輪廻転生 ~300年の時を超えて~
「輪廻転生」 ~三百年の時を超えて~
一、最初の誕生
慶長十九年の冬の陣、翌二十年の夏の陣。世に言う『大阪の役』を経て豊臣氏は滅亡した。これ以降、徳川家を盟主と仰ぐ徳川幕藩体制が磐石なものとなった。その後は、キリシタン一揆による反乱である島原の乱という内戦があったものの、幕末の動乱期に至るまで日本は天下泰平を謳歌することになるのであった。
私は、讃岐高松藩の馬廻り役を勤める沼田藤三郎直重とゆきえの間に、明暦四年の三月に第二女として生まれた。名前は「ゆい」と付けられた。私が生まれる前年の明暦三年の一月には、江戸城の天守閣をはじめ多数の大名屋敷や市街地の大半を焼失した明暦の大火、いわゆる『振袖火事』が起こっていた。後々起こった江戸の大火事の中でも最大規模の火事であった。この大火事が契機となり、家屋の建替え需要により材木価格が高騰し、その煽りを受けて諸物価が一挙に値上がりした年であった。
讃岐国は、関が原の戦い以降、生駒家の所領となっていたが、四代・高俊時代の寛永十七年にお家騒動(生駒騒動)により改易された。その二年後の寛永十九年、東讃地域に常陸下館藩より水戸徳川家初代藩主・徳川頼房の長男・頼重が十二万石で入封し、実質的に高松藩として成立した。頼重は入封にあたり、幕府より西国諸藩の動静を監察する役目を与えられたという。頼重が水戸徳川家の長男であるにも拘らず徳川家ではなく松平家を興したのには理由があった。頼房は、兄である尾張藩主・徳川義直、紀州藩主・徳川頼宣に先立って男子をもうけたことを憚って、長子・頼重ではなく第三子・光圀を水戸藩主に立てたことによる。このため光圀は、長兄の松平頼重を思い、後嗣を頼重の子である綱条に譲り、自身の長子である頼常を高松藩主の養子に据えた。こうして両家は、幕末まで家どうしの縁の深い関係を築いてゆき、藩士達の間でも水戸徳川家との養子縁組が再々行われるのであった。
私の家族は、兄が二人、姉が一人の四人兄妹であり、私が末っ子であった。私が生まれた頃の家禄は五十石程度であったが、そんなに貧しい暮らしぶりではなかった。物心がついた頃には、一人ひとりに箱膳が与えられ、白米と数品のおかずを食べていた記憶がある。決して一汁一菜のような粗末な食事ではなかったことは確かである。着るものは姉のお下がりがほとんどだったが、たまには新しい着物を母が縫ってくれたりと、こちらも恥ずかしい思いはしたことがない。父は、厳格で勤勉・実直な男だった。これといって武芸に秀でているわけでもなく、藩政に参画してゆくほどの才覚も無いようだったが、兎に角真面目にお城勤めをしていたようである。その功績(?)をもって晩年には、馬廻りの番頭にまで登用され、百五十石を頂戴するという上士の端くれになるまで出世した人だった。母は、肝っ玉かあさん風であった。父が“底抜け紙袋”とあだ名をつけたように、ちまちまと貯えるようなことは考えず、出入りの商人から思い切りよく品物を買っていたようである。まさに穴が開いた紙袋のようにお金が貯まることはなく、羽振りよく使っていたようである。でも、父の働きのおかげもあるのだろうが、母は何不自由なく生活を楽しんでいた。また、父の上役に対しては、盆・暮れを始めとした時候の挨拶を欠かしたことがなく「気遣いのできるよくできたお内儀だ」と藩内でも評判の奥方だった。
私は小さい頃、手習いをするために近くの徳成寺というお寺に通っていた。本当は、兄達のように四書五経をはじめとした学問をしたかったのだが、父は「おなごに学問は不要じゃ!手習いだけで十分である。後は母の手伝いをし、いろいろと教わるがよかろう」と言って学問をすることを許してはくれなかった。私は、二つ年長の次兄とともに徳成寺に通っていたのだが、兄の幼馴染の信二郎様もご一緒だった。手習いが終わった後などは、よく三人で遊んだものだ。漁師町まで走って行った時なんぞは、兄の方ではなく信二郎様が、私が遅れていないか後ろを振り返って心配してくださり、曲がり角の辻ごとに道に迷わないように待っていてくれたりした。やっとの思いで海に出ると、真っ白い砂浜が続き、大小の島々が浮かび、漁師の船や商人の船等が西から東へ、北から南へまたその逆向きにとたくさんの船が白い帆を張って行き交っている。この瀬戸の海は、いったいどこまで続いているのだろう、海の果てまで行き着けば何処に辿り着くのだろう。そこには今まで見たことのないどのような珍しい物があるのだろうと胸を膨らませて海を眺めるのが大好きだった。私が女ではなく男に生まれてきていたのなら、この海を渡って京の都や江戸の町並みを見てみたいと思わずにはいられなかった。兄も信二郎様も同じ思いでこの海を見ていた。「いつか学問を積んで、藩のお役に就いて江戸に出てみたいものじゃ。世の中は広いものじゃ、讃岐におっただけでは見聞できるものが限られておる」と二人とも目を輝かせて穏やかな玉藻の海を見つめていた。
二、お城勤め
延宝元年四月、私は十五の娘盛りになっていた。父の勧めもあってお城に上がることとなり、まずはお勝手回りの仕事の見習いとなった。水汲みに食器類の洗い物、お野菜を洗ったり皮を剥いたりと雑用が私の仕事だった。まさに肉体労働であり、毎日が疲れ果てていた。この年の二月、先代のお殿様がご隠居なされ、ご養子であった頼常様が弱冠二十一歳にして新しく高松藩主になられたのである。頼常様は、水戸徳川家のご当主、徳川光圀公のご嫡男であったが、故あって伯父君に当たる高松藩主の頼重様のご世子となられたのである。いつかは私がお料理を作って差し上げ、若いお殿様に召し上がっていただきたいと思っている。そのためにも今の仕事を頑張って認められ、早くお料理番にならなければと気を引き締めた。
この年の秋、半年の見習い生活がやっと終わりを告げ、お料理番に就くことができた。お料理番とは言え、いきなりお料理を作らせてもらえる訳ではない。私に最初に与えられたお役は、上役が考えた三食のお献立表を複数枚書き写し、お料理番をはじめ、お勝手回りの係りの方に配る仕事であった。幼少の頃より徳成寺に通って手習いをしていたおかげで、字を書くことは何も苦にならなかったというか、寧ろ腕には少々の自信があった。この仕事は楽しかったし「今度のお献立表を書く方は手馴れた文字を書き、読みやすくて綺麗な文字だ」と好評であり、少し胸を張る私であった。私としては、お献立表をただ単に書き写す毎日ではなく、お殿様に召し上がっていただきたい食材を厳選し、それに色々と手を加えながら見た目にも美味しそうなお料理を自らが考えたいと思っている。そのため、暇を見つけてはお勝手回りを見てまわり、この食材はこんな下ごしらえをするのだとか、このお料理はあんな隠し味を施してあるのだと見聞を広める努力を欠かさなかった。はしたないことだけれども、誰も見ていない隙にちょっとだけつまみ食いをして味加減を体験することも忘れなかった。それもこれも早くお料理番になって、献立まで考える立場になりたかったがためである。ところが、私の日々の努力はその成果をみることなく、私が予想だにしなかった意外な才能を認められるという方向に進むのであった。ある日の午後、上役のお志津様から用向きがある故、部屋に来るようにと言われた。
「ゆい殿、お手前はお料理番になりたいそうじゃの?日々お勝手回りをうろついては、料理の作り方や味付けなんぞを熱心に学んでおると聞いておる。そんなにお料理番になりたいか?」
「はい、なりとう存じます。お料理番として腕を揮い、お殿様に私が作ったお料理を召し上がっていただきとうございます」
「そうか。その心構えはあっぱれである。がしかし、そなたの才能はお料理ではなく、もっと優れた物を持っておるように思う」
「滅相もございません。私なんぞが取り立てて挙げれる才能などございません。どなたかと人違いをなされているのではございませんでしょうか」
「人違いなんぞではない。そなたが毎日、三度三度書いておるあのお献立表じゃ。あの字の美しいことよ。いったい何処で誰に習うたものか?」
「幼少の頃より兄とともに徳成寺に通っておりました。そこの住持様の手ほどきを受けてまいりました」
「さようか、ほんにそなたの書は良い字じゃ。そなたの書いたお献立表がご重職方の目に留まったようでの。皆様方が声を揃えて『良い字を書いておる』とおっしゃられて『是非、殿のご祐筆に推挙いたそう』ということになったのじゃ。どうじゃ、お殿様のお側近くにお勤めして、ご祐筆係りを受けてはくれまいか?」
「もったいないお話でございます。私のような者でよろしければ、お殿様のお役に立ちとうございます。そのお役目謹んでお引き受けいたしとうございます」
「そうか、引き受けてくれるか。ありがたいことじゃ。早速、ご重職方にご報告せねばなるまい。私の肩の荷も下りたというものじゃ。そなたに断られでもしたらどうしようかと悩んでおったのじゃ。じゃが、お役目に当たって一つだけ言い聞かせておきたいことがある。ご祐筆のお役目は、時には藩にとって重要な文を書く場合もある。他人には口外無用の機密事項もあるやも知れぬ。これまでのように他のおなご共と世間話なぞしておったのではいけませぬ。言葉の端々から秘密が漏れるようなことがあってはならぬ。その辺の気遣いと身の処し方を十分心得ておくように。頼みましたぞ」
