は親子なんだからこれは躾です」
一馬はコーヒーを淹れながらにやにや笑っていた。
「あれ、髪の毛切ったの?」
「そうです。昨日のことですが」
華乃子は少し不愛想に言ったが、気付いてもらえたことが本当は少し嬉しかった。
それでも華乃子は、美咲の先程の態度のせいで心が穏やかではなかった。
今朝華乃子は、美咲が家を出る際に玄関口でお弁当を手渡そうとした。
すると、美咲は華乃子の手からお弁当を捥ぎ取るように取ったのである。
「ありがとうくらい言って、受け取りなさい」
華乃子は怒りを隠しながらも、美咲の態度をたしなめた。すると美咲は明らかにむっとした表情をして、
「じゃあ要らない」
と言って、お弁当を下駄箱の上に荒々しく置いた。
華乃子は、たかがありがとうの一言も言えない娘に情けなくなり、一瞬何と言えばいいのか分らなくなった。すると美咲は、お弁当を置いたまま家を出て行ってしまったのであった。
下駄箱に残されたお弁当を見て、華乃子は腹ただしくてならなかった。
「美味しいもんばっかりいれてあげたのに、アホな子。ええもん、私が全部食べたるねん」
関西にはもともと人や自分のことを冗談にして笑いとばす習慣がある。
華乃子は元来が生真面目な性格のため、自分を笑い話にするのは得意ではなかったが、それでも一人の時に、心の中で自分をからかったり笑ったりする事はあった。
特に今朝のように嫌なことがあった時は、自分で自分を笑うしかなかった。
「行儀の悪い子。親の顔がほんまに見てみたいわ、って私のことか」
そう呟いた時に、一馬が起きてきたのだった。
華乃子は自分を比較的おだやかな性格だと思っているし、それは夫の隆一も認めているところだが、美咲を相手にしている時だけ華乃子は感情的になってしまう。
だから一馬は、娘と喧嘩をする母親だと言ってからかうのだろう。
「お母さん、何か食べるものある?」
一馬がお腹がすいているらしく聞いてきた。
「ハムエッグとトーストでいいならすぐ出来るわよ」
「ありがとう。超特急でお願いします」
華乃子はキッチンに立ち、朝食の支度を始めた。
一馬は隆一によく似ている。
二人は悩みがあったとしてもそれを態度に表すことは滅多になく、自分の中で処理してしまう。たまに落ち込んだような表情を見せる事があったとしても長くは続かず、数日後にはいつもの様子に戻っている。
それに対し美咲は、家族の前で不機嫌であることをいつも全く隠そうとはしなかった。子供の頃から自分の感情を隠すことが苦手な子であったが、中学生になってからは、いつ見てもふてくされているようになった。
美咲に不機嫌の理由を訊ねたところで母親に話してくれるとも思えなかったが、実は華乃子は、美咲の悩みについてはおおよその想像はついていた。
結婚前の華乃子は、隆一と同じ会社で働いていた。
神戸創業のその会社には神戸と東京の二か所に本社があるので、東京採用の営業職の隆一が神戸に転勤になったのは当時珍しくなかった。華乃子と隆一は付き合って二年後に神戸で式を挙げたが、結婚後ほどなく隆一に東京本社への異動辞令が出て、二人は東京へ居を移した。その翌年一馬が産まれたのである。
一馬が五歳の年にはアメリカ赴任の話が出て、家族は揃ってアメリカへ渡った。
だから一馬と美咲は、アメリカで六年間過ごした帰国子女である。
長い海外生活を終えてようやく帰国し東京に落ち着いた家族だったが、その四年後、隆一に再び海外赴任の話が出て、彼はシンガポールへ行かなくてはならなくなった。
最初のアメリカ駐在の時には子供も幼く、いい経験になると思って歓迎した海外生活だったが、子供の教育を考えると今回は不安が多かった。
一馬が十五歳、美咲が十歳になっていた。何よりも三年後には一馬の大学受験を控えている。
隆一は温和な性格だから、子供にとって一番いい方法を、と言ってくれたが、華乃子はなかなか決心がつかなかった。シンガポールへ行く不安も大きいが、家族が離れ離れになる不安の方が大きかったからである。
迷った末に家族全員でシンガポールへと旅立ったが、それは結果的に一馬の進学に大きな障害にはならなかった。
一馬はアメリカで過ごした六年間でバイリンガルになることができて、日本に戻ってからも英語を忘れることはなかった。だからシンガポールでインターナショナルスクールの国際学級に転入後も、それほど戸惑ずにすんだ。
帰国後、一馬は帰国子女枠で大学を受験し、かねてからの志望大学に無事合格したのだった。
それに対して美咲は、シンガポール現地校への転入早々から苦労することになった。
言語がかなり混乱してしまっていたのである。
アメリカから帰国後すぐの美咲は、ほとんど英語でしか会話が出来なかった。
数年間の苦労の末、ようやく学校でからかわれない程度の日本語を話すようになった美咲は、気付いた時には今度は英語をほとんど忘れてしまっていた。
隆一がシンガポールに駐在を命じられたのはちょうどその頃であった。
そのため美咲は、シンガポールの国際学校でまた言葉で苦労することになったのである。三年のシンガポール滞在を経て東京に戻った時、美咲は英語も再び話せるようになっていて、今度こそバイリンガルとなって帰国したのだが、日本の学校の雰囲気にはなかなかなじめないようであった。
文化や流行は流動的なものだから、その場にいなければそれだけ分からなくなってしまう。美咲はクラスの中で苛められているわけではないが、日本にいなかった数年の不在が彼女の中ではコンプレックスとなり、クラスでいつも疎外感を感じるらしかった。
だが華乃子は、美咲が英語を話せることや、海外での経験に彼女自身がプライドを持っていることには気付いている。
美咲は、自分の中の矛盾にうまく折り合いをつけることが出来ず苦しんでいるのであった。そのもどかしさやストレスが、美咲を母親への八つ当たりをする行動へと駆り立てているのだろう、華乃子はそう理解していた。
事実、美咲がそのような態度をとるのは母親に対してだけで、学校で問題を起こすわけではなかった。
兄妹仲はよく、子供の時から兄妹喧嘩をすることが滅多にない二人である。
華乃子は、今の難しい美咲とも変わらず接してくれる一馬に、心の中でいつも感謝していた。喧嘩にならないのは五年の年の差ももちろんあるだろうが、むしろそれは一馬の優しい性格のおかげだろうと思っていた。
一馬の態度が美咲の教育上によくないのではないかと思うことも、実は少なからずあるのだが、華乃子は仲の良い二人を微笑ましく思い何も言わなかった。
美咲もそんな優しい兄が大好きで、学校の悩みも兄には隠さず話せるようだった。
だからそれらの話は、美咲には内緒で華乃子が一馬から聞かせてもらっていることなのであった。
美咲は、父親とも仲が良い。
父親を疎ましく感じる年頃になっているにも関わらず、美咲は週末になると父親に誘われるままに食事や買い物に二人で嬉しそうに出かけていくのであった。
華乃子は、人をくつろがせるのが上手な夫にも感謝していた。
父親や兄と仲の良い美咲は、少なくとも家で孤独を感じることはないだろう。
もう少し時が経てば、きっと美咲は難しい時期を乗り越え、少しずつ大人になっていくに違いない。今は母親の自分だけが美咲のストレス発散の相手になっていればいい、と華乃子は頭では理解していた。
