第2話
先の見えない将来を憂うよりも、少しでも俺自身の経歴を積み重ねることを優先し、私立二田万高校への復学を決めた一八歳の夏は、泰造おじさんが手配してくれた特別講師による補習講義と課題の山を崩す日々で終わった。
そして迎えた九月一日、二学期が——俺の高校生活が再び始まるこの日、二田万高校の正門へと続く綺麗に整地された並木道を一人歩いていた。
「ハァ〜、恋がしたい……」
誰も聞いていないのをいいことに、朝の秋風に乗せて欲望丸出しの一言をこぼしながらうっすらと紅く染まり始めたプラタナスの下を歩いていると、視線の先に二田万高の女子生徒が歩いているのが見えた。
その背の小ささから、俺よりも年下の下級生と思われる。僅かに前屈みで歩き、揺れる手が見えないところから察するに、携帯電話かゲーム機に夢中なのだろうか? なんとなく、そんな想像をしながらその背を見つめて歩いていると——。
「あッ——」
前を歩く女生徒がコケた。つま先を街路に引っ掛けたのか、勢いよく前方へとつんのめり、決っして標準とは言い難い短めのスカートが腰の上へと捲り上がった。
「——クマさん」
そこに隠れていたのは可愛らしいクマさんだった。まるで俺の再出発を祝うかのような出迎えに、視力2.0を超える両目が釘付けとなった。
「——ありがとうございます」
そして思わず溢れたのは感謝の言葉。俺は無意識に腰を折り、なんとか四つん這いで踏ん張った女生徒へと頭を下げた。
「何を……しているの?」
不意に背後から声をかけられた。
だれだ? と考えるまでもない——その澄んだ低い声は鵺耶ちゃんのものに間違いなかった。
「お、おはよう鵺耶ちゃん。いや何ね、並木道で森のクマさんに出逢ったもので、つい挨拶を……」
頭を上げながら鵺耶ちゃんに視線を向けると、何を意味不明な事を言っているの? とでも言いたげに眉間にシワを寄せて首を傾げている。
だが、すぐに俺の歩く先で女生徒が四つん這いになってクマさんパンツをさらけ出しているのを見ると、シワの寄った眉間に加えて切れ長の眉が僅かに吊り上がった。
「……ふ〜ん、そう」
何に納得したのかは判らないが、鵺耶ちゃんは女生徒の方に歩き出すと、起き上がるのに手を貸し、砂埃を払いながら捲り上がったスカートを元に戻してあげた。
そして一言二言、女生徒に声をかけているが、距離があるのと小声で何を言っているのかは判らない。
女生徒がこちらに視線を向けて僅かに頭を下げると、足早に並木道の先へと駆け出して行った。
鵺耶ちゃんも俺を一瞥すると「放課後待っているから」とだけ言い残し、先に歩いて行った。
俺も行き先は同じなわけで、その後をゆっくりと追い始めたのだが、鵺耶ちゃんはすぐに同じく登校する生徒達に囲まれ、その背中すら見えなくなってしまった。
家族を失い、友達とは離れ、天涯孤独なった俺はその様子に嫉妬や自身に対する憐れみを覚えるよりも、シンプルに新たな出会いを求める前向きな感情の方が優っていた。
「ハァ〜、やっぱ愛に生きるしかねぇ……」
再び零れ落ちた欲望丸出しの願望ではあったが、それが俺に残された唯一の希望でもあった。
二田万高の職員室へ挨拶に行ったあと、始業式を終えてホームルーム前の二年B組の教室へ担任の教師とともに入った。
「席につけぇー、ホームルームを始めるぞぉー」
担任の数学教師、寺島孝太郎の声が喧騒に溢れていた教室内に響いた。
私立二田万高校は文武両道を謳う中高一貫校であり、全校生徒一五〇〇人を超えるマンモス校である。