「心得ました。ご期待に副えるよう、お勤めに励みまする」
こうして私は、いきなり御殿(正式には披雲閣と呼ばれていた)の表舞台へと飛び出していったのである。この頃、時を同じくして次兄の幼馴染の信二郎様が、お城勤めを始められたように聞き及んだ。お父上様がご病気で四十半ばにして急逝され、十八歳になったばかりの信二郎様が綾田家の家督を継がれたのである。綾田家は、御徒組で二十石程度の家禄をもらう下級武士であったため、暮らしぶりは結構大変なようであった。お母上と二人の弟妹を抱え、懸命に働かざるを得なかった。お城でのお勤めは、日常は何やら雑用をされているようで、これといったお役があるようでもなかったが、お殿様が外出される時なんぞは、お行列の先頭に立って警護の任に当たれているようであった。
三、初恋
子供の頃は無邪気なものだから「ゆいは、大きくなったら信二郎様のお嫁さんになる」などと大きな声で言っていたのを記憶しているが、信二郎様が我が家に足をお運びになることはあっても、ここ何年も直接お話をしたこともなく、軽く会釈を交わす程度の関係になっていた。でも、心の内には信二郎様への思いが常にあることを自覚しており、幼い時に言っていた言葉を決して忘れた訳ではなかった。でき得れば信二郎様と夫婦になって、あの方をお支えし、苦楽を共にいたしたいと願っている私がいた。けれども今は、ご祐筆という重要なお役目を担っていることから、そのようなことを考えるのは不謹慎と思い、取り敢えず頭の片隅にしまっておくことにした。
私がしたためた書状の中でも取り分け難儀したのが、お城の普請を幕府に願い出るために、お口添えをお願いしようと井伊家のご当主、掃部頭直澄様への書状であった。お城の普請は、先代の頼重様のご治世から大規模な改修工事を続けており、四年前には三層五階の天守を改修し、二年前には御殿を三の丸に移築したのと同時に、防衛上の理由で北の丸と東の丸を増設した。この度は、北の丸と東の丸の通路状の曲輪に隅櫓として月見櫓を新たに建てるのとともに、将来的には海城特有の水手御門を増築しようとのお考えである。井伊家のお殿様は、幕府のご大老職を勤められており、その権力の絶大なることこの上ない徳川将軍様に次ぐ偉いお方である。我が高松藩は水戸徳川家のご連枝であるため、江戸城中にあっては『溜りの間詰』の厚遇を受けていた。もちろん、譜代大名筆頭の井伊様も同じ部屋であった。このことから、先代様の時より井伊家のお殿様には何かとお気遣いをいただき、便宜を図っていただいてきた。こうしたご縁があってこそ、度重なるお城普請について、幕府のお許しを願い出るうえで、井伊様に格別のご高配を賜ろうと、お殿様自らが書状をしたためることと相成ったのである。お殿様の書状は、日頃のご厚誼を感謝申し上げることから始まり、先代頼重候より連綿と続く家どうしのご縁に触れ、数年来度重なるお城の普請については、西国諸藩の動静を監察する役目を与えられた高松藩が職務を全うせんがためのものであり、いざ戦という時には水軍をも率いて戦場に馳せ参じる覚悟である旨等を滔々と語られたものであった。長い内容の書状となったが、お殿様の思いが込められた力強いご依頼の書状ができあがった。私も精魂を込めてこの書状をしたためさせていただき、無事重要なお勤めを果たすことができ、心の底から湧き出る安堵感とその後に眠気を誘うような疲れを感じた。
この働きかけが効を奏したのか、お城普請の願い出がすんなりと裁可され、幕府からのお許しを得ることができた。これをもって、先代様から引き継がれた城郭の大改修工事を無事進めることができるようになり、高松城は天下一の海城として、その威容を西国諸藩の大名達に知らしめることになるのである。
毎年恒例のことであるが、城内の『桜の馬場』において高松藩の軍事調練がお殿様の御前で行われる。足軽組みを先頭に長槍組、弓組、鉄砲組、御徒組と続き、最後に勇壮な騎馬武者が整然と隊列を成す。指揮官の号令と陣太鼓の音に合わせて、様々な陣形を整え、雄たけびとともに軍団が一気に前進したり、後退したりを繰り返している。私どもおなごの役目は、城中総出で炊き出しを行い、兵達にお昼を振舞うのである。私が握り飯を配っている時、懐かしいお顔を群衆の中に見い出した。りっぱな若武者になられた信二郎様であった。このような折に不躾とは分かっていたが、声をかけずにはいられなかった。
「信二郎様、お久しゅうございます。ゆいにございます。立派におなりになられ、見まがうばかりでございました」
「おお、ゆい殿か、久しいのお。お元気でお過ごしか?お城勤めをされておるとは聞いておったが、このような場所で会うとは奇遇ですのお。お勤めは、お料理番をなされておるのか?」
「いえ、ご祐筆係りを仰せつかっておりまする。なかなか気苦労の多いお勤めにござります。私のような者が勤まるかどうか不安でございます」
「さようか、ご祐筆をのお。それは重要なお役目に就いておいでになる。お殿様のお側近くで気遣いも多かろうが、しっかりと励まれよ。わしは、御徒組で働いておる。平素は、雑用ばかりであるが、殿が城外に出られるときには警護という本来のお役目を仰せつかっておる。また、ゆい殿と一度ゆっくりと話をしたいものじゃが、なかなかご実家に帰る便も無いことであろうのお」
「月の内に二回ほどお休みを頂戴しておりますゆえ、その時は実家に帰っております。私も信二郎様ともっともっとお話をいたしとうございます。是非、お時間がありますれば、我が家へお立ち寄りいただければ幸いに存じます」
「あい分かった。兄上とはちょくちょくお会いしておるゆえ、次回ゆい殿がご実家に帰られる日を聴きだしておきましょう。遊びに寄らせていただきます」
「嬉しゅうございます。楽しみにしてお待ち申し上げております」
こうして信二郎様との交際が始まった。交際と言っても、実家の座敷でお互いのお城勤めの愚痴やら失敗談やら他愛もないことを一時余りもお喋りするのが常であった。でも、私にとっては、このひと時がかけがえのない至福のものとなり、信二郎様へのおなごとしての思いが、次第に恋心に変わってゆく自分に気が付くようになっていった。子供の頃、兄と信二郎様と三人で浜辺で遊んだ帰り道に「ゆいは、大きくなったら信二郎様のお嫁さんになる」などと言っていたことがはっきりと思い出され、今では願望となってそうなることを望んでいる自分がいた。
それからは、お互いの家を行き来したり、城内でお見かけして心をときめかせたりしながらあっという間に二年の年が過ぎ去ってしまった。そんなある日のこと、信二郎様のご自宅に遊びに行ってお話をしていたところ、急に信二郎様が襟を正されて、私を見つめた。「ゆい殿、今日は大事な話がある。聞いてくださるか?」
「なんでございましょう?」
「実は、かねてより思い悩んでおったのだが、そなたを拙者の嫁に貰い受けたいと思っておる。もちろん、そなたの気持ち次第じゃが、いかがかのう」
「嬉しゅうございます。私も幼き頃より信二郎様をお慕い申しておりました。いつかこのような日が参るのではないかと心待ちにしておりました。私の気持ちは、子供の頃から何も変わってはおりませぬ。あなた様の妻になるのが夢でございました」
「さようか。そのように言っていただけるとありがたい。早速、拙者の伯父上に仲人になっていただき、ゆい殿のご両親にご挨拶申し上げたいと存ずる。そなたが二つ返事でこの話を即座に受けてもらえるとは夢にも思わなんだ。何だか小躍りしたくなるような晴れがましくも嬉しいことだ。かたじけない」
「何をおっしゃります。私の方こそ、よくぞ私のような者を嫁に選んでいただきましたことを感謝しております。まことにありがたく存じます」
この後、数日経ってから信二郎様の伯父上が我が家を訪ねて来られた。私はといえば、ちょうどお城に上がっていたため、その場に居合わせてはいなかった。後から思えばそれが残念でならない。私が居れば話の展開が少しは変わっていたかも知れないと思うと悔やんでも悔やみきれない。
父は、信二郎様の伯父上からの申出を聞き、にべもなくその話を断ったのだ。理由はと言えば、
「馬廻りの番頭である沼田の家と御徒組の綾田の家では、余りにも家格が不釣合いである。まして未だ二十歳やそこらの若造に娘を託すわけにはまいらぬ。幸せな暮らしなぞ送れるはずもない。今後、ゆいに信二郎殿が近づくことを許さぬ」
と言い放った。信二郎様の伯父上も言われるままになってはいなかった。
「家格の違いを申されるが、沼田の家も元々は五十石程度の家禄ではなかったか。それをお主が上役のご機嫌を取り、媚びへつらって出世しただけのことではないか。そのように言うのであれば、こちらから願い下げじゃ、この話は聞かなかったことにしてもらいたい。失礼いたす」
といった剣幕で立ち去ってしまったようである。後から家に帰った折、こんな遣り取りがあったことを母から聞いた。父に直談判して信二郎様の下に行かせて貰えないかと頼み込んだが、同じような理由を聞かされ
