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精霊世界──そこは人間の住む世界とは、まったく別の空間にある異空世界である。
その精霊世界の中に妖精界がある。地球にあるすべての陸地を一億倍しても届かない版図。軽く兆を超える人口。妖精界は、それほど壮大な世界なのだ。
その妖精界の最大の都──西の都は、妖精界を治める妖精王オベロンの住まう王都だ。と同時に、そこは精霊世界でもっとも大きな港湾都市である。そのため西の都には精霊世界中から数多くの精霊や物が集まり、いくつもの繁華街が乱立するにぎやかな大都会を形成している。
だが、西の都の郊外には対照的な、地平線の彼方まで続く大きな森が広がっていた。そのすべてが妖精界王立学園──いくつもの精霊修行場をまとめた総合学園の敷地だ。
物語は背後に樹海の広がる、王立学園の正面広場から始まる。
正面広場の中央に今、大きな特設掲示板が並べられていた。そこに貼り出されたものを見ようと、掲示板の前に大勢の精霊たちが殺到している。
「イツミさ〜ん。合格しました!」
その人込みから駆け出してきた女の子が、うれしそうな声を上げた。
彼女が着ているのは、神道の巫女風に仕立てられた衣装だ。だが、下は緋袴ではなく、赤いプリーツスカートである。その女の子──ミリィ・ヤクモが、長い袖をはためかせながら、手を振って呼びかけた相手に駆け寄っていく。
「おめでとう、ミリィ。今回の合格者は三〇人に一人だそうよ。よくガンバったわね」
「えへへ。やりました」
弟子を迎える師匠──イツミ・ハマリヤド・アマテルの前で、ミリィが急停止する。
「霊力不足で涙を呑んだお母さんに代わって、今度はあたしが気象精霊を目指すんです」
よほどうれしいのだろう。頬を上気させて、ミリィがそんなことを言い出した。そして、
「最終目標は、お祖父ちゃんとイツミさんです。二人のような立派な気象精霊になるんです。先に修行を始めたお姉ちゃんには、絶対に負けません!」
意味もなく拳を振り上げて、ミリィが熱い口調で抱負を語る。その言葉を聞きながら、
「その気持ちは、いつまでも忘れないようにしてね」
と、イツミがパチパチと拍手を送った。
ミリィが合格したと言ったのは、王立学園の入園試験だ。今日はその発表日である。
この合格で、ミリィは無事にイツミの開く修行場に入門できた。目標とする気象精霊へ、第一歩を踏み出したのだ。
「これからは、おおっぴらにイツミ師匠って呼んでもいいですよね」
ミリィがそう語りかけた相手は、とても指導者とは思えぬほど童顔な精霊だ。見た目の年齢──形態年齢は一二〜三歳ぐらい。しかもチョコレート色の髪を左側で結わえた姿は、見た目の幼さを更に倍増させている。これで御歳三五〇〇歳を超える大精霊だと言われても、はたして何割の人が信じるだろうか。
そのイツミを師と仰ごうとするミリィは、だいたい七〜八歳ぐらいの形態年齢である。
「ダメよ。そう呼んでもいいのは、学園の中だけよ。学園から一歩でも外に出たら、今まで通りに『イツミさん』って呼んでね」
「え〜っ。ダメなんですか〜?」
イツミにお願いを断られて、ミリィが残念そうな顔をする。
「その代わり、ご褒美にこれをあげるわ。と言っても、あたしからじゃないけど……」
そう言ったイツミが、浅い青緑色の封筒を出してきた。宛て名には整った綺麗な文字で『ミリィちゃんへ』と書かれている。それを受け取ったミリィは、すぐに裏返して差出人を確かめた。
「妖精王妃さまからだ!」
差出人は妖精界の王妃──ティタニア・ディアナ・アーベルクだった。