高等部の校舎だけでも七階建の本校舎に各種施設棟と部活棟、運動部向けの学生寮など、数多くの施設が建ち並び、グラウンド設備も充実した県内有数の有名校である。
学校生活は学生行動規範によって管理され、これに違反すれば即退学という厳しい処分も珍しくない。だが、厳しいルールによって管理されながらも生徒のやる気や行動力には寛大な理解を示し、正式な提言書や申告書を提出すれば生徒側の要望を幅広く受け入れる懐の深さも持ち合わせていた。
そういう校風だからこそ——俺が交通事故によって二年近く昏睡状態になり、留年に近い形で第二学年に編入することを簡潔に説明されても、クラスメートたちはさほど驚くことなく年上の同級生を受け入れてくれた。
「角田二郎です。年齢だけは上ですが、それ以外は皆さん以下の人生経験しかありませんので、宜しくお願いします」
寺島先生が簡単な事情説明をしてくれた後、その流れに乗って自己紹介を行なった。
寺島先生も配慮したのか、俺の両親が事故死したことは伏せていた。だから俺もそこには触れず、何か聞かれても自身の身に起こった事実だけを話すつもりだ。
悲劇のヒーロー/ヒロインになんてなりたくはない……その響きだけはどこか憧れるけれど、ちょっと欲しいなって思えるのはその称号だけ。
誰しもその過程や身を引き裂かれるほどの悲運を嘆きたいわけじゃない。嘆く時間すら与えられずに時が過ぎ去った俺ですら、その刹那の感覚を改めて実感したいなどとは思っていない。
むしろ、改めて実感するなんてのは、俺の両親を再び殺すに等しい行為だと考えるようになっていた。
「角田は廊下側の一番後ろの席だ」
一通り説明と自己紹介を終え、パラパラと叩かれる薄い拍手の音を聞きながら唯一空いていた席へと座った。
俺の人生がライトノベルの主人公ならば、ここで横の席には美人で可愛い女子が座っていることだろう。
そして授業中に消しゴムを机の下に落としちゃって——その可愛い女子が拾い上げてくれる手と、慌てて拾い上げようとする俺の手が触れて始まるラブストーリー。
そんな愛の始まりを妄想しながら席の上にバッグを置いて横を確認したが——そこには可愛い女子はおろか机すらなかった。どうやら、俺はまだ物語の主人公にはなれていないらしい。
最後尾から飛び出すように置かれた机は明らかに俺のために持ち込まれたものだ。誰も座っていない空間の反対側を振り返れば、廊下との区切りで壁になっている。
一つ飛び出た壁際の最後尾、そこが新しい俺の席だった。
「よぉ、オレは御崎竜吾、よろしく……センパイ」
席に座ってカバンを机の横に掛けたところで、背中を向けていた前の席の男子が振り返り、小声で声を掛けてきた。
「さっきも言ったけど、年齢が一つ上なだけ——先輩はやめてくれ」
清潔感のある短髪にニキビ一つない綺麗な肌、整えられた細い眉に白い歯、御崎竜吾は間違いなく超がつくほどのイケメンだった。
「おっと、そうだった。これからよろしくなッ」
「おぅ、よろしくッ」
ニカッと白い歯を見せる竜吾に俺も笑い返したところで、寺島先生の「静かにしろー」と注意する声が教室内に響いた。
そしてその日の放課後——俺は鵺耶ちゃんの仕事を手伝うため、事前に聞いていた教室に向かっていた。
復学が決まり、実際に登校した今日を迎えても、鵺耶ちゃんの何を手伝うのかは聞いていない。鵺耶ちゃんが言うには、何も知らないこと自体が手伝いの始まりであり、そこにまずは意味があるらしい。
二学期の始業式を終えたばかりの二田万高校だったが、すでに多くの生徒が放課後の部活動へと活動の場を移し、廊下の窓から見下ろすグランドでは声を揃えながらランニングを行う生徒たちの姿が見えた。