「断じて嫁にはやらぬ。お前には、わしが佳き夫を探してやる。わしがこれはと思う男を選ぶゆえ、そこへ嫁ぐのがおなごの幸せというものじゃ」
と取り付く島もなかった。私はどんなに悲嘆に暮れたことか。楽しかった二年余りの信二郎様との会話やいつも優しげな眼差しで私を見つめてくださった信二郎様のお顔が走馬灯のように頭の中を駆け巡った。最後に「あのような男とは、二度と逢ってはならぬ」と父から厳しく言われた時には、止め処もなく涙が溢れ出た。どうして父は、私達の気持ちを汲んではくれないのか、何故家格の違いなんぞにそれ程拘る必要があるのか、といった反問ばかりが次から次へと出てきて、父の言いつけに従う気がしなかった。
それから数日後、思い切って信二郎様の家を訪ねた。でも、信二郎様は、
「このような所は、ゆい殿がくるべき所ではない。お父上からお聞きになったのではござらんか。拙者も少し有頂天になり過ぎておったようじゃ。歴然とした家格の違いをつい失念しておった。ゆい殿には、わしなんぞよりもっと相応しい御仁が家中においでになる。どうか幸せになられることを心から祈っておる。さあ、早く帰られよ」
と言って、玄関先で追い返そうとする。
「私は、信二郎様を心からお慕い申しております。父に反対されたくらいで諦めるのは嫌でございます」
「我儘を申されるな。お父上が裁断されたことじゃ。従わざるを得ん」
「私は、どうすれば良いのでしょうか。信二郎様以外の方の下へ嫁ぐなぞ考えたこともございません。生きていても詮無いことにございます。いっそ死んでしまった方がましでございます」
「無理を申されますな。死んで何になりましょうや。生きていてこそ喜びや悲しみがあり、四季折々の風情が楽しめるというものです。どうか生きて幸せをお掴みなされよ。拙者は、ゆい殿の幸せな姿を見てこそ喜びを感じられるというものじゃ」
「もう逢ってはいただけないのですね。私達をこのような形で引き裂いた父を恨みます。私は例え他の御方に嫁いだとしても、生涯信二郎様のことは決して忘れませぬ。どうか信二郎様こそ佳き奥方を娶ってお幸せにおなり下さいませ」
こうして私の初恋は終わりを告げた。父の強引な考え方の下で、無理やりに引き裂かれた恋であった。幸せになれるかどうかは分からないが、生きてゆこうと心に誓った。このまま死んでしまっては、父に負けてしまったように思えるし、信二郎様にもご迷惑がかかるかと心配し、命の限り生きてゆく道を選ぶことにした。
四、死に枕
あれから一年後、十九も半ばになった頃、私は父の勧めで同じ馬廻り組の佐々木総一郎様とお見合い(お見合いといってもろくに顔も見ていないのだが・・・)をし、両家の親同士が決めた縁組であったので、あっさりと夫婦になった。夫は無口で真面目にお勤めをする男であったが、私には何のときめきも感動も与えてはくれなかった。そんな中にあっても、男の子を続けざまに二人産み、少し間を置いてから娘を産んだ。佐々木家の跡取り息子を産んで、義父からも「ようやった」と褒められ、義母も子育てをしている間は本当に家事の切り盛りをよくしていただいた。佳きところへ嫁いできたものだと家族への感謝の気持ちで一杯であった。
長男も次男も私が少し甘やかせて育てたせいか、少し母親べったりで頼りすぎるところがある。
「男子たるもの、そのようにめそめそしていたのではなりませぬぞ。お爺様やお父上のように立派なお侍になりなさい」
と叱咤激励するのだが、いつも私の懐に飛び込んできては甘えてくるのである。私も私でそれを跳ね除けるようなことはせず、優しく抱擁してやるのが常であった。夫には申し訳ないが、さしたる愛情を感じることはほとんどなかったが、二人の息子達には格別の愛情を感じずにはいられなかった。娘はといえば、優しい兄達に囲まれて育ったせいか、勝気で少し我儘な性格であった。私の子供時代を振り返ると少し似たような面があり、どちらかといえば小さな衝突を繰り返す間柄であり、息子達ほど愛情を注いでやれなかったように思う。結局、私達夫婦の間にはこの三人の子供を授かったのみであったが、子育てに明け暮れているうちにあっという間に歳月が旅人のように過ぎ去ってしまった。
夫と夫婦になってからちょうど十年が過ぎたが、二人の関係は何か間に薄皮を挟んだようで、心から打ち解け、心からお互いを理解するような絆は築けなかった。その年の冬、私は風邪をひいて寝込んでいたのだが、咳が一向に治まらず十日程もろくに動けずに寝間で過ごしていた。ある日、激しく咳き込んだ後、喉の奥から吐しゃ物が出てくるのを感じた瞬間、手のひら一杯に真っ赤な血を吐いた。これにはさすがに狼狽した。血を吐くなどということは、余程のことがない限り普通有り得ないことである。直ぐに義母に報告したところ「それは大変なことじゃ。直ぐにお医者に診てもらわねば」と慌てて外に飛び出していった。医者の診立ては、『労咳(肺結核)』であった。取り敢えず薬を調合する故、ゆっくり静養するようにと申し渡された。この時代、労咳といえば不治の病である。治療のためのお薬代だって家計を圧迫させるものである。私が労咳になんぞ罹るなんて思ってもみなかっただけに、その衝撃は私の心に強い刺激と大きな不安を与えるものであった。体の病だけでなく、心まで一気に蝕まれたようである。
これまで無関心かと思うほどの態度をとり続けていた夫が、こんな私を見かねたのか苦しい台所事情であるにも拘わらず、労咳には『鯉の生き血』が効くと聞いて、再三買ってきてくれた。初めて夫の優しさを知ったような気がして、今までの私の愛情不足を反省させられる思いがした。しかしながら、お医者様からいただいたお薬や夫の献身的な看病の甲斐も無く、三年程の後、私は帰らぬ人となってしまった。まだ、三十二歳と少々若すぎる死であった。
死の直前、私がもはや余命幾ばくもないと聞き及び、次兄とともに信二郎様がお見舞いに来てくださった。信二郎様は、浅黒く日焼けした精悍なお顔つきで、私を昔と変わらぬ
優しい眼差しで見守ってくださっていた。十数年前の出来事が走馬灯のように駆け巡り、私の心を僅かながらも沸き立たせてくれた。そのせいか「お顔に朱がさしてござる。今日は、お加減がよろしいようでござるの」とお声を掛けていただいた。かつて私は、このお方を心から想い、信二郎様も私のことを「嫁に」とまで言ってくださった。懐かしい思いで胸が張り裂けそうになるのを抑えきれずに、はしたなくも信二郎様に手を差し伸べ、逞しい腕を取り、大きな手のひらを赤子の手を包むようにそっと握りしめた。この光景を夫が見ていたらきっと不機嫌になったことだろうと思うが、幸いにも次兄と信二郎様以外には人影は無く、最後の最後に信二郎様と晴れて結ばれたような気がした。別れ際に「ゆい殿、気を強く持って養生なされよ。きっとその内快復することを信じておる」とじっと目を見つめて優しい言葉をかけてくださった信二郎様と、この時が今生の別れとなった。こうして私は、死に際しての枕辺に初恋の人からの見舞いを受け、心安らかにそして何も思い残すことなく死出の旅に旅立つことができた。これも幸せといえばそうなのだろうと思いながら、子供達が泣き叫ぶ声を聞きながら、夫の胸で息を引き取った。
五、二度目の誕生
“ゆい”が亡くなってから時代は駆け巡り、日本は原爆投下という悲惨な結末をもって、実質五年に亘る太平洋戦争の幕を閉じた。その後、誰もが目を疑うようなスピードで戦後復興を成し遂げ、四年後に東京オリンピックを開催するという高度成長期の真只中にあった。昭和三十五年三月十六日、香川県高松市の国鉄病院で私は産声を上げた。父は、県立の工業高校の教員、母は高松市内の公立中学校の教員という一見堅苦しそうな家庭の長男として生まれてきたのである。私が生まれた翌年に母は二度目の妊娠をしたのだが、年子ということで堕胎してしまった。それが運命なのか、その後二度と妊娠することはなかった。結局、私は小野家にとって大事な一人息子になった訳である。
父は、高校教員といいながら決して真面目に人生を過ごした訳ではなかった。母と結婚した直後から週末の徹夜マージャンに加え、競輪や競艇といったギャンブルにまで手を染めていることが分かった。生活費をろくに入れず、自分の小遣いだけでは足らずに借金までするといった放蕩な人生を送っていた。私が物心ついた頃には、株式投資にのめり込んでおり、現金株を担保に信用取引にも手を拡げていた。それが災いして株価の下落によって追証が発生し、証券会社から追加担保となる現金の入金を催促される日々が続き始めた。これを解消するため母に泣きつき、母が少しずつ貯えてきた定期預金を解約せざるを得なくなり、母の父への不満は頂点に達していた。それに加えて、父が西港工業高校に赴任した数年前から私たち三人は西港町の父の実家で暮らすようになっていたのだが、私が小学校の二年生になった年に、祖父が国鉄を退職し、実家に祖母と独身の叔父を連れて戻ってきたのである。そして、ここからが嫁姑の激しい、そして永遠に終結することの無いバトルが始まるのである。挙句の果てには、同居生活が始まってから四年後に、父の直ぐ下の妹家族が西港町内に新居を買い求めて移り住んできたのである。母と祖母、それにこの叔母を加えての争いは、およそ四十年間、祖母が痴呆症になるまで延々と続いたのである。それこそ「死ぬまで直らない」ではないが、呆けて誰が誰やら分からなくなるまで祖母の性格や行動パターンを母は絶対に受け入れることができなかった。