すぐに赤い蝋の封印を解いて、中から折りたたまれた便箋を出す。
『合格おめでとうございます。ミリィちゃんはこれまで、フローラの影姫になるために十分に努力してくれました。でも、これからはその努力を、自分のために使ってください』
手紙はミリィの合格を祝うものだった。
ミリィは王立学園を受験する前、王宮内にある近衛士官学校で学んでいた。そこでフローラ王女の影姫となるように、厳しい武闘訓練と行儀作法をたたき込まれていた。これは有事に備えて、誰かが受けねばならない訓練だ。
とはいえ、今は平時である。人権保護の観点から、国家権力であっても個人の将来を一方的に束縛するのは問題だ。そこでミリィが与えられた義務を十分に果たした今、次は自分の目標に向かえるように応援しようとしているのだ。
「妖精王妃さま……」
手紙を読み終えたミリィの目に、ジワッと涙が浮かんでいる。
『……を催す予定でございます。合格者のみなさま、奮ってご参加ください』
「ん? 何をする……ですか?」
アナウンスを聞き逃したミリィが顔を上げた。その時、
「あれ? あの子……」
一緒に顔を上げたイツミが、人込みの中に知っている人影を見つける。その視線を、ミリィがたどった。
「うわぁ〜。すっごいドレス……」
ミリィが掲示板をジッと見上げている女の子を見つけた。
年恰好はミリィと同じぐらいだろうか。ふわふわした感じのする、高級そうな空色のドレスをまとっている。いかにも上級貴族の子女といった風情だ。
その女の子が、くるっとこちらを向いた。理知的な面立ちだ。その女の子がミリィたちの視線に気づいたのか。スカートの裾を持ち上げて、小走りでミリィたちに近づいてくる。
「伯母さん。お久しぶりでございますぅ」
女の子が二人の前で立ち止まり、スカートをつまみ直した。そして優雅な仕種であいさつしてくる。それも、なんとも間延びした口調で……だ。
「やっぱりユメミだったのね。あなたもこの学園を受験してたの?」
「そうよぉ。情報精霊になるには、妖精界の王立学園が一番だもんねぇ」
イツミの問いかけに、女の子──ユメミ・スヒチミが、当然という口調で答える。
「ユメミ、情報精霊になりたいの?」
「集めた情報を、あれこれ分析してみたいのよぉ。それなら情報精霊が一番でしょぉ」
「そう……かしら?」
ユメミの子どもっぽい答えに、イツミが小首を傾げた。
ちなみに情報精霊とは、情報を収集する調査員のことだ。分析をするのは情報精霊からデータをもらった、それぞれの専門家である。これは万病に効く薬作りを夢見て、医学者ではなく薬屋さんを目指すような間違いだ。
「ところで、ユメミ。なんだか浮かない顔をしてるわね。もしかして落ち……」
「受かったよぉ。受かったけどぉ……」
すぐに否定したユメミだったが、そのあと口ごもった。
どこか不満そうな表情で、何かを言いよどませている。
そのユメミの視線が、イツミの隣にいるミリィに向かった。
「それよりもフローラぁ、お久しぶりぃ。病弱だって聞いてたけど、外を出歩いても大丈夫なのぉ? あ、もしかしてあなたも学園で勉強するのぉ?」
「……えっ? あたし?」
話しかけられたミリィが自分を指差した。
その反応を見ていたイツミが、くすくすと微笑んでいる。
「ユメミ。この子はミリィっていうの。フローラの影姫役の子なのよ」
「影姫ぇ? へぇ〜、よく似た子を見つけたわねぇ」
イツミの説明を聞いて、ユメミが感心したようにミリィを見た。そのユメミに向かって、ミリィがペコリとお辞儀する。
「影姫ってぇ、普通は形態年齢まで変化できる精霊がなるのよねぇ」
「そう……なの?」
ユメミの喰い入るように見る視線が気になるのか、ミリィが相槌を打って一歩退いた。