窓越しに見るその風景はどこか現実感のない、別の世界で起こっている出来事のように見えた。聞こえてくる掛け声も、ボールを打つ金属音も、一定の間隔で鳴り響く笛の音も、たった二年離れただけで全く違うものに聞こえてくるから不思議だ。
誰もいない廊下を歩き、鵺耶ちゃんに聞いていた教室前にまでやってきた。
「ここ……生徒会室じゃないか……」
念のため隣の教室を確認してみたが、備品室や無人の会議室で鵺耶ちゃんの姿はない。
「やっぱ鵺耶ちゃん、生徒会役員なんだなぁ……」
コンコン——。
一般教室とは明らかに造りの違う扉をノックすると——。
「——どうぞ」
中から聞こえてきたのは鵺耶ちゃんとは別の、低く澄んだ声だった。
「失礼しま〜す——」
恐る恐る、ゆっくりと扉を開けて中を覗き込むと、生徒会室は一般教室の半分ほどの広さがあるようだった。一方の壁に並べられた書棚には生徒会会報や議事録等々、二田万高校の歴史がぎっしりと並べられ、もう一方の壁一面にはホワイトボードが掛けられ、学校行事に対する走り書きや注意書きで溢れていた。
「ジロウ、待っていたぞ」
部屋の中央には長机が二台——向かい合うように並べられ、窓を背に置かれた執務机には“生徒会長”の立て札が置かれ、その席には紫乃倉鵺耶が堂々と座って俺を待っていた。
「会長、この方が例の?」
そして執務机の前には、綺麗に梳いたロングポニーの髪を背中に流し、綺麗な立ち姿でこちらを見つめる女子生徒が立っていた。
「そうよ、凛子。ジロウ、早く入って扉を閉めて——それと、彼女は副生徒会長で二年生の一瀬凛子、それと……小桜ッ」
「はい、会長〜」
鵺耶ちゃんが書棚の影に声をかけると、副会長の一瀬凛子よりも可愛らしい高い声色が応えた。
トトトッ——と、駆ける足音が聞こえたかと思うと、随分と背の低い女子生徒が書棚の影から顔を出した。
「彼が話しておいた角田二郎よ。ジロウ、書記の小桜早苗——彼女は一年生なの」
「初めまして、小桜です。よろしくお願いしますッ」
「——角田です。よ、よろしくお願いします?」
イントネーションがおかしくなってしまったが、小桜早苗の顔には見覚えがあった——登校時に挨拶したクマさんパンツの子だ。
俺が何を思い出しているのかを感じ取ったのか、鵺耶ちゃんの目が僅かに細まり、その視線が鋭く突き刺さってくるが、とりあえず気づかないフリをして挨拶を返しておく。
それにしても……小動物系のクリッとした目に、綺麗に切りそろえられたオカッパ頭、甘い香りが漂ってきそうな薄桃色の頰——早苗ちゃん、可愛いなぁ。
ほのかに高鳴る心臓の鼓動を感じ、少し不安を覚えていた鵺耶ちゃんの手伝いだったが、なんだかこの先が楽しみになってきちゃったぞ。
「それじゃ、小桜。早速一回目といきましょう」
そう言って執務机から鵺耶ちゃんが立ち上がると——。
「はいッ!」
早苗ちゃんが元気に返事を返して再び書棚の影へ消えた。
あの奥に何かあるのだろうか? そういえば、生徒会室に入る前に隣の一般教室も確認したが、そこまでの距離を考えるとこの生徒会室は明らかに狭い。
どうやら——書棚の列を仕切りにして、向こう側に別の空間を作っているようだ。
「ジロウもこっちにきて」
鵺耶ちゃんの後ろに一瀬副会長も付いていき、俺もその後を追うように書棚を回り込んだ。
そこはグレーとホワイトの四角いボードに覆われていた。書棚の反対側、壁、床、天井——上下左右に張り巡らされたボードに触れると、表面は少し柔らかい布のようで内部は硬い——防音ボードか?