以前から母は、日常生活の不満のはけ口を夫に求めるのではなく、未だ幼い私をパートナーとして愚痴を聞かされ続けてきた。私の名前が崇司であったため、母はいつも私のことを「たーくん」と呼び、愛情を一心に注いでくれた。休みの日には、徹夜マージャンの疲れで布団に潜り込んでいる父を尻目に、二人で母のオートバイに乗って色々な場所に出かけた。隣町の亀城市へ買物に行くのも楽しかったのだが、母の手作りのお弁当を持って塩田市の塩田公園や象頭町の象頭公園へハイキングに行くのが何よりの楽しみだった。そんな時、いつも母は決まって同じ話をするのだった。
「ねえ、たーくん、お父ちゃんどうしてあんなにだらしが無い生活をするのかしら?自分ばっかり一人で遊んでいて、お祖母ちゃんとお母ちゃんが喧嘩している時だって知らん振りして・・・。たーくんは、あんな大人になっちゃダメよ!まず一番にお嫁さんや子供を大切にするお父さんにならなきゃね」
「うん、分かった。お父ちゃんのような大人にはならない。お祖母ちゃんもお母ちゃんが居ない時には、叔母ちゃんとお母ちゃんの悪口ばかり言っているから嫌いだ」
「そうなの?お祖母ちゃん、私の悪口言っているの。叔母ちゃんも一緒になって悪口言っている光景が目に浮かぶようだわ」
「お母ちゃん、安心して!僕は、絶対にお母ちゃんの味方だからね。僕がお母ちゃんのことを守ってあげるからね」
「ありがとう。たーくんだけは信じてるからね。お母ちゃんは、たーくんが大好きよ!」
と言って、いつも私のことをギュッと抱きしめてくれるのである。何度も何度も同じことを繰り返してきたせいか、私の網膜にその時の光景が焼き付けられている。子供心に「お母ちゃんは味方。お祖母ちゃんや叔母ちゃんは敵。お父ちゃんはダメな人。お祖父ちゃんは怖いけど尊敬すべき人」などと家族や親類を敵・味方と区別して視るようになっていた。
他の楽しみと言えば、年に数回ではあるが、高松にある母の実家に泊まりに行き、母方の祖母と商店街へ買物に行ったり、喫茶店でチョコレートパフェを食べた後、祖母の楽しい話を聞きながら祖母の部屋で寝るまでのひと時が何よりも楽しみであった。こちらの祖母は気風が良く、行く度にお小遣いをくれたりと、同居している孫と同様、遠く離れた孫にも愛情をたっぷりと注いでくれた。私が社会人になってからも時間を見つけては祖母に会いに行っていたのは、この時の原体験からか「母方の祖母は僕の味方だ」と思っていたからだろう。
私は、西港小学校を卒業し、西港中学校に入学した。この中学校には、町内の四つの小学校から生徒が集まってくる。私は、一年5組にクラスが決まり、一学期は会計委員になった。隣の6組の学級委員には、四条小学校出身の女生徒がなっていた。その子の名前は、「多田奈央」さんという髪の長い綺麗な女の子だった。一目見たときに何か胸が躍ったような感覚を覚えたが、由緒あるお寺の一人娘で、戦国時代以前から代々西港の地を治めた領主の末裔だと噂に聞いて、私には高嶺の花だとすぐさま諦めた。廊下で彼女を中心に女子達が集まって話しているのを聞いていると、奈央ちゃんはまるで東京から来た子のように都会的な言葉で喋っている。「何やこいつ。お嬢様ぶりやがって」と思わずにはいられなかったが、その反面、何か気にかかるというか、憧れめいた感情を持つのが不思議で仕方がなかった。
中学時代、私は剣道部に所属し、奈央ちゃんはバドミントン部に入っていた。同じ体育館で毎日部活に精を出していた。一学期がそろそろ終わる頃、奈央ちゃんはテニス部の岡田という長身でハンサムな同級生と付き合うようになっていた。毎日、部活が終わると駐輪場で長々と二人が話しこんでいる光景を見るようになり、誰しもがお似合いのカップルだと認めるようになった。私はといえば、その光景を見る度に何か嫉妬めいた気分になるのが常であった。小さい頃から母の指導で日記を書いていたのだが、必ず奈央ちゃんのことに触れているのが今読み返しても不思議でならない。友達の中には「岡田と多田のカップルは理想の関係やなあ。俺、あんな風に彼女を作って付き合うのが夢や。あの二人の関係に憧れるわ」と言う奴が大勢いたが、私は何故か二人の関係を素直に認めることができずに、苛立ちと腹立たしさを覚える毎日であった。
あっという間に中学の三年間が過ぎ去り、高校に入学することとなった。私は、中讃地区の進学校である亀城高校に合格した。もちろん、岡田も奈央ちゃんも同じ高校に入学した。私と岡田は、中学時代と同じく剣道部とテニス部に入部し、放課後の時間をクラブ活動に励んでいたのだが、奈央ちゃんは運動部には入らず、生徒会活動をしていた。高校に入って環境や人間関係が大きく変わったせいもあるのだろうが、岡田と奈央ちゃんの関係は次第に疎遠になり、一年生の終わり頃には交際が自然消滅したようであった。そんな噂が聞こえてきた時、何とも言えぬ安堵感が私を包み込んだ。二人の交際関係が消滅したからといって、即座に奈央ちゃんに交際を申し込む勇気がなかった。やはり私にとっては奈央ちゃんはまだまだ高嶺の花であり、眩しい存在の女の子であった。
そうこうしている内に月日があっという間に過ぎ去り、いよいよ高校の卒業式を迎えることとなった。私は駿河大学の工学部へ、奈央ちゃんは洛南女子大の文学部へそれぞれ進学することが決まっていた。煮え切らない心のまま卒業式当日を迎え、式典の間も「この後彼女に何と言って交際を申し込もうか、今日を逃したらもう二度とチャンスは訪れないぞ」とかばかりを考え、いつの間にか卒業式が終わってしまっていた。卒業式が終わって最後のホームルームの時間を迎えるまでの間、体育館の前庭は、大声を張り上げる男子生徒のグループや肩を寄せ合って泣きじゃくる女の子のグループで溢れかえっていた。私は理科系クラスの8組で、彼女は文系クラスの3組だったので、ホームルームが終わる時間が気が気でなかった。彼女のクラスの方が先に終わって下校してしまわないか冷や冷やしていた。私にとっては長すぎる最後のホームルームがやっと終わった。結局は、一人ひとりに卒業証書が手渡されただけの時間だった。慌てて3組の方へ走っていったが、そこには数人の生徒しか残っておらず、奈央ちゃんの姿を見つけることはできなかった。腋下にジンワリと汗が流れるのを感じるほど気持ちが焦っていた。奈央ちゃんは、もう帰ってしまったのだろうか?一階のフロアまで飛ぶように降りて行き、一目散に駐輪場に向かって走っていった。その途中の生徒会室の前で二人の女生徒が立ち話をしているのを見つけた。一人は、奈央ちゃんだった。【ああ、神様ありがとうございます。彼女はまだ学校にのこっていてくれました。これから告白します】と心の中で叫んでいた。
「奈央ちゃん、ちょっといいかい」
「何、どうかしたの?」
「突然にというか、今頃になってというか、僕と友達になってくれない」
「えっ・・・。だって小野君は中学校も同じだし、昔っから友達じゃない」
「うん、そりゃそうだけど、これから大学に入ってバラバラになる訳だから、友達として連絡を取り合いたいし、遠距離だけど付き合ってもらえないかと・・・」
「いいわよ。下宿先の住所を書くから、またお手紙でもちょうだい。直ぐに返事を書くから。小野君は、どこの大学に行くのだったっけ?」
「僕は、駿河大学さ。今は住所を覚えてないから、下宿先で落ち着いたら僕の方から手紙を書くよ。なるべく早いうちに」
「そう、静岡なの。遠いわねえ。取り敢えずは文通しかなさそうねえ」
「ああ、いいよ。奈央ちゃんと文通できるだけで幸せだよ。これからよろしく頼むよ」
「こちらこそって言うべきなのかなあ。友達だのに何か変な感じだわ」
「じゃあ、元気でね。春の京都は素敵だろうなあ。僕も行ってみたいよ」
「うん、是非五月の連休にでも遊びに来てね。美味しいものや面白い名所を探しておくから、私が案内してあげるからね」
「期待してるよ。それじゃあ、また」
こうして奈央ちゃんの下宿先の住所を聞きだし、文通からではあるが交際を始めることになった。三週間後には、大学の入学式があるため静岡に行かなければならない。下宿先に持っていく荷物の整理やら、部屋の片づけやらとこれから忙しくなるが、遊んでばかりいないで準備をしなければならないと思った。でも、素直に喜んで駿河大学に行く気持ちに翳りがあるのを感じずにはいられなかった。奈央ちゃんがこれから住むこととなる京都という街に魅せられてしまっていく自分の存在に気付いていた。
六、洛東大への挑戦