「……ん? ミリィ……?」
唐突にユメミの動きが止まった。
「あんた、まさかミリィ・ヤクモって名前じゃぁないよねぇ?」
徐々に表情を険しくしながら、ユメミがミリィを睨む。
「そう……だけど……?」
「まさか伯母さんの、弟子になるのぉ?」
「その通り……だけど、それが何か?」
執拗に尋ねてくるユメミに、ミリィが困ったように聞き返す。そのミリィの腕を、ユメミがガシッとつかんだ。
「ちょっと来なさいよぉ!」
「き、来なさいって……?」
思わず抵抗するミリィを引きずって、ユメミが人込みに入っていく。その二人を追って、イツミも人込みに入っていった。
「これを見なさいよぉ」
人込みを掻き分けて最前列に出たユメミが掲示板を指差した。そこに貼られている掲示物を見て、
「これって……試験成績? こんなモノも貼り出されてたんだぁ……」
と、ミリィが全体を眺めまわす。
「一番上ぇ。あれ、あんたよねぇ?」
掲示板の前に立って、ユメミが怒りのこもった声で聞いてきた。
それが何なのか見ようと、ミリィがゆっくりと上を見る。
「ほぼ満点じゃないの。ミリィ、半分できれば師匠権限で合格させられるって言ったのに、全力を出さないと気が済まなかったのかしら?」
「というより、何かの間違いで半分できなかったらと思ったら、心配で手を抜けなかったんですよねぇ」
嘆息するイツミに。ミリィが含羞みながら答える。
「うっうっうっ……。首席入学、首席卒業、あたしの華々しい人生計画がぁ……」
ミリィの後ろで、ユメミが嗚咽を漏らしていた。目に浮かんだ涙を拭おうともせず、まっすぐにミリィの背中を睨んでいる。
「よくもあたしの人生に泥を塗ったわねぇ。あんた、どこの貴族よぉ。ヤクモなんて貴族、聞いたことないわぁ」
「どこの貴族って言われても……」
ものすごい剣幕のユメミに、ミリィはどう答えれば良いのか迷った。
「王都の南東に、桃源郷自治州があるでしょ。ミリィはそこの知事の姪御さんなのよ」
「ち、知事の姪ってぇ……。思いっ切り庶民じゃないのぉ〜!」
代わりにイツミの答えた説明に、ユメミの声が裏返った。
「その庶民が大貴族──ウガイア大公家第一王女のあたしの経歴に、消えることのない泥を塗ったぁってわけなのねぇ〜」
「そんな、大げさな……」
肩を震わせるユメミを、ミリィはどうにかなだめようとする。だが、
「ムッキィ〜ッ! 赦せないわぁ!」
そんなミリィの態度が、ユメミの癇に障ってしまった。ミリィを睨むユメミの手のひらに、青い光の塊が生まれる。
「逝ってしまえぇ〜〜〜〜〜っ!」
そう叫んで、ユメミが光の塊──霊光弾を撃った。
「うわぁぁぁ〜……」
咄嗟に頭を抱えてミリィが伏せた。その上を輝く光の球が通りすぎていく。
そして霊光弾はそのまま広場の反対側まで飛び、
『家政精霊に補欠合格のみなさ〜ん。ハッサン組に三人空きがありますよ〜!』
『ふぇ〜ん。誰かマナ組に来ませんか〜? 一緒にお天気のことを〜……』
──ズッガァァァ〜〜〜〜〜ン……
『あぎゃあ〜……』
そこで補欠合格者たちを勧誘していた師範や、そこに殺到する子どもたちをまとめて吹き飛ばした。
「な、何をするのよ?」
「ちぃ〜っ。よく避けたわねぇ」
非難するミリィに、ユメミが舌を打って険難な言葉を放ってきた。
無関係な精霊たちまで巻き込んだことを、何とも思ってないようだ。
「こら、ユメミ!」
そう言って、イツミが叱責を飛ばした。
「霊光弾を撃つ時は前口上を入れなさいって言ったでしょ。どこのルールを使ってもいいけど、周りにこれから撃つことを報せるのは大切なマナーよ」
「イツミさ〜ん。論点が違いますよぉ〜!」