だが、自分と並ぶくらいの背丈になった娘が、母親の自分にだけは滅多に口を開かず、たまに口をきけば、鋭い言葉しか出さないのを聞いていると、華乃子は時に感情的になってしまう自分を止めることが出来なかった。
一馬がいつも笑うのはその直情的な華乃子の姿である。
お母さんらしくない、母娘というよりはまるで姉妹喧嘩みたいだ。一馬は華乃子をそう言ってからかうのであった。
華乃子自身は、母を早くに亡くした上に一人っ子だったから、美咲のように母に八つ当たりをした経験もないし、学校での辛い出来事を兄に相談したり、慰めてもらったこともない。
「優しいお兄ちゃんとお父さんがいて美咲がうらやましいわ。やのに私に八つ当たりばっかりして。これでちゃんと育たんかったら承知せえへんわ」
華乃子は一人そう呟いた。
一馬が大学へ出かけたので華乃子は洗濯や家の掃除を始めたが、忙しくしている間に時間はあっという間に過ぎていった。一段落した華乃子は、紅茶でも飲もうと思いお茶を丁寧に淹れるための準備を始めた。
「そうだ、美咲が食べなかったプリンがあった」
華乃子は昨日買った、全国展開している神戸の老舗のお菓子メーカーのプリンが冷蔵庫にあることを急に思い出した。
昨夜は、にこりともしない美咲と二人きりで気づまりな夕食を終え、美容院の帰りに買ったプリンをデザートに勧めた。
「そんな太るものいらない」
だが美咲はそれだけ言うと自分の部屋へ行ってしまったのだ。
「いけず(意地悪)言う子には、もうプリンはあげへん」
華乃子はそう一人つぶやくと、冷蔵庫からプリンを出した。
華乃子の父は、酒も甘いものも両方大好きな人であった。
この神戸のお菓子メーカーのチーズケーキとプリンは有名で、とりわけ父と華乃子のお気に入りはベークドチーズケーキだったが、一馬は幼い頃このプリンが大好きだった。昨日はスーパーで久しぶりにそのプリンを見つけ、懐かしくなりつい買ってしまったのだった。
華乃子はプリンを口に運びながら、幼い一馬を連れて実家を訪れた日のことを思い出していた。
華乃子の父は、結婚して翌年に産まれた初孫一馬の誕生をとても喜んだ。
「一馬の顔をしばらく見いひんと、元気がなくなる」
そう言って二、三か月に一度は東京へ訪れて華乃子を呆れさせていたが、一馬が二歳の誕生日を迎えた頃から父の足は少しずつ遠のいていった。
ある年、華乃子は母と祖母のお盆参りのために三歳の一馬を連れて神戸へ向かった。
新幹線で新大阪まで行き、大阪から阪急線に乗り換えて御影駅で電車を降りると、華乃子は大阪駅で買ったベークドチーズケーキとプリンを手に持ち、一馬の手を引きながら暑い中をゆっくりと歩いた。
「暑いね、かずくん。せっかくのプリンがぬるくなるね」
華乃子はそう言いながらも、一馬の歩調に合わせてゆったり坂道を上った。
駅から十五分ほどの距離だが、三歳児と一緒なので思ったよりも時間がかかる。
タクシーに乗ればよかった、と華乃子は後悔していた。
一馬を連れて帰省することは、父に伝えてあった。
いつものように父が駅まで迎えに来てくれるのだろうと思っていた華乃子は、御影駅に父がいないのを知ると、行き違いにならないようにタクシーは使わないことに決めた。そうして一馬の手を引いて、ゆっくりと坂道を上りだしたのだが、結局父の姿は最後まで見つからなかった。
「ただいまぁ」
家に着いた華乃子は、玄関口で声を掛けた。
華乃子は、ドアを開けた瞬間に自分の言葉が関西訛りに戻っていることに気付きおかしかった。
「おかえりなさい」
関西訛りのない声が玄関口で聞こえたので見ると、そこには四十歳くらいの女性が立っていた。華乃子はそれが誰なのか分からず、ぼんやりと女性の姿を眺めていた。
すると奥から父が出てきて言った。
「華乃子、よう帰って来たな。一馬、大きぃなったなぁ。暑かったやろ、アイスクリーム買ってあるから、あがって食べや」
「おじいちゃんっ」
一馬は乱暴に靴を脱ぐと嬉しそうな顔で抱きついた。
「一馬、重くなってきたなぁ」
父はそう言うと一馬を抱きあげた。
「お父さん、腰に気をつけて」
とっさに華乃子はそう言ったが、目は女性から離すことが出来なかった。
父は華乃子のその様子を見ると言った。
「紹介するわ、郁美さんや。半年前から一緒に住んでんねん」
華乃子は、茫然としたまま応接間に入りソファに腰掛けた。
応接間に行ったのは、何となくいつものようにキッチンに入るのをためらってしまったからであった。郁美という名の女性が家の中にいることで、実家が自分の家ではないように感じる。華乃子は、つい自ら客間に行ってしまってからそのことに腹をたてた。
一馬はいつものようにキッチンに入り、勝手に冷凍庫を開けて好きなアイスクリームを取りだすと、応接間に来て華乃子の隣に座った。華乃子は、違和感を感じずキッチンを好きに行き来している一馬を少し羨ましく感じた。
父は華乃子の前に座ると言った。
「郁美さんとはなぁ、スーパーで買い物してて知り合ってん。僕がな、重たいものが持たれへんで困ってたら、配達出来ますよって教えてくれはってな」
父は、華乃子と子供の頃からよく買い物に行っていた大手スーパーの御影店の名前を言った。
「私はそこのスーパーで働いているんです。でもその日はたまたまお休みで、買い物していたので」
「そうですか、それは父を助けていただいてありがとうございます」
華乃子は、自分の言葉に棘がないように注意をしながらそう返答した。
「それで、迷惑かもしれへんけどお礼にちょっとお茶でも、と言うて誘うてな」
「お父さんってそんなこと出来る人やったんや。知らんかったわぁ」
父のその言葉に、華乃子は無理に笑顔を作って言った。
華乃子は、不機嫌な自分を取り繕おうとして軽い口調をよそおってみたのだが、あまり上手にできているとは自分でも思えなかった。
華乃子の父親は、その華乃子の様子には気付かなかったのか、気付かぬふりをしているのか、照れ臭そうに笑うばかりであった。
母が亡くなってから、いつかこの日が来るのではないかと覚悟はしていた。
華乃子はこの気持ちは何であろうか、と考えていた。
父親と私の間に割り込んできた女性に対する嫉妬なのだろうか。それとも私と父の家に、私とそれほど年の変わらないような女性が住んでいることへの不快感なのだろうか。
その夜はぎこちないままに、みんなで郁美の作った食事を食べた。
夕食後に華乃子が一馬と庭で花火をしていると、隆一から電話がかかって来た。
隆一の声を聞いた瞬間、華乃子は我慢ができなくなった。
父に一馬を任せて家に入ると、苛立った口調で華乃子は郁美の話をした。
「へえ、お義父さんもやるなぁ」
隆一は驚いていたが、終始明るい調子で言い華乃子の言葉に同調する様子はなかった。
「一体二人とも何を考えているのかしら。しかもあの人、図々しく家にまで入り込むなんて」
「華乃子にしては珍しいな、そんな言い方をするなんて」
「だって私達の、私とお父さんの家なのよ。お父さんったら私に一言も聞かないで勝手なことをして」
「華乃子、違うよ。そこはお父さんの家だ。華乃子の家はここだよ」
隆一にそう言われて華乃子ははっとした。