静岡市内の閑静な住宅街で下宿生活が始まった。風呂には入らせてもらえるのだが、食事は作ってはくれない。ご主人は、既に亡くなっており、二人の息子さんも名古屋の大学に行かれており、言わば典型的な『未亡人下宿』であった。こう言えば何か意味深であるが、別に妙な事が起こった訳ではない。下宿生活の初日に、夕食を採りに出かけたのだが、歩いているうちに駅前通りに出てきた。私の目の前を猛スピードで走る下りの新幹線のパンタグラフが架線に接触して青白い火花を散らしていた。その光を見ているうちに、自宅に帰りたい、もう一度大学受験にチャレンジしたいと思うようになった。
私は高校三年生の秋に理科系クラスにいたものの、工学部より経済学部の方に興味を抱き、文系に転換しようと考えていた。その思いを両親に話すと、父親は「お前は卑怯者だ。理科系の教科の成績が悪いからといって文系に変わるなぞ絶対に許さない。工学部の機械科を受験しろ。それがお前の将来にとって最良の道なのだ」と頑として私の考え方を受け入れようとはしてくれなかった。自宅の直ぐ南隣に七歳年長のお兄さんがいたのだが、この先輩が浪人して洛東大学の法学部に進学しており、子供の頃から洛東大学への興味というか、一種憧れのような気持ちを抱くようになっていた。理科系にいたのでは、とてもじゃないが洛東大学への進学は不可能であったが、文系なら得意科目が多いため可能性がないことはないだろうと自己分析していたからだ。でも、父親の猛反対に抵抗してまで文科系へ転換する程の自己主張はできなかった。結局、父親の敷いた路線を仕方なく歩むことにした訳である。
静岡での下宿生活は、僅か一週間で幕を閉じた。大学に休学願いを提出し、その日のうちに荷物をまとめて下宿先を後にした。自宅に帰って両親に自分の考え方を説明し、一年間浪人させて欲しい旨を熱く語った。最初は、何故相談もなく勝手な行動をしたのだと責められたが、私の目指す将来像や洛東大学への思いを語っているうちに頑固な父親も渋々承諾してくれた。「崇司、一言だけ言っておくが、この一年間はお前のことを息子だとは思わない。ただの下宿人として扱うから、そのつもりで死に物狂いに勉強しろ!」と父から厳しく宣告された。「分かりました。精一杯頑張ります。食事の用意さえしてくれれば、後は自分でやります。洛東大学に合格できるよう、今まで以上に勉強します」と自分自身を激励する意味も込めて両親に約束した。
翌日には、高校の恩師を訪ね、途中ではあるが補習科に入れてもらえるようお願いした。
「小野、君が三年の秋に経済学部を受験したいと言った時には少々驚いたが、直ぐに志望
変更を取り下げて工学部に戻して、そのまま入試を迎えたからすっかり忘れていたよ。やっぱりあの時の意志は本物だったんだなあ」
「はい先生。父が工学部の機械科卒なものですから、自分が歩んだ路線を進ませたくて頑として経済学部への進学を認めてくれなかったからなのです。自分としては、今日までずっと経済学部の道に進みたいという思いを持ち続けていました。駿河大学は休学してきましたので、もう一年浪人して自分の目指す道を実現したいと思っています」
「そうか、分かったよ。君がそこまで覚悟して帰ってきたのなら、校長先生に相談してみよう。今日中には補習科への入学の可否を連絡するよ」
「ありがとうございます。先生、よろしくお願いします」
そんな遣り取りがあった後、そのまま家に帰るのもつまらないので、久しぶりに亀城に登ってみることにした。十分ほど急な坂道を喘ぎながら登りきり、天守閣にたどり着いた。そこから見える景色は、眩しいほどに煌めく瀬戸の海と箱庭の苔のようにちりばめられた美しい島々、穏やかな春を迎え花びらを散らせた桜が力強く新芽を伸ばし始めているといった、故郷の讃岐平野が眼前に広がっていた。この風景を何度見てきたか数え切れないが、移り行く季節の中でも最も好きな季節である。入学式や入社式が行われるこの時期は、新たな門出を祝う季節であり、何かしら力強さを感じずにはいられない。自分自身も意を決して自らが選んだ道を今から歩みだそうとしている。「頑張れ崇司、初心貫徹で目標を達成しろ!」と自分に言い聞かせた。その日の夕方、先生から連絡があり、補習科への入学が認められた。
早速、次の日から補習科へ通うことになった。補習科には、文系クラスと理科系クラスの二クラスしかなく、総勢で九十人ほどの浪人生がいた。もちろん、私は文系クラスに入ったのだが、そこには理科系から文転した生徒が半分ほどもいて多くの仲間がいたのですんなりとクラスの輪の中に溶け込むことができた。
「崇司、お前駿河大学に入ったんじゃなかったのか?大学はどうしたんだ」
「ああ、一週間で休学してきたよ。現役の時に文系にしてれば良かったのだけれど、親の言いなりになってなんとなく工学部を受験したものの、これで一生悔いは残らないのかと考えているうちに、やっぱり経済学部に行きたいなあと思うようになって、気が付いたら休学届けを出していたという訳さ」
「お前、決断が早いなあ。そういうことだったのか。まあ、この一年、一緒に頑張って目指す大学に合格しような」
「よろしく頼むよ。たまには息抜きも大事だから、遊びの方もお付き合い頼むよ」
「いいねえ、そっちの方は大歓迎だよ。受験生にストレスは禁物だからな」
という状況で補習科生活が順調にスタートをきることができた。これからは、現役時代とは意気込みを変えて真剣に受験勉強に取り組もうと心に誓った。と同時に奈央ちゃんとの文通を楽しむことも忘れなかった。早速、こんな状況になったことを報告しておかなければならない。彼女の驚く顔が目に浮かぶようで弾んだ気持ちで手紙を書いた。
二回の校内模試を受けて、自分でも驚くほどの好成績を残して夏休みを迎えた。この時の頑張りようは、今思い出しても自分自身を褒めてやりたいほど本当によく勉強したと思う。着実に実力がアップしている手応えを感じずには入られなかった。そんなある晩、奈央ちゃんから電話が架かってきた。
「崇司君、お久しぶり。暑い毎日だけど勉強頑張ってる?受験生を遊びに連れ出そうとするのは本当はいけないのかもしれないけど、勉強漬けは体に悪いからリフレッシュしないとね」
「うん、そうだね。一日中、エアコンの効いた部屋の中で勉強ばかりしていると、さすがに気が滅入るよ。なんだい、僕を遊びに誘ってくれるのかい?奈央ちゃんと過ごせるのなら何だって大歓迎だよ」
「よかった。私、車の免許を取ったばかりなんだけど、明日女の子達三人でドライブに行こうと思ってるの。崇司君の都合が良ければ、一緒に行かない?」
「明日かあ・・・もちろんOKさ。喜んで参加させてもらうよ。でも男子は俺だけだろ。お邪魔じゃないのかい?」
「大丈夫。陽子ちゃんと絵里ちゃんだから、よく知ってるでしょ。もちろん、彼女達も崇司君が来てくれることウェルカムだから」
「それなら安心したよ。久しぶりに奈央ちゃんに会えると思うと嬉しさと緊張で胸が張り裂けそうになるよ。今夜はどうやら眠れそうにないよ」
「そうなの?私も崇司君に会えるのを楽しみにしてるからね」
次の日は、とにかく暑かったけれど奈央ちゃん達と楽しい一日を過ごすことができた。彼女の運転する車の助手席に座り、ナビゲーターをかってでた。地図を片手に行き先を指示し、いろんな場所を訪れた。どの場所でもみんなでスナップ写真をとり、楽しい旅の思い出ができた。奈央ちゃんの長い黒髪がスナップ写真以上に僕の脳裏に強烈に焼きついている。いつか心の底から「好きだ」と告げたいと思った。別れ際に三人の女の子達から「崇司君、苦しいだろうけど勉強頑張ってね」と激励され、胸が熱くなった。
こうして楽しい一日もあったものの、受験勉強に明け暮れた暑い暑い夏が終わった。奈央ちゃんとは月に二回のペースで手紙の遣り取りを続けていたのだが、秋も深まったある日、彼女から初めて人間関係に関する悩み事をびっしり書き込んだ手紙が届いた。その最後の文末に「誰かが私を必要と感じ、私を求めてくれるのなら、今すぐ羽をつけてその人の胸に飛び込んで行きたい」と書いてあった。奈央ちゃんは、酷く悩んでいるのだろうと容易に想像できた。それこそ今すぐ彼女の元へ行ってやり、思いっきり抱きしめてやりたいと思った。「待っていてくれ!来年の春こそは、洛東大学に合格して、君の住む京の都に俺が行ってやる。そして、君を守ってやる」と心の中で叫んでいた。
年が明け、いよいよ共通一次試験(今で言うセンター試験)に臨むこととなった。やるべきことはしっかりやってきた。自分でもよく頑張ってこられたと感心するくらいだ。これも奈央ちゃんの存在が大きかったことは否定できない。彼女がいたからこそ、彼女の住む京都の街へ行くという目標を挫けることなく持ち続けることができたのだと思う。一時試験も無難にこなし、二次試験も手応えを感じて私の受験勉強は一応終わった。後は、合否の結果を待つのみとなった。