そして何よりも目を引いたのは、身長一八三cmの俺がすっぽりと中には入れそうな白い球体の機械が二台置かれていることだ。
一目見てこれが何なのか想像がついた——アミューズメントパークなどでサービスが提供されている大型のゲーム筐体だ。
事故で昏睡状態になるよりもずっと前に、某国民的人気のロボットゲームを似たような大型筐体で遊んだことがある。
目の前に設置されている大型筐体はそれとはまた少し違うが、搭乗口と思われるドアがあるところを見ると——半球型だった某筐体に対し、目の前の大型筐体は全球体——こんなのみた事がない。
「詳しいことは中で説明するわ。左は私の専用ポッドだから、ジロウは右のポッドを使って」
俺が二台の白い全球型筐体に目を奪われていると、先にこちら側に駆け込んだ早苗ちゃんと一瀬副会長は右側の壁際に置かれた長机前に座り、二台のPCを操作しながら何かの準備をし始めた。
モニターに写っているのは俺が知っているブラウザ画面やソフトウェア画面とは少し違うように見える——配線が大型筐体と繋がっているところを見ると、管理用コンソール的なPCだろうか?
PC画面に視線を向けたまま、鵺耶ちゃんの指示に深く考えることもなく従い、右側のポッドへ近づいていく。
「角田先輩、所持品はそこの貴重品BOXに入れてください。新しく用意したものなので、鍵は指紋認証になっています」
早苗ちゃんが椅子を回転させて指差す先には、貴重品BOXと呼ぶには少し大きめの箱がキャスター付きのラックに載っていた。
箱は上部が開くようになっているようで、早苗ちゃんが言う通り指紋認証を行うリーダー部分と小さなディスプレイが付いていた。
「そこに指を当てて最初の認証を行ってください。以後は角田先輩の指紋でしか開かなくなるので、お財布や電子機器、それと服を中に——着替えはラックの下にありますのでそれを」
早苗ちゃんの説明を聞きながら指紋認証の初期登録を行い、ラックの下段にある丈の長い一枚のシャツを広げる——。
「——え? 着替える?」
真っ直ぐにこちらを見ている早苗ちゃんと視線が重なり、その隣に座る一瀬副会長もキーボードを叩く手を止めて俺のことをジッと見つめている。
いや、ニコニコと無関心な笑顔で着替えを待つ早苗ちゃんに比べ、一瀬副会長の目つきは——その目に宿る光は何かを期待しているような? 気のせいだろうか、何か背筋に悪寒が走るようなゾワゾワとした感覚が——。
「ジロウ、早く準備をして——」
突然の指示に早苗ちゃんと一瀬副会長の二人から視線を外せなくなっていたが、背後から聞こえた鵺耶ちゃんの呼び声に、もう一つの展開が俺の脳裏を閃光の如き速度で駆け抜けた。
この白いポッドに入るために服を脱ぐと言うことは、当然ながら俺だけではなく鵺耶ちゃんも服を脱いで——。
それを期待して——というのは少し違う気がするが、確かめなければならない使命感の様なものを感じながら心臓が物凄い早さで動き出し、早苗ちゃんたちに聞かれそうなほどに大きな心音が喉の奥から鳴り響き、それを聞かれまいと生唾と共に一息に飲み込んで振り返る。
「なっ、な——っ! なんて格好をしてるんだ鵺耶ちゃん!」
「どうしたのジロウ? 今更恥ずかしがる仲でもないでしょ? 昔はよく一緒にお風呂にも入ったじゃない」
「そっ、それは小学校低学年の頃の話だろ?!」
鵺耶ちゃんは制服の前を肌蹴させ、スルスルと上着を脱ぎ落としていく。平然と目の前で着替えていく様に、俺の視線は嫌が応にもその大きな胸を支える桃色のブラに走って——。
いやいやッ! いくら幼馴染で小さい頃に一緒にお風呂に入っていたからって、妹のように可愛がってきた鵺耶ちゃんの今の姿を無遠慮に見ていいわけがない!