「感情というものは誰にとっても簡単にはコントロールは出来ないものだけれどね。一週間しかないせっかくの里帰りの時間を後悔することのないようにね」
そう華乃子をたしなめる、だが隆一の口調は優しかった。
「ありがとう。頑張ってみるわ」
父親に話を聞かれないように、華乃子は庭に面した応接間を抜けた先のキッチンの隅に立っていたのだが、電話を切り振り返ってびっくりした。
郁美がそこに立っていたのだった。
「ごめんなさい、聞くつもりはなかったの。壮一さんと一馬くんに冷たい飲み物でも持って行こうかと思ったものだから」
郁美は冷蔵庫から麦茶を出すと、言葉を続けた。
「あの、何と言えばいいのか分からないし、私が言うことではないと思うのだけど、私、華乃子さんが気分を悪くするのは分かるわ」
華乃子は返答に困った。
「壮一さんと私は二十歳以上も年が違うし、まるで私がお金目当てで家に上がり込んだみたいに見えても仕方ないと思うの」
「私、そこまでは考えてないわ」
「今は思ってなくても、いずれ考えると思うの。だってそう見えるのは仕方ないのだもの。ねぇ、二人に麦茶を持って行ってくるから少し待っていてくださる?嫌でなければ、私は少し華乃子さんとお話がしたいわ」
郁美はキッチンを出て行った。
華乃子は、不用意に自分の本音を聞かれてしまった、と恥ずかしくてならなかった。
「壮一さん、花火が済んだら一馬くんと一緒にお風呂に入るって言っていたわ」
郁美がそう言ったので華乃子はうなずいた。
「さて、私たちは何を飲みましょうか。お茶にしますか?それともビールか、ワインにする?」
華乃子は少し迷ったが、ふと意地悪な気持ちになった。
「じゃあ、白ワインいただこうかしら。セミヨンあるかしら?」
「あるわ、オーストラリアのニューサウスウエールズ産」
「あら、いいのがあるのね」
華乃子は意外に思った。
郁美に対して、あなたは父にふさわしくない、と匂わせるつもりで挑戦的にワインの種類を言ってみたのだが、郁美の返答には戸惑いがなかった。
酒好きの父が教えたのであろうか。華乃子は自分の心が痛んでいることに気付いた。
郁美はグラスにワインを手慣れた様子で注ぐと華乃子に手渡した。
二人は自然に乾杯したが、一体何への乾杯なのか、と華乃子は皮肉な気持ちになった。
「郁美さんは東京の方ですよね?」
「そう、横浜の出身だけど、結婚して十年前に大阪に来たの。でも関西弁はいつまでも話せなくて」
「そうですか。でも無理して話す必要はないと思うわ。関西弁のアクセントは独特でそんな簡単に真似できるものではないの」
郁美は少し微笑んで言った。
「そうね」
綺麗な人だ、と華乃子は思った。
全体的に小づくりな造作の顔で目立つ派手さはないのだが、それが逆に整った美しい印象を人に与えている。年は四十歳前後だろうか。
「小野田郁美、三十九歳の独身です。よろしくお願いします」
郁美が突然言ったので華乃子は驚いた。
「いきなり、何。びっくりしたわ」
「ふふ、自己紹介した方がいいかしらと思って。だって華乃子さん、私のこと気になるでしょう?」
「それはもちろんそうだけど・・・。じゃあ、そこまで言ってくださるなら少し聞いてもいいかしら。どうして今は独身でいらっしゃるの?」
「離婚したのよ。元夫は大阪の泉佐野にある和菓子屋の一人息子だったの。私達は彼が東京で大学生だった時に知り合ったのだけど、私は彼より七歳も年上だったから、彼の両親に結婚はすごく反対されてね。でも結局私たちは、勝手に二人で決めて結婚してしまったの。それなのに結婚した途端、私たちは上手くいかなくなっちゃって」
「どうして、って聞いてもいいですか」
「いいわよ。彼の実家の和菓子屋は大きい店でもないし、彼も和菓子屋を継ぐ気はなかったから、最初彼は普通の会社に就職したの。でも上司とうまくいかないからって会社を突然辞めてしまって。結局、実家に帰って家業を継ぐって言いだしたの。けれども、実家にもどって彼の両親と同居し始めてからは、私たち毎日喧嘩ばかり。私は和菓子のことも商売についても何も知らないし、彼も気の弱い人だったから両親との板挟みになってしまったのね」
華乃子は郁美の話を聞きながら、ワインを口にふくんだ。
「私もその当時は自分のことしか考えることが出来なくて、夫を責めてばかりいたわ。夫も行き場がなくなったのかもしれない。店の若い店員の女の子と浮気していたらしいのだけど、結局その子が妊娠してしまって。それで彼とはもうおしまい」
「郁美さんにはお子さんはいらっしゃらなかったんですか?」
「残念ながらね。私は子供が欲しかったのだけど、五年の結婚生活でとうとう妊娠しなかった」
「そうですか、でもそれはひどいわ。いくら相手の女性が妊娠したからって。
でも郁美さんはその後どうして関西に残ったんですか?そんな嫌な思いをしたのに」
私ならば嫌な思い出の街には留まらないだろう、華乃子はそう思った。
「両親は私が子供の頃に離婚して、私は母に育てられたのだけど、その母もだいぶ前に亡くなってしまっていたから、私には横浜に戻る理由はなかったの。だから何となくそのまま大阪に残ってしまって」
華乃子は郁美と話をしながら、彼女に好意を持ち始めている自分に気付いていた。
正直な、嫌みなところのない人だと思う。
「父のどこが好きなんですか?本当にお金目当てではないと証明できますか」
郁美は驚いた顔をしたが、華乃子の気持ちを理解したらしかった。
「出来るわ」
「どうやって証明するんですか」
「まず、私達は二人とも再婚する気はないから、今後も籍を入れる予定はないわ。それに私は妊娠しないから、私達の間に子供が出来る心配はないし」
「そんなの分からないじゃない」
「でも私の結婚生活がそれを証明しているでしょう。夫は店の女の子を妊娠させることが出来たけど、私には子供は出来なかった。それに私はもう今年で四十歳よ」
郁美の顔は寂しそうであった。
「嫌な話をするようで申し訳ないけど、もし壮一さんに何かあったら私はここから身の回りのものだけを持ってすぐ出て行くわ。何も欲しがらないと約束する」
華乃子は郁美を信じてもいいかもしれない、と思い始めていたが、わざと少し意地悪い質問をしてみることにした。
「それって証明になるのかしら。いざそうなった時にあなたの気持ちが変わらないなんてどうして分かるの」
郁美はしばらく考えてから言った。
「その通りね。確かにそうだわ。私は自分がそうすることを知っている、というだけで、それでは証明にはならないわね」
郁美は笑っていた。
「それじゃだめじゃない」
華乃子もそう言って笑った。
郁美はしばらくためらっていたが、ワインを一口飲んでから華乃子の眼を見て静かな口調で言った。
「ねぇ、これは信じるかしら?私、本当に壮一さんが好きなの。お父さんのことをこんな風に私が言ったら娘の華乃子さんは嫌がるかしら」
華乃子は何と言えばいいのか分からなかった。
純粋に父を好きだと言う郁美の言葉を信じたかったが、これほど年の差がある男性を好きになどなれるものだろうか。
「壮一さんは私を救ってくれたの。私はただもうしばらくの間、彼の側にいたい。華乃子さん、それを許してくださる?」
華乃子は狼狽しながら言った。