洛東大学の合格発表の前日から、京都の予備校に通っている藤原という友達の下宿に泊まりに行った。もちろんこの男も洛東大学の農学部を受験している。私が彼の下宿に到着すると、もう一人の友人、森君が来ていた。彼は、東京物理大学に通っているのだが、私と同様に大学に籍を置きながら洛東大学の理学部を受験したのだった。久しぶりに三人が集まり、明日の合格発表を前に、不安と期待を織り交ぜた複雑な気持ちで夜遅くまで話し込んでいた。翌朝、三人で合格発表を見に行った。誰の発表から順番に見に行くかということになり、私が一番籤を引いた。九時半ごろ洛東大学の時計台前に到着した。この建物の裏側に法・経教室の建物があり、そこにある掲示板に経済学部の合格者が張り出されている。私の受験番号は「二七八番」である。固唾を呑みながら掲示板に近寄っていった。真っ先に声を上げたのは、藤原だった。「崇司、あったぞ!お前の番号。やったな、お前洛東大生になったぞ、おめでとう」彼が指し示すその先には、私の受験番号が間違いなくあった。飛び上がりたいほどの興奮を抑えながら、合格の喜びを噛み締め、一刻も早く両親に報告し、共に喜んでもらいたいと思った。その後、農学部、理学部の合格発表を見に回ったが、残念ながら森君は不合格であった。彼の落胆振りを考えると掛けてやる言葉が見つからなかった。
七、恋愛の果て
晴れて洛東大学に入学し、古いながらも京都らしい下宿で、学生生活がスタートした。奈央ちゃんにも早く報告したかったのだが、会った時に言って驚かせてやろうと思って、手紙には何も書かなかった。入学式の週末に奈央ちゃんの下宿に電話をかけた。
「もしもし、崇司だけど今晩は。奈央ちゃん、急なんだけど明日時間空いてない?俺京都にいるんだけど会えないかなあ」
「えっ、崇司君京都に来てるの?そうねえ、お昼からでも構わない?」
「いいよ、いつでも。奈央ちゃんに会えるのだったら、何時だって構わないさ」
「それじゃあ、京都御所の近くに素敵なカフェがあるから、午後二時に京都御所の東側に寺町通りがあって、北の方に梨木神社っていうのがあるから、その前で待ち合わせしましょう」
「了解、梨木神社だね。よく分からないけど、探してみるよ。それじゃあ、明日よろしく。楽しみにしているよ」
大学の学食で昼ごはんを食べてから、バスに乗って今出川通りを走った。河原町今出川のバス停で降りてしばらく歩いた。寒くもなく暑くもなく、穏やかで爽やかな春の陽気に包まれた日であった。もうすぐ奈央ちゃんと会えるのかと思うと、心が躍るようで足取りもいつもより軽やかだった。考えてみると、奈央ちゃんと二人で会うのは、今日が始めてである。まさに初デートに相応しい最高のお天気だった。梨木神社には、約束した二時より十五分ほど早く着いた。目の前は京都御苑の入り口で、御所に向かって広い砂利道が続き、大都会の真ん中に広大な緑地が森のように広がっていた。ほんの百数十年前までは、ここに天皇をはじめ多くの公家達が住んでいたかと思うと、明治維新、太平洋戦争の敗戦を経て、日本がいかに駆け足で発展を遂げてきたのかと感心せざるをえなかった。しばらくして奈央ちゃんが真っ赤なポロシャツに白いスカート姿で現れた。とっても眩しかった。
「崇司君、お待たせ。遅れてごめんね」
「いや、僕もさっき来たところだよ。夏休み以来かな、お久しぶりだね」
「京都にはいつ来たの?色々と案内してあげたい場所があるんだけど、いつまで滞在できるの?」
「僕は、ずっと京都にいるよ。君の住むこの京都の街にいっしょに住むのさ」
「どういうこと。ひょっとして洛東大に合格したの?」
「ああ、その通りさ。洛東大の経済学部に合格しちゃったよ。今は、大学の直ぐ近くの吉田二本松町に下宿しているよ」
「どうしてもっと早く知らせてくれなかったの?崇司君の受験がどうなったか心配してたんだから。この前の手紙にも大学のこと何にも書いてなかったから、もしかしてダメだったのかなあなんて考えてて・・・」
「ごめんよ、心配させて。意地悪するつもりは毛頭なかったんだけど、奈央ちゃんの驚く顔が見たかったんだ。でも、これからは同じ空の下に住むことになるわけだから、暇な時に会って貰えないかなあ。改めて言うけど、僕は君のことが好きだ。この一年間、いやもっと前から、そう中学に入学した時からずっと君のことを想い続けてきたんだ」
「ありがとう、そんな風に私のことを想ってくれて。私も崇司君のことを大切な人だと思っているわ。これからもよろしくね」
「そんなこと聞かされたら、嬉しさの余り大声で叫びたくなるよ。僕は君のことを守るよ、いつまでも。約束する」
こうして、私から奈央ちゃんへの正式な告白は成功した。その後、二人でカフェに行ったのだが、何を話したかほとんど覚えていない。それ程、興奮して有頂天になっていたのだと思う。あっという間に夕暮れ時になってしまい、彼女と別れる時間が迫ってきた。カフェを出ると、辺りは紫色に染まっていた。手を振ってバスに乗り込む奈央ちゃんを目が眩むほどの思いで見送った。この押さえ切れない爆発的な喜びを誰かに伝えたかったが、どう表現していいのか分からなかった。
これ以降、奈央ちゃんとは毎週のようにデートに出かけた。免許を取って、バイトで貯めたお小遣いで安い中古車を買ってからは、二人で遠くまで出かけるようになった。いつ会っても彼女の存在は新鮮で、可愛い笑顔が眩しかった。ある日、下宿の先輩達から「合コンをやりたいからお前が準備をしろ!」と言われた。「どうせやるなら洛南女子大か洛北女子大の女の子がいいなあ。男子の人数は、幹事役の小野を含めて六人だから、相手も最低六人は集めとけ」と勝手なことを言う先輩達であった。六人もの女の子を簡単に集められるような人脈を持ってはいなかった。本当は嫌だったけど、洛南女子大に通う奈央ちゃんにすがるしかなかった。恐る恐る奈央ちゃんに電話をかけてみると、意外にもあっさりと引き受けてくれた。結局、彼女の友達を連れて来てくれることになった。合コン当日の夜は、私と奈央ちゃんが幹事役ということで、ゲームをやったり、歌を唄ったりと場を大いに盛り上げることができた。奈央ちゃんに感謝の気持ちで一杯になった。賑やかで楽しかった合コンも終わり、帰りがけに奈央ちゃんにお礼を言った。
「奈央ちゃん、今日は本当にありがとう。君のおかげで全てがうまく行ったよ。先輩達も上機嫌で何よりだったよ」
「こちらこそ、崇司君のおかげで楽しい夜が過ごせたわ。友達もみんな『洛東大生と合コンだ!素敵な彼氏をゲットするぞ!』なんてはしゃいでいたから、今夜はとっても満足したんじゃないかしら」
「そう言っていただけるとありがたいよ。まあ、この中で良いカップルができることを祈っているよ。それじゃあ、また。おやすみ」
奈央ちゃん達と別れてから、先輩達が反省会をしようということで、下宿近くの居酒屋で二次会をすることになった。
「小野、今日はお疲れさまだったな。お前のおかげで久しぶりに楽しい夜を過ごすことができたよ。俺も忍ちゃんっていう子の電話番号をゲットしたよ。これからが楽しみだよ。それにしてもお前が紹介してくれた彼女、奈央ちゃんだったっけ。本当にいい子だなあ、明るくて素直で、しかも美人だ。大事にしろよ」
「先輩、ありがとうございます。僕には高嶺の花だった彼女です。いつまでも大切にしたいと思っています」
という遣り取りがあって、今日出会った女の子達の品評会をしながら、ついつい深酒をして酔い潰れてしまった。
楽しい日々はあっという間に過ぎ去るものらしく、奈央ちゃんは早くも四回生になった。六月には香川に戻って教員になるための教育実習を受けると言う。奈央ちゃんが香川に帰る一週間前の夜に二人でコンサートに出かけた。夜の九時過ぎにコンサートが終わり、二人で京都会館から鴨川まで歩いた。
「私の目標は、中学の国語の教師になることなの。そして、愛する人と結婚して、楽しい家庭を築いていくことが理想なの。でも、私の家はお寺でしょ、絶対に家業を絶やすことはできないの。私は一人っ子だから、愛する人にお婿さんに来てもらわなければならないの。それがとっても大きな悩みなの」
「何を悩むことがあるものか。僕が喜んで婿入りするよ。そして仕事をしながら坊主の修行をするさ。だから、僕が卒業するまで待っていて欲しい」
「そんな風に言ってくれるのは嬉しいけど、崇司君だって小野家の一人息子でしょ。大切な跡継ぎじゃない、ご両親が養子なんぞ許すはずがないわ」
「それは大きな壁ではあるけど、頑張って両親を説得するしかないと思っている。奈央ちゃんは、そんなこと心配しないで教育実習をしっかりやり遂げておいでよ」
やがて夏休みになったが、京都でアルバイトもせずに直ぐに実家に戻った。もちろん、奈央ちゃんとの約束を果たすために、両親を説得しなければならない。特別な作戦があるわけではないが、自分の気持ちを精一杯伝えることで親達の心も揺れ動くだろうと高をくくっていた。
「僕が多田奈央ちゃんと付き合っているのは知っているよね。彼女、この夏に香川で教員採用試験を受験して、中学の国語の教師になることを目指しているんだ」
「そうなの?教員を目指しているの。それで何なの?」
「多田家は、由緒あるお寺さんだ。彼女は、一人娘だから婿を貰って跡を継がなければならない」
「そうねえ、あのお寺は代々続いてきたお寺さんだから、きちんと次の世代が守っていかないとね。それとたーくんに何の関係があるのよ?」
「母さんも鈍いなあ。僕は、奈央ちゃんを愛しているんだ。だから、婿養子になってお寺を引き継ごうと思っているのさ」