即座に目を力一杯に瞑って顔を横へ逸らす——。
だが、鵺耶ちゃんは俺の目の前で着替えることに抵抗がないのか、耳に聞こえる衣擦れの音やファスナーを下ろす音が止まることはない。
「お二人は幼馴染みなんですか?」
「そうよ、小桜。昔はよくジロウと遊んでいたのだけれど、中学に入る前後くらいから疎遠になっていったの」
それは俺が先に中学生になって学校が離れたことと、どんどん女らしく成長していく鵺耶ちゃんを妹として強く意識するようになったからだ。
いつも妹を連れて遊んでいては、他の男友達にからかわれてウザったい。思春期を迎えたばかりの微妙なお年頃だった俺は、異性よりも同性の友達を優先したのだ。
いや、ちょっと待て。
早苗ちゃんと一瀬副会長は男子の前で平然と脱ぎ出す鵺耶ちゃんこと生徒会長に、何か他に言うべき言葉があるはずじゃないのか?!
「会長——」
そう考えた瞬間、一瀬先輩の冷静な呼び声が響いた。
そうだよ一瀬副会長! 男子の前で服を脱ぎ出す恥じらいの欠片もない生徒会長に一言言ってやれ!
目を瞑ったまま直立の体勢で固まった指先を握り込み、このよく判らない状況への反撃の狼煙が上がるのを期待した。
「角田くんがまだ着替え始めないのですが、お手伝いするべきでしょうか?」
反撃どころか追撃の一撃だった。
「ひ、一人で出来るから大丈夫ですッ!」
このままでは男子としての尊厳がズタボロにされてしまう——ならばいっそのこと、自ら服を脱ぐことで最後の誇りを見せつけねばならないッ!
目を瞑ったままブレザーを脱ぎ、Yシャツのボタンに指をかける——。
「あっ、シャツを脱ぐ時にはゆっくりとお願い致します。少々もったいつけながらボタンを外せると、なおよろしいかと思います」
何がだよ!?
目を瞑っているので周囲の状況がよく判らないが、一瀬副会長の声がやけに近くから聞こえてくる。
心なしか、愉悦まじりの吐息が耳に掛かったような……い、いや、まさか、そんな近くにまで来ているはずがない……。
周りが気になるが、鵺耶ちゃんが立っていた辺りからはまだ衣摺れの音が聞こえている。
服を脱いでいるのか着ているのか判らないが、まだ目を開けるわけにはいかない——でも、ちょっとだけならいいかな?
先に脱ぎ始めたのは鵺耶ちゃんだし、早苗ちゃんと一瀬副会長は俺の着替え見ているし——。
そんなことを考えて、ほんのわずかにだけ瞼を持ち上げると——視線の先には真っ白なTシャツ一枚だけを着た鵺耶ちゃんが立っていた。
裾が長いTシャツの下からは眩し過ぎる太ももがスラッと伸び、ハイソックスも脱いで露わになる綺麗に整えられた爪先が、妙に艶かしく見えた。
「ジロウ、先にポッドに乗り込んで待ってるから、早く準備して」
「あ、あぁ、わかったよ……」
鵺耶ちゃんと視線が重なって思わず顔が熱くなるのを感じたが、当の鵺耶ちゃんが何も恥ずかしがることもなく俺に背を向け、ポッドのドアを開いて身を屈めながら中へ潜り込んで行った。
当然ながら、Tシャツ一枚しか着ていないのにそんな体勢を取れば、後ろにいる俺からは鵺耶ちゃんの——。
「——白」
視界に飛び込んで来たのは純一無雑、汚れの一つもない清廉の白。
しかし、鵺耶ちゃんもいつの間にこんなにも成長したのか……あっ、俺が昏睡状態で寝ている二年の間にか……。
「角田くん、いつまで地蔵のように立ち尽くしているおつもりですか? 早くゆっくりとシャツを脱いでください」
——この高校、生徒会室に謎の筐体が置かれているし、副会長の言動は何か怪しいし、大丈夫なのだろうか?