「私が許すとか許さないじゃないと思うわ。あなたも父も大人なんだし、二人で決めることだし。でも悪いけど、まだ私も気持ちの整理がついてないわ。少し考えさせてちょうだい」
「もちろんよ。今日は驚かせてしまってごめんなさいね」
郁美はそれでも嬉しそうであった。
「おかあさん、じいじとお風呂に入ったよ。僕、じいじのお背中流したんだ」
一馬が嬉しそうに華乃子のもとへ走って来た。
「そう、おりこうさんだったわね」
華乃子は、一馬がいてよかったと思った。一馬がいなければ、華乃子はきっと御影山手に着いてすぐ不愉快なことを口にしてしまっていただろう。
その夜、華乃子は二階の客間にひいてある布団に横になったが、なかなか寝付けそうもなかった。一馬の寝顔を見ている内に少しまどろんだような気もしたが、はっと目が覚めて時計を見るとまだ十二時だった。
喉が渇いた華乃子は、キッチンへ水を飲みに降りて行った。
キッチンの明かりが廊下に漏れている。
華乃子がそっと覗くと、父が一人で水割りを飲んでいた。
「お父さん、こんな時間まで飲んでるの」
「お、いかん。見つかってしもた。郁美が健康に気をつけろって、うるそう言うてあんまり飲ませてくれへんから、彼女が寝静まるのを待ってこっそり降りてきたんや」
「そんなん、あかんやん。お父さん」
華乃子はあきれた。
「薄い水割りをたった二杯や。そのくらいはええやろ」
父はそう言って嬉しそうにグラスを口に運んだ。
「お前も、どないや」
「そやね、お相伴させてもらおか。せやけど水割りは嫌やわ。私はさっきのワインの残り飲もうかな」
華乃子はそう言って自分でグラスにワインを注いだ。
「ええワインやね」
「そやろ、郁美が買うてきてん」
「彼女、ワイン詳しいの」
「まぁまぁ詳しいかな。食料品、酒類、特にワイン、なんでも全般的に詳しいなってきたよ。スーパーに勤めてるし、まぁよう勉強しよる」
「郁美さんと、いつ知り合ったん?」
「さぁ、三、四年前になるかなぁ。郁美がスーパーに勤めだした頃から、僕はレジにいる彼女に気付いとったけど、話するようになったんはここ一年くらいや」
「そんなに長い間、郁美さんのこと知ってたん。お父さん、なんも言わへんから」
「別に華乃子に言わなあかんような関係も何もなかったからな。ただ僕が郁美に憧れて勝手に見とっただけや」
「綺麗な人やもんな。せやけどお父さん、なんかそれ、いやらしいわ」
華乃子は少し眉をひそめて言った。
「僕もまだ男やったってことや」
華乃子の眼を見ずに父は言った。
父には男性ではなく、父親というだけの存在であって欲しい。娘とはそういうものだろう。華乃子は話題を変えようとした。
「郁美さんはなんで横浜に帰らんとこっちにいてはったん?」
父は華乃子にすぐ返事せず、しばらく考えていたが、
「違うねん、ほんまは」
華乃子は、何が違うの、と言って父の言葉を待った。
「さっき郁美から離婚の理由を聞いたんやろ」
華乃子はうなずいた。
「ほんまはな、郁美は別れたくなかったんや。頼りない旦那やったみたいやけど、ほんまに好きやったんやなぁ。郁美は彼をすぐには忘れることができんで、それで関西を離れられへんかってん」
「浮気するようなひどい人やのに?」
「人を好きになるんは理屈やないやろ。
あのなぁ、郁美の働いてるスーパーでは前の旦那さんの会社の和菓子を売ってるねん。神戸のこのスーパーのチェーン店にしか卸してないらしいわ」
華乃子は少し驚いた。
「和菓子の入荷に彼が付き添ってくるわけでもないし、だから会えるわけでもないねんで。ただなんとなく離れがたかったんやろ。東京方面にはその和菓子は出荷してへんみたいやしな」
「そんな、いつまでも想っていても仕方ないのに」
「ほんまにそうや。本人もよう分かってたみたいやけど、どうしようもなかったらしいわなぁ。横浜に帰ったかて家族が待ってるわけでもないし。最初は気持ちが癒えるまでしばらく関西にいようと思っただけらしいねん」
父から聞いた郁美の話は悲しかった。
郁美は両親が離婚して母親に育てられたと言ったが、実際は男にだらしのない郁美の母が、どの男が父親か分からないままに産んだのが郁美だったらしい。だから郁美は私生児であった。
アルコールとそのだらしない性格が原因で、さまざまな問題を起こし続けた郁美の母が、酔ってビルの非常階段から落ちて亡くなった時、郁美は初めて呪縛から解かれたように感じた、と父に語ったそうだ。
郁美は母親のせいで昼の仕事に就くことが出来ず、夜の仕事を転々としていたそうだが、母の死後ようやく夜の仕事から足を洗うことができてクリーニング屋のパートの職に就いた。そこで、バイトで働いていた当時大学生の元夫と知り合ったらしい。
二人が結婚し、そして離婚した経緯は華乃子に語った通りであった。離婚後、横浜に帰る決心もつかないまま神戸に住みついた郁美は、ある日スーパーで、元夫の会社が作る和菓子を見つけた。少しでも彼に繋がる何かの側にいたかった彼女は、呼ばれるようにそのスーパーのレジ係のパート職に応募して働き始めたらしかった。
だが、最初彼の店の和菓子を見て気持ちを慰めていた郁美の気持ちは、次第に和菓子が二人の仲を引き裂いたという思いに変わっていった。
もう今度こそ店を辞めて関西を離れようと決心したある日、五、六歳くらいの女の子が郁美の働くスーパーに来た。その女の子は郁美のいるレジで、元夫の会社の和菓子パッケージを出したが、お金が三十円だけ足りなかった。
レジに入っている時、郁美は財布を持っていない。女の子に十五分待つように言って、郁美は休憩時間を利用して和菓子を買って女の子に渡してやった。
この和菓子が好きなの、と郁美が聞くと、入院しているお祖母ちゃんが起きてくれない、と女の子は言った。その話から推測すると、どうやらその子の祖母は危篤状態にあるらしい。女の子は、もしかするとお祖母ちゃんの好きだったお饅頭を持っていけば起きてくれるかもしれないと思って買いに来た、と悲しそうに言ったのだそうだ。
郁美は、母親が運ばれた病院の病室で一人付き添いながら、昏睡状態の母の呼吸が早くとまればいいのに、とずっと考えていたその時の自分をふいに思いだした。
この女の子のように病人に何かしてあげようと思えなかった自分は、何て心の貧しい人間だったのだろうと、郁美はその時初めて思った。
自分は母親のせいで苦労して成長し、結婚も失敗するような人間になってしまったと思っていたが、本当に自分に非はなかったのだろうか。
どんな状況でも親の死を願う娘に非がなかったはずはないだろう。
郁美は、自分自身が変わらなければ私の人生はこれからもきっと何も変わらないだろう、ようやくそう気付いたのだと父に語ったらしかった。
郁美はスーパーで働くうちに、食料品や菓子類が、ただ人間が生きていくためだけの栄養物として存在するのではなく、人を幸せな気持ちにさせることが出来るものである、と興味を持つようになった。
今度こそ元夫への気持ちに決別して自分の道を歩こうと決心した郁美は、泉佐野市の彼の和菓子屋を訪れた。もちろん店に入るつもりなどなく、離れたところから店を眺め自分の気持ちに決着をつけたらすぐ帰るつもりだったらしい。