「何を言い出すのかと思ったら、馬鹿馬鹿しい。よくもそんなことを考えたわねえ。あなたは、小野家にとってかけがえのない一人息子なのよ。あなたが他所の家に婿養子なんぞになったら、小野家はどうなるのよ。お祖父ちゃんやお祖母ちゃん、それに私達両親のことはどう考えているのよ。そんな無茶苦茶な話は承諾できませんからね。もっと冷静になって考えてちょうだい」
「僕は、いたって冷静さ。大学に入って二年余り、奈央ちゃんと真剣に交際してきたんだ。彼女と過ごす時間の楽しさは表現のしようがないくらいだし、何よりも一緒にいる時が一番心がリラックスでき、穏やかな気持ちになれるんだ。彼女は、僕にとっては無くてはならない存在なんだよ。分かってよ!」
「そんなこと分からないわ。分かれって言う方が無理なのよ。一時の浮ついた恋愛感情で将来のことや自分の立場を見失っているとしか思えないわ。絶対に反対だから、奈央さんにきちんと話をしなさい。交際を続けるのだったら、あくまでもお友達として付き合うことね。結婚なんてことは絶対に許しません」
「どうしても許してくれないのかい?父さんに話してもダメかな?」
「お父さんになんか話したら、それこそ一大事よ。あの人だって長男で色々なしがらみの中で生きてきたの。お祖父ちゃんやお祖母ちゃんと同居して、私達夫婦は口では言い表せない辛抱や苦労をしてきたわ。あなたに同じ苦労は味合わせたくないから、結婚しても同居してなんてことは言わないわ。だけど、小野の家を引き継いでゆくのはたーくんの大切な使命ということは分かってちょうだい」
こうして私の申し出は、母に全面却下されてしまった。奈央ちゃんとの結婚は、周りの人間に祝福されてしたいと考えていたので、これ程頑なに母に反対された話を押し返してまで強引に進める勇気がなかった。夏休みが終わって京都に帰ったら、早々に奈央ちゃんに会って今回の顚末を伝えなければならないと思った。九月になって奈央ちゃんと連絡を取り、三条木屋町の高瀬川近くの『ろくでなし』というジャズ喫茶で待ち合わせをした。この店は、奈央ちゃんと二人で何回も行った店だが、今回の話の内容を思うと店の名前が『ろくでなし』だけに、何やら自分のことを言われているようで、奈央ちゃんから既に詰られているような感じがした。
「奈央ちゃん、一次試験どうだった。後は今月の合格発表を待つだけだね。大丈夫だよ、十月の二次試験頑張ってね」
「ありがとう。教育実習の方は、指導教諭がよくしてくれたので頑張れたし、一次試験の方も手応えはあったわ。でも、合格しているかどうか不安で一杯」
「それはそうだろうけど、奈央ちゃんは一所懸命頑張ったのだから大丈夫だよ。実は、今日は奈央ちゃんに謝らないといけないことがあるんだ」
「謝らないといけないことって?」
「夏休みに帰省した時に、お袋に奈央ちゃんと結婚したいって、そのためには婿養子に行かせてくれって頼んだんだ。そしたら猛反対されちゃって、『あなたは小野家の跡取り息子でしょ!何を馬鹿なこと言っているの!』と取り付く島もない剣幕で全く取り合ってもらえなかったんだ」
「そう、そりゃそうでしょ。一人息子と一人娘じゃどちらかの家が跡取りを無くしてしまうのだから、取られる方の親は猛反対するでしょう。私だって何度あなたの胸に飛び込んでしまいたいと思ったことか知れないけど、両親やお寺のことを考えると諦めるしかないと悟ったわ」
「ごめんよ。精一杯頑張って説得したんだけど、承諾してくれなかったよ。僕達の結婚は障害が多すぎて実現できない。奈緒ちゃんのことを心の底から愛しているけど、祝福されない結婚を強引に進める勇気が僕には無いんだ」
「そうねえ、私が崇司君の立場だったとしても、同じ結論を出したと思うわ。はっきり言ってくれて意外とさっぱりした気分だわ」
「本当にごめんよ。でも、これからも相談相手というか良き友達として付き合ってもらえないかなあ」
「それは無理よ。結婚をしようとまで告げられた人と友達感覚で付き合うことなんて不可能だわ。私達の関係は、これっきりにしましょう。その方がお互いのためよ」
こうして奈央ちゃんとの恋愛は幕を閉じた。猛反対した母を恨む気持ちが無くはないが、自分の行動力の無さに嫌気が差し、しばらくは無気力人間になってしまった。長い黒髪を風になびかせて眩しいほどの笑顔の奈央ちゃんの姿が、私の脳裏に焼きついて離れなかった。奈央ちゃんと過ごした僅かな時間を思い出として生きていけるのか自信が無かった。
八、霊能力者との出会い
奈央ちゃんとの決別後、一年半が経ち、私も社会人となり故郷香川に戻ってきた。同期達は、四国内の事業所に散らばって行ったが、幸いにも私は香川県内の事業所に配属となり、自宅から通勤することができた。
入社二年目には、組合の青年部の運営委員になった。そこで企画したのが五月の連休明けに、社外の女の子達を誘って合同ハイキングに行こうというプランだった。色々なルートを頼って女の子を集めるのに奔走した。おかげで当日は二十数名の女の子に参加してもらい、ハイキングをしたり、昼食後にゲームをしたりと楽しい休日を過ごすことができた。その中に、その後私の妻となる恵子がいたのは、何かの因縁だろうと思う。私は、彼女を一目見た瞬間から、奈央ちゃんとは違う『眩しさ』を感じた。当時、絶大な人気を誇っていた松田聖子ちゃんと雰囲気が似ており、顔もその中の一つひとつのパーツ全てが小造りで可愛らしかった。奈央ちゃんと別れてから彼女を作るわけでもなく、女の子に特に興味も湧かなかったのだが、恵子に対しては違っていた。無意識のうちに彼女のそばに近寄り、自分でも驚くほど大胆になっていた。
「大西恵子さんでしたよね。僕は、小野崇司といいます。よかったら今度何人かで一緒に飲みにでも行きませんか?また、連絡しますから連絡先を教えてください」
「えっ、はい。お友達を誘ってグループでということなら構いませんけど・・・」
「もちろん、それで構いません。僕も会社の仲間を誘っておきます」
ということで恵子の連絡先を入手した。早速、飲み会の手配をして彼女に連絡を取り、楽しい合コンを開催する運びとなった。その席で私はほとんど恵子の傍を離れず、彼女とばかり話し込んでいた。彼女は、私より二つ年下で、愛媛県の短大を卒業して銭形市内の私立の幼稚園教諭として働いていた。私は、何か運命的な出会いを感じたので、大胆にもこの日彼女に交際を申し込んだ。「それじゃあ、友達としてお付き合いしましょう」ということになり、恵子との交際が始まった。これ以降、毎週のようにデートをし、山登りをしたり、川遊びをしたり、街に出かけてショッピングや食事をして週末を過ごした。八月になって直ぐの頃、恵子のご両親に正式に交際をお願いしようと彼女の家を訪ねた。ご両親と同居しているお兄さん夫婦が出迎えてくれ、私の値踏みが行われた。結果はまずまずの合格点をいただいたようで、私達の交際が認められた。
忘れもしないその年の八月十六日、私と恵子は京都の街にいた。夜八時ちょうどに京都の街から明かりが消され、大文字、妙法、舟形、左大文字、鳥居と五山の送り火が夜空を焦がすのを二人で眺めた。盂蘭盆会という京都の伝統行事を二人で迎えられた至福のひと時だった。自然の成り行きで私達はその夜結ばれた。小柄な恵子がとっても愛おしかった。この女こそ神が与えた私の伴侶となるべき人間だと心底思い「結婚しよう」と申し入れた。恵子も小さく頷き「嬉しい」と言って私に体を預けた。それからというもの、トントン拍子に話が進み、九月の下旬には結納をし、翌年の正月五日には結婚式を挙げていた。両親や友達からも、恵子と出会ってから僅か八ヶ月足らずで結婚するという早業ぶりに「本当によく考えたのか?冷静さを失っていないのか」等と心配されたが、私には何故か不思議と迷いは無かった。恵子こそ運命の女性であると確信していたからである。
暫くは二人で新婚生活を楽しもうと考えていたのだが、人生計画通りにはうまく事が運ばないのが現実である。子供はもう少し先にと考えていたのだが、三月には恵子が妊娠していることが判明した。嬉しいのだけれど何か自分の計画性の無さに舌打ちする自分がいた。十一月三十日の日曜日の夕方、可愛い女の子を授かった。名前は、散々迷ったが「衣里」と命名した。この子は、私にとって第二の太陽だった。愛する恵子が産んでくれた私の分身だった。両親も衣里の誕生を喜び相好を崩して「衣里ちゃん、衣里ちゃん」と可愛がってくれた。ただ、祖父だけが「次は、跡取り息子を産めよ!」と恵子にプレッシャーを与える始末だった。それから三年後の夏、待望の長男を授かった。お医者様から「今度は男の子ですよ。お父さん」と言われていただけに、恵子の分娩にも立ち会った。私の目の前で「周平」はこの世に生を受けたのである。目鼻立ちのきちんとした、なかなかの美男子の誕生であった。こうして、私の愛する家族は四人となった。新居も二年前に購入し、仕事も順調で、愛する家族のために頑張ろうと毎日を張り切って過ごしていた。