ユメミを叱るイツミに、ミリィがツッコミを入れた。
「成長に悪影響があるから、子どもは霊光弾を使っちゃいけないんでしょ?」
「ミリィ。あなたの論点も違ってるわ」
イツミが反対にツッコんできた。そのイツミが、ちらっと吹き飛ばされた精霊たちの様子を見る。そこでは、
『一緒にお天気のことを……学びま……しょう……』
早くも立ち直った師範の一人が、立ち上がって勧誘に戻っていた。
「それに霊光弾が成長に影響するのは、形態年齢が四〜五歳の頃まで。それも基礎霊力を無視して連射した場合よ」
「そ、そう……なの?」
イツミから間違いを訂正されて、ミリィが放心した声で聞き返す。
どうやら間違えて覚えていたようだ。
「にゅふふ。とゆーことでぇ、お仕置きのぉ、五・七×一〇の一六乗ジュールぅ〜!」
──ズッゴォォォ〜ン……
ユメミが身勝手に霊光弾を放ってきた。爆風に飛ばされたミリィが、
「ひゃあっ!」
前につんのめって、トンと片膝を突く。
それを見た師範の一人が、またとばっちりを受けないように、ミリィたちのいる方向に大きな結界で壁を作った。
「い、今のかけ声って……」
「今のは気象室のルールよぉ。これには同じ前口上を使っちゃぁいけない決まりもあるのよぉ〜のぉっ、一・八×一〇の一七乗ジュ─────ルぅ!」
説明をそのまま前口上にして、ユメミが三発目を撃とうとした。だが、ミリィが放たれるよりも早く懐へ飛び込み、ユメミの腕を上空へと向ける。
──バッグゥゥゥ〜ン……
撃ち出された霊光弾が、雲のように空を漂う大地──陸雲を直撃した。そこに大きな爆煙が生まれ、空から陸雲の破片が降ってくる。それが、
『ふぇ〜ん。気象精霊になりたい方はいませんかぁ〜。ひゃぁ〜、また……』
広場の反対側で補欠合格者たちと勧誘する師範たちを襲った。結界の壁で直接飛んでくる霊光弾は防いでいたが、上からのとばっちりには無防備だったのだ。
「よ、よくも霊光弾をそらせたわねぇ!」
「そらせるわよ。当たりたくないもの」
文句を言うユメミに、ミリィが負けじと言い返した。その時、
『合格者の方々にご連絡申し上げます。間もなく新入園者による目的地巡回競争を行ないます。これは学園内を知るよい機会になりますので、奮ってご参加ください』
広場に向かって、そんな園内放送が流れてきた。それを耳にしたユメミが、
「目的地巡回競争ぅ? それは好都合ねぇ」
とほくそ笑む。
『現在、正門前にある特設テントで参加の受付をしております』
「あそこねぇ。今度は絶ぇっ対にあたしが一番になるわぁ!」
そう言って、またユメミがミリィの腕をつかんだ。
「あたしは……」
「なによぉ。勝ち逃げするつもりなのぉ?」
「……いや……。そんなつもりは……」
何かを言おうとするミリィを、ユメミが据わった目で睨んできた。その雰囲気に呑まれて、ミリィが言葉をにごらせる。
「じゃあ、決まりだねぇ。来なさぁい。あたしたちも参加するわよぉ」
ユメミがミリィを引っ張って歩き始めた。それで観念したミリィが、
「はいはい……」
と生返事して、大きく肩を落とす。
「相変わらず、ユメミは負けず嫌いね」
見送るイツミはあきれていた。そのイツミが、
「その場しのぎの影姫ならともかく、いくらミリィが似てるからって、王家が縁も所縁もない者を影姫に選ぶはずはないのにねぇ」
と苦笑して、大きな肩をすくめた。
そして広場の反対側で行われていた補欠合格者の勧誘は、
『早く修行場を決めないと、目的地巡回競争に参加できませんよ〜!』
『あと定員は一人だ! まだ決まってないヤツ、どうする?』
これから最後の追い込みなのか、ますます白熱する状況になっていた。