だが郁美はそこで彼の母親に見つかってしまった。郁美は、警察にストーカー容疑をかけられたのであった。
和菓子屋にはたまたまこの半年間に渡って嫌がらせの手紙が届いていたから、家族はそれを郁美の書いたものだとずっと思い込んでいたらしかった。
「ぼくなぁ、郁美の身元引受人になってあげてん」
「お父さん、なんでそこまで。確かに話を聞くと可哀そうだとは思うけれど、ほんまに嫌がらせの手紙は郁美さんやなかったん?」
「違うやろ。郁美はそんなまどろっこしいことせえへん。おおかた、元旦那の新しい浮気相手かなんかやろ」
「その人また浮気してはんのん」
「らしいで」
華乃子は父と郁美はなぜそれを知っているのだろうと思ったが、それ以上は聞かなかった。
「郁美なぁ、お母さんに似てるやろう?」
華乃子は、そうであろうか、と思った。母親の顔は華乃子の記憶にはあまり残っていない。だが写真で見る母はもっと美しかったような気がする。
「郁美は今、一生懸命変わろうとしてるねん。スーパー勤めながら、食料品やら酒類、いろいろよう勉強してるで。もうすぐ、入荷の仕事も一部任せてもらえるかもしれん、て言うてるねん」
華乃子はそれに対しては何も言わずワインを飲んだ。
予定通り神戸に一週間滞在したのち、華乃子は東京へ戻った。
その後も華乃子は、やっぱり父親には郁美と別れるように話をしたほうがいいのではないか、と思ったり、いや大人の二人の決めたことだから私が口出しはすべきではない、と思ったりもして、さまざまな気持ちの狭間で悩み続けた。
だがある日、思いがけない事が起こった。
父が電話をしてきて、郁美が妊娠していると言ったのだった。
華乃子は驚いた。郁美は妊娠が出来ないのではなかったのか、話が違うではないか、と慌てふためき華乃子は一馬を連れてすぐ神戸へ向かった。
御影駅から一馬を急がせて歩いて実家へ着いた時、父は家にいなかった。
駅へ華乃子たちを迎えに出て行き違いになったらしかった。
玄関で迎えてくれた郁美の姿を見て華乃子は驚いた。
郁美は既に妊娠八か月には入っているかと思うほど大きいお腹をしていたのである。父親から連絡があった時、華乃子はてっきり郁美が妊娠初期だと思い込んでいたのだった。茫然としている華乃子を見ると郁美は言った。
「ごめんなさい。騙す気はなかったの」
「郁美さんはどっちの嘘について謝っているのかしら。子供が出来ないと言ったこと?それとも、こんなに大きいお腹になるまで黙っていたことかしら?」
「後の方よ。私も妊娠した自分に驚いているの」
華乃子は、怒りを隠せなかった。
「それでこれからどうするつもりなの?その子の父親は本当に私の父なんですか」
「誓って言うわ。他の人の子どもじゃない」
「どうやって信じればいいの?あなたは嘘ばっかり」
「そんなに嘘をついた覚えはないけれど、何のことかしら」
「父から聞いたわよ。あなたのお母さまの話も、ストーカー容疑も何もかも」
郁美の顔がさっと蒼ざめた。
「子供を持つ気がない、と言ったのも嘘。結婚する気がないと言ったのも嘘なんでしょう?」
「結婚する気がないのは本当よ。私生児として届けるつもり。華乃子さんや壮一さんに迷惑はかけないわ」
「父も同じことを言っているのかしら?」
「壮一さんは籍を入れようと言ってくれてる」
「でしょうね。父はそういう人だもの」
「でも私にはそのつもりはないのよ。私は最近気付いたの。私の不幸は、私生児で育ったことじゃなかったって。母親に愛されなかったから私は不幸だったの。
この子は私が愛して愛し抜いて育てるわ。私生児でも父親がいてもいなくても、そんなことは問題じゃない。人に迷惑かけないでちゃんと私が一人で育ててみせる」
「それも嘘かもしれないし、気が分かるかもしれないわ」
「私の生い立ちや家族について嘘をついたことは悪かったわ。
でもね華乃子さん、あなたはお母さまを幼い時に亡くして可哀そうな子供だったかもしれないけれど、こんな素晴らしいお家で、優しいお父様に何不自由なく育てられたでしょう。生い立ちのせいで人から欲しくもない同情をもらったり、そうでなければ憎しまれる人の気持ちなんてあなたに想像出来る?それだけならまだいいわ。
私は母のせいで、悪い人につけこまれないように、いつでも自分を嘘で固めなければ今まで生きてくることが出来なかった。そんな人生についてあなたは考えてみたことがあるかしら?」
華乃子は何も言えなかった。
一馬が二人の様子を見て泣き出してしまった。
「華乃子さん、どうか信じて。私にはこの子しかいないの。もし華乃子さんがどうしても許してくれないのなら、私はすぐこの家を出て行くわ」
「父は何て言っているの?」
子供が産まれることをとても喜んでくれている、と郁美はそう言った。
「あぁ、行き違いになってしもたんやなぁ」
にぎやかな声を上げて父親が戻った。
玄関口で立ったまま声をあげて泣いている一馬を見て、父は不思議そうな顔をした。
「どないしたんや、一馬」
一馬は泣くばかりで何も言わなかった。
「ちょっと悪さをしたから、叱っただけや。なんでもあれへん」
華乃子はいつになく強い口調で言った。
「こわいお母さんやなぁ。こっちにおいで一馬。冷蔵庫にプリンあるから食べるか?チーズケーキもあるで」
父は機嫌よく言うと、一馬の手を引いて家に入ってしまった。
実家に数日滞在したのち、華乃子は結局父と郁美には何も言わないまま神戸を後にした。
実家で郁美と話をして華乃子は初めて、慌てて神戸に駆け付けた自分の真意が、郁美に中絶を勧めることであったのを理解したのだった。
中絶には遅すぎる郁美の身体を見て取り乱した自分は、何と冷酷な人間なのだろうか、と華乃子はぞっとした。
父も郁美も、華乃子がそのように考えることを知っていたからこそ、今まで華乃子に妊娠を伝えようとはしなかったのであろう。
二人にとって私はそんな存在なのか、華乃子は困惑していた。
それから一か月程経ったある夜、父から電話があった。郁美が予定日よりも早くに破水して、今しがた分娩室に入ったという連絡であった。
華乃子は、離れた東京から何も出来ないのにそわそわしていた。
それほど気になるなら神戸に行けばいいじゃないか、と隆一に言われて華乃子は初めて自分がそうしたかったのだ、と気付いた。
その隆一の言葉に甘えることにし、華乃子は明日の朝には出発できるよう早速荷造りを始めた。
郁美に会ったら、先日の自分の無礼を詫びよう。
私は突然のことに取り乱していたのだ。あれは父の赤ちゃんを産んでくれる人に対する態度ではなかった。まず、申し訳なかったと最初に謝ろう。
華乃子は荷物を詰めながら、喜びをおさえることが出来なかった。
赤ちゃんは誰に似ているだろうか。早く赤ちゃんに会いたい。
だが翌日の明け方近く、電話が鳴った。
父からの電話と知ると華乃子は興奮して言った。
「産まれたの?男の子なの?女の子なの?」
少しでも早く赤ちゃんを見たいから、あと数時間で家を出てそちらに向かう、そう言った華乃子に父が何か言った。
「聞こえないわ、お父さん。どうしたの?泣いているの?」
赤ちゃんが産まれたのがよほど嬉しいのだろうか。
そう私だって嬉しい。華乃子が自分の気持ちを伝えようとした瞬間に父が言った。
「郁美が、郁美が死んでしもうた」