翌年の年明け早々、またしても恵子が妊娠していることが判明した。周平が生まれて半年も経っていないだけに、続けざまに出産するのは恵子の体に負担がかかるだろうと考え、残念だが人工中絶することを決断した。その翌年も妊娠したのだが、恵子は育児に疲れ、もう子供は産みたくないというので、私としては三人目の子供が欲しかったのだが諦めることにした。これを聞きつけた母から「きちんと水子供養をしないと災いが起こるわよ」ときつく言い含められていた。水子供養のやり方も知らないまま、取り敢えず近くのお寺に水子地蔵があったので、お供え物を持ってお参りする程度で済ませていた。
その次の年、衣里が幼稚園の年長組になった頃だったと思うが、急に「頭が痛い、頭が痛い」と言って幼稚園を時々休むようになった。一月経っても様子が変わらないので、ひょとしたら『脳腫瘍』にでもなっているのではと考え、総合病院で精密検査をしてもらった。結果は、異常なしであった。ほっとひと安心といったところだが、衣里の訴えは変わらない。これを見かねた恵子の母が「西港町内に霊能力者がいる。よく診てくれる先生なので一度相談してみてはどうか?」と言ってきた。霊能力者の存在自体が怪しいものだし、頭が痛いというのとどう関係があるのか疑問に思ったが、藁をもすがる思いで義母の言う貞広先生を訪ねてみることにした。恵子と二人ででかけたのだが、私の名前と生年月日だけをメモ帳に記入した。すると先生は、四つ折りにした半紙に梵字をスラスラと書き始め、周りに記号めいた梵字を書き込んだ。私は、テーブルをはさんで先生の正面に座った。
「小野さん、この紙の上に左手を置いて目を閉じてください。何が起ころうとじっと目を閉じたまま、決して明けないで下さい」
そうして先生は、何やら呪文というかお経めいたものを唱え始めた。五分ほど経った頃だろうか、私の左肩から左手にかけて電気が走ったような痺れを感じた。気配からして先生は相変わらず私の正面に座っており、私に何かをしたという訳ではない。隣には恵子が座っており、彼女が動いた訳でもないが、この感覚は何かが私の体内に入ってきて左腕全体を支配している感じである。最早、私の左腕は私の脳からの指示を拒絶していた。
「どうやら降りてきたようですね、あなたを取り巻く守護霊たちが。それではこれから質問をしますので、『はい』なら中指を押し付け、『いいえ』なら中指を上げてください。直ぐに言葉が浮かんで喋れるようなら話してください」
と言って、最初に私の前世のことから聞き始めた。私は、名前を聞かれて「ぬ・ま・だ・ゆ・い」と答え、讃岐高松藩のお城でご祐筆係りをしていたこと、子供が三人いて長男と次男は現世に生まれ変わり、長男が妻の恵子であること、次男が長女の衣里であること等をベラベラと喋りだした。この時私の脳ははっきりとしており、私の意識の外で第二の私が勝手に喋っている不思議な感覚を覚えた。先生が「ゆいさんは幸せな一生だったのですね」と聞くと、中指が震えんばかりに天を突き刺し強烈に否定した。何故かと聞くと、「し・ん・じ・ろ・う」という想いを寄せていた人がいて、この方から嫁にと申し込まれたのだが、父親が猛反対して破局したこと、結果他所の家に嫁いだのだが労咳で若くして死んだことを語った。先生が「それは辛い思いをしたことであろう。その思いは今では解消されたのか?」と聞くと、またしても中指がそそり立ち強く否定した。現世においても同じことを繰り返しているのだという。「しんじろう様は、『ただ・なお』さんとして生まれ変わり、父は私の母親となっている。前世で果たせなかった『しんじろう様』との縁を現世で叶えようとこの男に託したのだが、またしても邪魔が入り実現できなかった。それが悲しくて仕方が無い」と震える声で語った。私は、この遣り取りを聞きながら「まさかそんなことがあるのか?」と疑問に思いながらも前世の「ゆい」さんに同情する気持ちで涙が出て止まらなかった。
そんな衝撃的な話からスタートし、いよいよ衣里の頭痛の原因究明に入った。いろいろ質問をするうちに分かったことがある。私達夫婦には二人の水子がいた。その二人は同一人物で私達夫婦の元に必死に生まれ来ようとしていたが、それが叶わず、きちんとした供養をしてくれなかったため、長女の衣里にすがりに来ているのだという。この程度で済んでいるのは、私の母方の亡くなった祖母が傍に寄り添って守っていてくれているからだという。この話にも感動した。私達夫婦の第三子として必死に生まれ来ようとした子がいたこと。それを安易に人工中絶してしまったことが可哀想で仕方が無かった。止め処もなく涙が溢れ、恵子も声を上げて嗚咽していた。最後に先生が三分ほど呪文を唱えると左腕の硬直感が開放され、すっと楽になった。この二時間余りの間、意識ははっきりとしていながら何とも不思議な感覚に包まれたひと時を過ごした。霊の存在を肉体的にも精神的にもまざまざと実感した。この後、先生から水子供養の方法を教わった。翌朝から五時に目覚まし時計にたたき起こされ、清浄な水を汲み、硯で濃い目の墨を磨り、般若心経を写経した。まる十日間これを繰り返すことにより、水子が成長し、成人するということらしい。十枚の写経した紙を最後に高野山金剛峰寺に奉納して水子供養が完了した。しばらくして衣里の様子が一変した。あれほど「頭が痛い」と言っていたのが、ケロッとしたように元気になった。どうやら水子が成仏したようである。目に見えない不思議な世界の存在を私達夫婦は改めて実感した。
九、転生
貞広先生に出会ったことで、私の前世が江戸時代に生まれ、お城勤めをしていた「ぬまだ・ゆい」という女性であり、前世で叶わなかった恋を現世で実現しようと私に託したものの、同じように親に反対されて実現できず無念に思っていることを知ることができた。不思議なことに前世で想いを寄せ恋する人が現世でも初恋の人となり、結婚まで考えた。その上、前世で父だった男が現世では私の母となって前世と同じく私の恋の成就に立ちはだかり、前世で愛おしく可愛がった息子二人のうち、一人が最愛の妻となり、一人が愛娘となっているらしい。「輪廻転生」という言葉は聞いたことがあるが、それはあくまでも宗教的な概念の一つとして捉えていたものである。そのようなことが現実にあるとは考えもしなかった。初対面の貞広先生に事前に何も語ったわけではない。明らかに自分とは違うコントロールできない別の意思が働き、先生の質問に答え、反応したのは事実である。科学的に考えられるとしたら、私のDNAのどこかに「ぬまだ・ゆい」の遺伝子が引き継がれ、無意識の記憶の中にあったことを貞広先生が呼び起こしたとも言える。ただし、あの肉体的な痺れを感じたことが解明できない。梵字を書いた四つ折りの半紙の上に左手をかざしていただけであり、電極など一切付けていないのにあの時は電流が流れたような感覚があり、今もあの時の感覚が蘇える。貞広先生からは「小野さん、今度はあなたの守護霊を呼び出してみましょう。守護霊は、あなたを守るだけでなく、時にはあなたを試すために試練を与えます。それに応えられなければ、あなたを見限り、他の誰かに乗り換えるのです。あなたは鋭敏な方です。時間があれば是非あなたの主護霊と対話してみたい気がします。主護霊は、その人の精神面を支える役割がありますので、その方がどういう前世であったのか興味があります」と言われた。私は特別な人間ではなく、普通の人より少し敏感で霊感が強いのだとも言われた。
いつかは私も現世での寿命を終え、死出の旅に立つことだろうが、少なくとも今の私の中では、奈央ちゃんとの初恋は良き思い出として整理できており、来世に引きずることは無いだろうと思う。何十年後か何百年後に再び転生するかどうかは分からないが、きっと転生があることを信じていたいと思う。そのためにも未来へ託す思いを今からきちんと整理し、自分が成しえなかった夢や目標を明らかにしておきたいと思う。その上で転生した暁には、誰かの守護霊の一団に加わり、その人の精神面をリードできる主護霊になりたいと願っている。そのためには、毎日を無作為に過ごすのではなく、人生の目標を掲げ、それを実践してゆくために不断の努力を惜しまずに継続できる強い精神力と実行力を兼ね備えなければならないはずだ。この先も穏やかな春の日差しが降り注ぐ日ばかりではない。時には厳しい夏の暑さや寒風吹きすさぶ冬の嵐の日だってあるはずだ。その試練に打ち勝ってゆく決意がどうやら芽生え始めたようだ。
完
【作品のあらすじ】
江戸時代初期の讃岐高松藩の武家の娘として沼田ゆいが生まれた。お城勤めをする傍ら、兄と幼馴染の信二郎様に恋心を抱くようになる。ついには信二郎様から「嫁に」と懇願され、心ときめくのだが、父親の反対により二人の恋は引き裂かれてしまう。死の枕辺に信二郎様が見舞ってくれたのだが、想いを残したまま若くして亡くなってしまう。
それから三百年後、小野崇司が生まれ、中学の同級生である多田奈央ちゃんに恋心を持ちながら、高校の卒業式になってやっと告白し、交際が始まる。大学三年の時、母親に奈央ちゃんと結婚したいと懇願するが、一人息子と一人娘の結婚を反対され、苦悶の上に破局を迎える。その後、崇司は結婚し、子供を授かるのだが、不調を訴える長女がきっかけで霊能力者と出会う。そこで、自分の前世が沼田ゆいと知り、前世で果たせなかった想いを崇司に託していたにも関わらず、またしても成就しなかったという悲恋のお話である。