早く、だけどゆっくりという矛盾している言葉に少し戸惑いながらも、異様な視線を背中にヒシヒシと感じながらYシャツを脱いだ。
「あっ、角田先輩、ズボンもです」
「……マジで?」
「マジです」
「角田くん、ベルトを外したらチャックを下ろす時の背筋の角度に注意してください」
「角度?」
「えぇ、角度です。こう、ちょっと反る感じで——」
真剣な眼差しで一瀬副会長がこちらを見ているが、背筋の角度って一体何の角度だよ……。
詳しく説明を求めると激しく後悔をしそうな気がするので追求はしないが、今は見られている羞恥心を横に放り投げてさっさと着替えてしまおう。
ブレザーにYシャツとズボンを貴重品BOXに放り込み、ラックの下に用意してある裾の長いTシャツを手に取り、着ているシャツから着替えて靴下も脱ぐ。
鵺耶ちゃんも脱いでいないんだから、トランクスは脱がなくていいんだよな?
「着替えが出来たらポッドの中に乗り込んでください。中から鍵をかけることを忘れずに」
「鍵を?」
「はい、外からでもマスターキーで開けられますが、ここには置いていません。ですが、中の様子はここからモニターしていますので、安心してくださいッ」
「そ、そお……」
安心も何も、中で何をするのかまだ知らされていないんだけど……。
早苗ちゃんの元気な笑顔に癒されながらも、ポッドのドアを開いて軽く覗き見る。
全球型ポッドの内部は暗かったが、中央に一台のリクライニングシートが横たわっているのはすぐに判った。
このシートに座れってことか。
身を屈めてドアを潜り、シートに体を沈めてドアを閉める——内部は完全な暗闇に包まれたが、すぐに僅かな明かりを照らす補助灯のようなものが点いた。
まるでロボットを操縦するコクピットみたいだな——などと考えながら僅かな明かりに照らされる周囲を見渡していると、球体上部にヘルメットがぶら下がっているのが見えた。
「角田先輩聞こえますか? シートに座ったらポッド上部のHMDを被ってください」
「これだな」
「見えますか? HMDの次は肘掛の先にグローブがあります、それに手を入れて待っていてください」
ポッド内部に響く早苗ちゃんの声に一瞬ビクッとしたが、どうやら早苗ちゃんは外部から内部をサポートするオペレーター的な役割をしているのだろう。
一瀬副会長も鵺耶ちゃんのオペレーターとして、あの席に座っていたのかもしれない。
言われるままに頭上のHMDを引っ張り下ろして頭に被理、目元部分はバイザー型のグラスによって視界が塞がれた。
「早苗ちゃん聞こえる? メット被ってグローブにも手を入れたよ」
聞こえているのか判らないが、手を入れた肘掛の先にあるグローブはコードによってシートと繋がっていた。
これは入力デバイス的なものだろうか?
「はいッ、角田先輩の声は聞こえていますよ。準備ができたら起動させますので、リラックスした状態でシートに身を任せてください」
ちゃんと聞こえているらしい。それに——“起動する”という言葉にバイザーとグローブから察するに、この全球型筐体は何かしらのVR筐体だと予想できる。
VRゲームはそれほど詳しくないのだが、バイザー型メガネとコントロールグローブを駆使してアクションゲームを行う記事や動画は何度か見たことがある。
それがなぜ生徒会室にあるのか、そして俺の生活費を稼ぐことと何の関係があるのかは依然不明だけど、ちょっと面白くなってきた。
リクライニングシートのネック部分は、頭の位置を固定する為なのか瘤のような膨らみが二つあり、そこへ首をはめることでHMDも収まりがいい位置で固定された。
「こちらで角田先輩の体調変化を監視していますが、もしも気持ち悪くなったり、頭痛を感じたらすぐに言ってください」
「わ、判った」
き、気持ち悪くなるって……3D酔いみたいなものだろうか……。
「それでは起動します」
早苗ちゃんの声と共にバイザーの隙間から差し込む僅かな明かりが消え、再び暗闇に包まれたと感じた瞬間——バイザーの内側に光の渦が浮かび上がり、その先へ吸い込まれていく感覚が全身を駆け抜けると、瘤に挟んだ首の感触も、グローブの先で電極を触っているような指先の感覚も、リクライニングシートに投げ出した足の開放感も消え失せ、俺の視界は眩いばかりの輝きに包み込まれた。