神戸の自宅に戻った華乃子は、父の姿を見て言葉がでなかった。
長い陣痛に耐え、無事女の子の赤ちゃんを産み落とした郁美は、喜びの表情を父に見せた後すぐ意識を失った。産後の出血が止まらず、すぐ医師が子宮摘出の手術を施したが、それから数時間後に手当の甲斐なく郁美は亡くなってしまったとのことであった。
以前から白髪交じりになっていた父の髪は、もしかすると昨日一日で全ての色を失ってしまったのかもしれなかった。
真っ白な髪で茫然と郁美の遺体の側で座る父は、以前よりもずっと老けて見えた。
「お父さん」
華乃子が声を掛けると、父はぼんやりと華乃子を見た。
「華乃子か、遠くからわざわざ悪いなあ」
「こんな時に何を言うてんのん」
華乃子は父の隣に座った。
「一馬はどこや」
「東京においてきてん。お義母さんが来て見てくれてはんねん」
「そうか、それは悪いことしたなぁ」
父はまたしても謝った。
「赤ちゃんはどこやのん」
「隣の部屋や。小宮さんの奥さんが見てくれてはんねん」
小宮さんは左隣に住む老夫婦であった。
「後で顔を見せてもらうわ。お父さん、大丈夫やの」
「大丈夫、と言いたいとこやけど、大丈夫やないわなぁ」
父は、居間に引いた布団に寝かされている郁美の姿から目線を動かさないままぼそりと言った。
「なんで皆、僕をおいて逝ってしまうんやろうなぁ」
そう力なくつぶやく父の頬には何度も涙が流れた後があって、その顔は腫れあがっていた。華乃子は父にかける言葉も思いつかないまま、郁美の遺体の前に座ると線香に火をつけた。
線香の匂いが、祭壇に飾ってある花の匂いとともに華乃子に記憶の奥底にあるさまざまな悲しさを呼び起こさせた。
母を見送った時、祖母を見送った時。
それは華乃子の大事な人がいなくなってしまう匂いであった。
「この匂いや」
華乃子がぽそりと言うと、父はだいぶ時間が経ってから呟くように言った。
「何がや」
「大事な人がいなくなってしまう匂いやなって思ったんや。これは大事な人を連れ去って、人の生活を突然変えてしまう、理不尽の香りなんや」
父は何も言わなかった。
華乃子はその場をそっと離れると、赤ちゃんのいる隣の部屋へと行った。
小宮さんの奥さんは、生まれたての赤ちゃんを抱いてミルクをあげていることろであった。
「どうもすみません」
そう声をかけると、小宮さんは目線だけ上げて華乃子を見た。
「あぁ、華乃ちゃん、久しぶりやな。この度は大変なことになったなぁ」
華乃子は小宮さんの隣に座った。
「本当にすみません。私が代わります」
「まぁええわ。終わりまで私があげてしまうわ。赤ちゃんにミルクあげるのなんて久しぶりでなつかしいし」
小宮さんは華乃子に、まずはお茶でも飲んでゆっくりすればいい、と言った。
華乃子は日本茶を淹れ小宮さんにも勧めてから赤ちゃんの顔を覗き込んだ。
小宮さんは華乃子に赤ちゃんの顔が見えるように少しだけ向きを変えてくれた。
「見てみぃ。可愛らしい子や。お父さんそっくりやな」
だがその後小宮さんは小さくため息をついた。
「こんな小さい子を抱えて、これからお父さんどないしはるつもりなんやろ」
「分かりません。まだそんな話は何もしてないし」
「どないしたらええんやろうねぇ」
小宮さんは呟くように言うと、ミルクを終えた赤ちゃんを縦抱きにして空気を出させるため背中をぽんぽんと叩いた。けぷり、と可愛い音をたて赤ちゃんがげっぷをした。
「抱かさせてもろてええですか?」
小宮さんは、にこりと笑って言った。
「もちろんや。この子はあんたの妹やんか」
通夜に訪れてくれた人は少なかった。
父も最後の店舗を数年前に閉店してからは知り合いも少なく、人付き合いもあまりないまま郁美と二人でひっそりと暮らしていたらしい。
郁美の勤め先であったスーパーは入れ替わりの多い職場で、郁美には友人と呼べるほど親しい人はあまりいなかったようであった。
近所の人達が数人訪ねてくれただけで、父にはその他に知らせる相手も思いつかない様子で、ただ茫然と郁美の隣に座っていた。
通夜の後の食事なども動転している父が思いつくはずもなく、小宮さんが気をきかせて寿司の出前を取ってくれていたが、それは手つかずのまま居間に置かれていていた。
郁美は小宮さんに食事をするようにすすめたが、ここ数日体調が悪く臥せっている夫の世話があるから家に戻る、そう言った小宮さんに華乃子は寿司を持って帰って食べてくれるように頼んで手渡した。
遠慮がちに小宮さんは、帰る間際に玄関口で華乃子にささやいた。
「大きなお世話かもしれへんけど、あの産まれた子、これからどないしはんの」
「どうするんでしょう」
華乃子は困惑した顔でそう言うしかなかった。
「お父さん一人で育てるんは無理やと思うで」
小宮さんは難しい顔を作って言った。
華乃子はかすかにうなずいた。
「華乃ちゃんも東京に住んでるんやし、助けてあげることも出来へんやろ。養子縁組って方法もあるんやで。そうしたら子供のない若い夫婦が、赤ちゃんを大事に育ててくれはるわ。赤ちゃんのためにもそれが一番やと思うわ」
小宮さんは小声でそう言ったのだが、トイレにでも行く途中に廊下で聞き耳をたてていたのだろうか。居間で郁美の遺体の隣にいると思っていた父が、にわかに廊下から顔を出すと大きな音をたてて歩いて来た。
「この子は誰にもあげん。誰にもあげへん」
自分の言葉に自分で興奮してしまったのか、華乃子の父は興奮した様子で何度も同じ言葉を繰り返した。
「この子は誰にもやらん。孤児院などとんでもない」
父の剣幕に驚いたのか、小宮さんは慌てて言った。
「孤児院なんて言うてへん。この子の幸せを一番に考えたほうがええ、って言ってただけやよ」
そう言って挨拶もそこそこに逃げるように帰って行った。
父は全身を震わせながら言った。
「自分の子を人にあげるやつがどの世界におんねん」
そして突然声をあげて泣き始めた。
「郁美ぃ。なんで死んだんや」
そう言いながら居間へと足元をふらつかせ戻って行った。
華乃子は玄関口で赤ちゃんを抱いたまま、その父の姿をぼんやりと見ていた。
「なんで、なんで逝ってしもたんや」
居間で、遺体の郁美にそう話しかけている父の声が聞こえた。
華乃子は先ほどから驚いていたのである。
これほどの深い嘆きの中にある父を、華乃子は今まで一度も見たことがなかった。
母が亡くなった時、父はこれほどまでに感情をむき出しにしていたであろうか。華乃子は母の葬式の頃を思い出そうとしたが、いくら考えても華乃子の記憶に今の父のような姿はなかった。
年老いた父は、自分の感情を隠せなくなってしまっているのであろうか。
それともただ悲しみが深すぎるのか。
初めて見る父の姿に華乃子は動揺を隠せなかった。
華乃子は居間で久しぶりに父と二人きりになった。
父の希望で、郁美は棺桶ではなく布団の上に寝かされている。
華乃子は布を取り、苦しみもなく静かな眠りについているかのような郁美の顔を見た。
だが、あれほど欲しかった自分の赤ちゃんを置いて死んでしまうとは、郁美はどれだけ心残りであったろうか。
華乃子は線香を手に取ると、火をつけて香炉に置くとそっと手を合わせた。
東京に置いてきた一人息子の一馬の顔が眼にちらつく。今どうしているだろう。
母親がいないと言って泣いて義母を困らせてはいないだろうか。
女は、子供を産んだ日から自分の心の強さを試すような日々を送るようになる。
子供が怪我をすれば自分が怪我をした時よりも痛みを感じるし、子供が熱を出せば心配で夜も眠れなくなる。母親というものは自分の子供への心配や不安と毎日戦い、責任の重さに震えながら子供を育てていくのだ。
だからこそ母親は、子供の誕生とともに有り余るほどの愛情を、母となったその身体に授けられるのではないのだろうか。
その愛情を持ったまま、赤ちゃんに別れを告げなければならなかった郁美は、どれだけ心残りであっただろうか。なんと人間とは儚く、日常はもろいのだろう。
華乃子の胸は激しく痛んだ。
赤ちゃんは華乃子の腕の中ですやすやと眠っていた。
父は、自分の子供を他人にあげる親はいないと言ったのにもかからず、近くにいる赤ちゃんには見向きもせず、郁美の側でぐずぐずと泣きながら、ウイスキーの水割りを飲み続けているだけであった。
夜中に何回も授乳しなくてはならない赤ちゃんの世話が出来るようにはとても見えなかった。
華乃子は、東京に戻る前にやはり父と一度今後について話し合わなければ、と思った。
「お父さん、飲み過ぎたらあかんよ。体に悪いよ。少し寝たら?昨日の夜も寝てはらへんのでしょ」
華乃子は、今夜は赤ちゃんと一緒に自分が線香の寝ずの番をしようと思った。
父は華乃子の声がまるで聞こえなかったかのように、水割りをすするように飲んでいたが、しばらくするとぽつりと言った。
「かまへん。今夜くらい郁美の側におりたいねん。どうせ明日にはいなくなってしまう身体や。今日くらい一緒におらせてくれ」
そう言って華乃子を見た父の目は、薄く濁って見えた。
「華乃子は、部屋で赤ちゃんと一緒に寝てやってくれるか。父さんは、これからどうするのが一番ええのか郁美とゆっくりと話し合うつもりやねん」
華乃子は、郁美がまるで生きているかのように話す父の口調に一瞬ぞっとしたが、それ以上は何も言えなかった。
「そうか、それなら私はそうさせてもらうわ」
華乃子は父を慰める言葉も思いつかないまま赤ちゃんを抱いて居間を出たが、間をおかず父の嗚咽が背後に聞こえた。
華乃子は二階にあるかつての自分の部屋へ赤ちゃんを連れて上がった。ベッドは赤ちゃんと添い寝するには狭すぎるから、客用の布団を床に敷いて赤ちゃんの隣に横たわった。赤ちゃんからは、新生児特有の甘い匂いがした。
華乃子は、赤ちゃんを愛おしいと思える自分が不思議であった。
この子を養子にだしてしまえば、自分はどれだけ寂しいだろう。
祖母が亡くなって以来、華乃子は長年父と二人きりでこの大きな家で暮らしたが、寂しい生活の中で、せめて自分に姉妹がいれば、と何度思っただろうか。
華乃子は赤ちゃんの頬をそっとおさえて呟いた。
「今更にできてしもうた妹やけどな」
赤ちゃんが安心して眠っている様子はとりわけ愛らしかった。
それにしても今日は疲れた、いろいろなことがあった長い一日であったと、赤ちゃんの顔を見ながら華乃子は思った。
父にお線香を一晩絶やさずにいることが出来るだろうか、あとで様子を見に行こう、そう思っていたのに華乃子は知らぬ間に眠ってしまっていたらしい。
新生児特有の柔らかい泣き声で夜中に目を覚ました時、近所の猫の泣き声だと思った。華乃子はぼんやりとした頭で、薄暗い部屋を見渡した。
「そうか、お腹がすいたんやね」
新生児の泣き声など、長い間聞いていない。
昨夜電気ポットと水を枕元に置いて寝たので、華乃子は布団の上に座ると早速粉ミルクを哺乳瓶に入れ、適温にするために湯と水を調整しながら混ぜた。
赤ちゃんはお腹がすいていたのか、ミルクを懸命に飲んだ。
哺乳瓶が空になると華乃子は赤ちゃんを縦抱きにして、げっぷが出るまでしばらく薄暗がりの中でぼんやりとしていた。
時計を見ると明け方の四時であった。寝る前にミルクをあげたから三時間ほど寝ていたらしい。華乃子は父の様子を見に行こう、と思った。
自分の部屋を出て廊下を歩くと空気が冷たかった。九月の気温にしてはずいぶん涼しいい。郁美の遺体がおかれた応接室から、かすかなクーラーのモーター音が聞こえていた。昨夜は気付かなかったが、部屋の温度を下げるためにクーラーが強めにつけられていたのだろう。
居間のふすまは開いていて、華乃子が覗くとそこに父の姿はなかった。
テーブルには、先ほどまで父が飲んでいた水割りのグラスとウイスキーが置かれていたが、氷は随分前に溶けたらしくグラスに水滴はなかった。
線香の匂いが柔らかかった。
最後の線香が燃え尽きてからしばらく時間が経っているのだろう。
「もう、お父さんやっぱりお線香を絶やしてしもたんや」
独り言をつぶやいて部屋を見渡した時、華乃子は自分の心臓が顎まで跳ね上がったか、と思うほどに驚いた。
郁美が、布団から首をもたげるようにして華乃子を見ていたからである。
先程まで郁美の顔に掛けられていたはずの白い布も、そこになかった。
華乃子は今まで感じたことがないほどの恐怖を感じた。
赤ちゃんがけぷっと、とげっぷをした。
華乃子は赤ちゃんを縦抱きに抱いたまま、おそるおそる居間へ足を踏み入れた。
よく見ると、父は郁美の遺体を寝かせてある布団にもぐりこんで眠っていた。
華乃子は、お父さん何てことをと思ったが、小さい声で「お父さん」と声を掛けた。
父の返事はなかった。
華乃子はもう一度、今度は先程よりも少しだけ大きい声で言った。
「お父さん、そんなところで寝たらあかんわ。郁美さんがびっくりしてはるで。
お父さん、さっきは一晩中起きてるって約束したのに酔って寝てしもたん」
震える声で言った。
華乃子は、遺体となった郁美の隣にもぐりこまなければならかったほどに、深い悲しみを感じている父を思いやりながら少しだけおどけた調子で言った。
子供の頃に何か悲しいことがあるたび、父は少しおどけた調子で華乃子を慰めてくれていたことを急に思い出したからであった。
華乃子は父に近付き、側に座って布団を覗き込んだ。
父は布団の中で郁美の首の下に腕枕をするように自分の腕を差し込み、自分の顔を郁美の顔に寄せて寝ていた。
郁美の遺体の首はすでに硬直してしまっているから、その腕枕の形には沿うことができず、父の腕が郁美の身体全体を斜めに押し上げてしまっていたのであった。
それが華乃子から見ると、郁美が布団から身体を起こしているように見えたのである。遠目に見た時には開いているように見えた郁美の目は、近くで見るとちゃんと閉じていた。華乃子の錯覚であった。
少しだけ安心した華乃子はだが次の瞬間、父の異常な様子に気が付いた。
父は寝息一つたてていなかった。
華乃子は大きい声をあげた。
「お父さん、お父さん?」
華乃子は赤ちゃんをそっと客用の座布団の上に置くと、父親の身体を揺すった。
父の身体は冷たかった。
華乃子は肩を揺すり続けた。少しずつ声が大きくなっていくのが自分でも分かった。
「お父さんっ」
赤ちゃんが泣き始めた。華乃子は赤ちゃんをあやすこともせずに父親の身体を揺すり続けた。
華乃子は急に立ち上がると、居間を後ずさりして出た。
その間も赤ちゃんは泣き続けていたが、動転していた華乃子にその泣き声は聞こえなかった。華乃子は慌てて携帯を探して救急車を呼んだ。
華乃子にとってその後の数日間は、悪い夢の中にでもいるようだった。
救急車が駆け付けて応急処置をしようとしたが、父は既に手遅れであった。
郁美に添い寝をするように身体を寄せていた父は、遺体のドライアイスで二酸化炭素中毒を起こしたらしかった。
酒の酔いもあって、部屋の寒さにも二酸化炭素中毒の初期症状にも気づかなかったのであろう、という医師からの説明であった。
華乃子は後悔した。
どうして私はあの夜、父を一人きりになどしてしまったのだろう。
あれほどまでに茫然自失になっていた父を一人きりにしていいはずはなかったのに。
もっと気を付けるべきだった。父を殺したのは自分だ、と華乃子は自分を責め続けた。
自宅で亡くなったために父の遺体はいったん警察に運ばれたが、事件性は認められない、として二日後には自宅に戻ってきた。
夫の隆一が一馬を連れて東京からすぐ駆けつけてくれた。華乃子は夫の顔をみると泣き崩れた。隆一は華乃子を抱きしめ、「仕方なかったんだ。自分を責めるな」と何度も言った。
「ママ、どうして泣いているの。大丈夫なの」
一馬はおろおろとしながら、華乃子の脚に縋り付いた。
「私が、お父さんを一人にさえしなければ」
一馬を心配させてはならないと思いつつも、華乃子はどうしても泣き止むことが出来なかった。
郁美の葬儀を終えた翌日、今度は父の通夜をしなくてはならなくなった。
父の葬儀を済ませて初七日も終えた時、華乃子はもう涙も枯れて出てこないほど泣き疲れていた。
静まり返った御影の家の居間で、華乃子は一人で茫然としていた。
隆一は、一馬と一緒に寝ると言って一時間程前に寝室へ行った。
華乃子は哺乳瓶を洗ったりして夜中のミルクの準備を済ませると、自分の部屋へ赤ちゃんを連れて戻った。
華乃子の気持ちはもう既に決まっていた。この子は私が育てよう。
父や郁美に対する同情ではなかった。華乃子自身が自分の妹である赤ちゃんを手放すことを考えられなくなっていたのである。
知らぬ間に少し眠っていたらしい。
たった数日で赤ちゃんはすでに成長の兆しを見せ、空腹を訴えて力強く泣き始めた。
華乃子は、聞きなれた音が階下から聞こえたような気がして、あれと思った。
哺乳瓶に粉ミルクを入れて温度を調節してから赤ちゃんの口にくわえさせると、華乃子は赤ちゃんを抱いたまま廊下へ出た。
華乃子は耳をすませて、やっぱりと思った。
応接間からオルゴールの音が聞こえているのであった。曲はフィガロの結婚だ。
昨夜、オルゴールの音を聴いてみたいと言っていた隆一が鳴らしているのだろうか。
それにしても何もこんな夜中にオルゴールを鳴らさなくても、と華乃子は少し腹を立てた。一馬が起きるといけない。赤ちゃんを抱いたまま華乃子は慌てて廊下を早足で歩いた。
だが華乃子が応接間のドアに手をかけた時、オルゴールの音はぴたりと止んだ。
華乃子は不審に思い、「隆一さん?」と言ってから応接間のドアを開けた。
部屋の中には誰にもいなかった。
華乃子はオルゴールを見てぞっとした。
オルゴールの中にディスクは何も入っていなかったのである。
華乃子はしばらく茫然とその場に立ちすくんでいたが、「お父さん?」と小さな声で言った。父親が鳴らしたのではないか、と思ったからである。
だが返事が返ってくるはずもなかった。
「そこにいるの?こんなことして驚かせんといて」
華乃子は震える声で言った。
オルゴールを鳴らせたのはきっと父だ。華乃子は確信していた。
だから私たちが大好きだったフィガロの結婚が鳴ったのだろう。
華乃子は怖くて身体の震えを止めることは出来なかったが、父と郁美に聞かせるようにゆっくりと言った。
「二人とも心配せんでもええわ。この子は私がちゃんと育ててあげる」
華乃子は赤ちゃんを抱きしめた。
翌朝隆一は起きて来ると、華乃子に不思議そうな顔で聞いた。
「どうして夜中にオルゴールを鳴らしたの?お父さんを想って寂しくなった?」
華乃子はやはり隆一にもオルゴールの音は聞こえたのか、と思ったが「そうなの。夜中にごめんなさい」と嘘をついた。
父親の想いを、華乃子はただの怖い話の一つにしたくなかったのであった。
隆一が東京へ先に戻る前、華乃子は赤ちゃんを引き取りたいと思っている、と自分の決意を夫に伝えた。
すると隆一は、「そう言うと思ったよ。僕はいいよ」と言って笑顔を見せた。
それから華乃子は、東京へ戻ってすぐ赤ちゃんを連れて隆一の両親に会いに行った。
この子を育てることをどうか許してください、と言って頭を下げる華乃子に義父母は反対しなかった。身寄りの少ない華乃子が、自分の妹にあたる赤ちゃんを人手に渡すことなど出来ないだろう、と最初から予測していていたようであった。
義母は、覚悟してちゃんと育てあげなさいとそれだけを華乃子に言った。
それはちょうど隆一がアメリカへの異動の話をほのめかされていた頃であった。華乃子は隆一と相談して、周囲の人達には美咲がアメリカで産まれたことにして、華乃子の父親の子供であることは隠し通そうと決めた。
そうして華乃子と隆一は細心の注意を払いつつ、本人にも事実を伏せたままで美咲を一馬の妹として今まで育ててきたのであった。
だが華乃子は、一馬の考えていることだけはよく分からなかった。
問い質したこともなかったが、当時五歳だった一馬は事実をどのくらい覚えているだろう。母親にある日突然、「あなたの妹よ、可愛がってね」と言われた記憶を不自然に思っているのだろうか。
華乃子と美咲の口論が姉妹喧嘩みたい、と言って華乃子を笑う一馬は、母親をからかっている振りをしているだけで、僕は本当のことを知ってるよ、と実は言いたいのかもしれなかった。だがこれからも華乃子は一馬にそれを聞く気はなかった。
このままでいいのだ。真実を知ったところで何も変わらない。
私達は家族だ、ということだけが事実なのだ。美咲と過ごした十五年間が私達を本当の家族にした、と華乃子は信じていた。
父の大きなオルゴールは、御影山手の家を売る時に手放した。
華乃子は父の葬儀の後、家を売る為の準備や細々とした家の片づけなどで神戸に滞在して夜を何度も過ごしたが、オルゴールは、二度とあの夜のような音を鳴らさなかった。
「美咲は、私がちゃんと育てるよ」
オルゴールを専門に扱うアンティークショップに引き取ってもらう前夜、華乃子はオルゴールに向って再びそう言った。
その後そのオルゴールは、元町に新しく出来たホテルのロビーに飾ってある、と聞いている。
一度美咲を連れて、お父さんと郁美さんのお墓参りの帰りにでもそのホテルに寄ってみようか、華乃子はそう思った。
がちゃん、と玄関の音がした。
美咲が学校から帰ってきたのだろう。
華乃子は玄関口を覗いた。
「ただいまくらい言ってちょうだい」
返事は期待していなかったが声をかけた。
美咲はやはり何も言わずキッチンへ来ると、戸棚からお菓子をいくつか取り出し、それを持って自分の部屋へ行った。
華乃子は肩を少しすくめた。
「さて、と。今日のお夕食は何にしましょうか」
声を出してそう言った後、小さくつぶやいた。
「行儀の悪い子や。ほんま親の顔が見てみたいわ」
華乃子は夕食の準備を始めるためにキッチンへ入って行った。