第17話
運ばれながらも視線を上下左右に振り、自分の状況をコンマ一秒でも早く把握するために各種ゲージを確認——。
HPはそれほど減ってない、直撃判定を免れたか。各スキルのクールタイムは完了している。パートナーの鵺耶ちゃんのHPも大丈夫、死んでいない。
スリップダメージを喰らっているが、これは鉄格子の影響ではなく、目の前で吼えながら駆ける陸豚王三世の全身が真っ赤に染まり、炎を纏っている状態を直に掴んでいるからだ。
そして背後に闘技場の壁面が迫る。
「《ゴーストステップ》」
壁に激突する直前にスキルを発動して陸豚王三世の巨躯を透過し、今度は後頭部を鷲掴みにして脳天へ石突を突き下ろした。
「ピギャァ——」
甲高い奇声が響いたのは一瞬。壁面に激突し、脳天を突き刺し、勢いを利用して首裏に膝蹴りを叩き込んで豚鼻を壁で摩り下ろす。
「し、死亡回避ッ〜〜〜!! 角煮先輩の咄嗟の動きでオクトを危険範囲外へ投げ出し、自身も早すぎてここからではよくわかりませんが、HPが減っていません!」
「どうやら、ここしかない——というタイミングで陸豚王三世に乗ったようですね。被弾ではなく、乗りあげたことで攻撃判定の発生をキャンセルしたのだと思います」
【g:まじかよ、そんなことできるの?】
【g:聞いたことねぇーw】
【g:ベガスウィンドウのマークVが似たようなことやってるの見たわ】
【ガッシュ:いやでも、危機が去ったわけじゃないぞ、これオクト合流できるの?】
滝のように流れるコメントが何かを危惧するのがチラリと見えた。
「ここでHPが二〇%を切りましたッ!」
「最後の地形変化ですが……これは」
陸豚王三世の背中から飛び降り、チラリと後方を確認すると——俺と鵺耶ちゃんの間を完全に分断するように砂地が落下し、鵺耶ちゃんはさらに距離を取って闘技場の反対側の壁面にまで後退していた。
完全に隔離されたか——。
周囲を確認しても鉄格子に囲まれ、正面は壁と陸豚王三世。この距離では鵺耶ちゃんの弓は射程外。回り込もうにも鉄格子を越えて近づくだけ死にかねない距離だ。
つまり、俺は一人で残り二〇%のHPを削らなくてはならない。
「角煮先輩——」
「あぁ、判ってる」
プレイヤー同士の声は視認できる距離なら問題なく届かせることができる。耳元で囁くように聞こえる鵺耶ちゃんの声は、この先の結末を想像して暗く震えていた。
ズルズルと鼻先を壁面に擦り付けながら立ち上がる陸豚王三世の背中は、激しい怒り打ち震えていた。
ふっ、芸が細かい——などと、メビウスの精巧なエネミーAIに賞賛を送りたくなる。
「この状況はとても厳しいと言わざるを得ません。援護をしたくても、オクトの弓では射程距離が足りていません。合流しようにも、鉄格子を越えるだけで多大なスリップダメージを受けてしまいます」
「ということは、煮卵の第一層攻略は角煮先輩に委ねられたということですねッ!」
【g:終わった】
【g:終わったな】
【g:第一層も越えられない。これで煮卵は完全にバンピーグループになったな】
【g:運が悪かったね】
【みちる:各個撃破になるか、角煮が踏ん張ってオクトだけで倒すか】
【g:でもそれじゃぁ、角煮先輩が別の人と第一層を越えるまで身動き取れないぞ】
【ゴン左ェ門:豚の悪あがきよりもオクトを映せ】
【g:結果は見えた、消して風呂入ってくる】
【g:また再戦できるところまで進んだ頃にくるわ ノシ】
【g:負けて終わりか、散々だったな】
早苗ちゃんと一瀬副会長は冷静に状況を判断し、負けを確信したコメントの流れも悲観的なもので溢れ出した。
最速踏破を競う日本人グループにおいて、一時はそのトップを走り続けていた煮卵TVだったが、メインプレイヤーの一人が脱退し、新規加入者は完全なる素人。
俺の前では誰も口にしなかったが、煮卵TVへのアクセス数は俺の参加から減少の一途を辿っていた。誰も俺に期待はしていない。
それは前メンバーのΔ(デルタ)ドライブ目当ての視聴者が居なくなっただけ——それだけでは説明しきれないものだった。
素人なりに、初心者なりに頑張ってプレイしている姿が面白い、その程度の評価しか得ていないのだ。
「——任せるから」
しかし、俺の耳に届くもう一人の言葉だけには別の確信があった。
「あぁ、もちろん——目が覚めるような勝利を見せてやるよ」
もはや自由自在に扱えるようになったカラミティージャッジメントを旋回させ、石突を高らかに砂地に突き立てて俺の存在を豚野郎に教えてやる。
ピクピクっと陸豚王三世の尖った豚耳が動き、ゆっくりと振り返るその表情は、“激昂”などという言葉では言い表せられない程の激しい怒気を放っていた。
「あっ、オクトがムラマサを鞘に納めていますッ! それに……陸豚王三世はもしかして、狂化状態に入っていますか?」
「ここからでは判別できないですね。もっと近付いてみます」
【g:オクトも諦めたか】
【g:残当】
【g:バーサクしたんかよ、ワロス】
【g:バーサクって何?】
【g:階層BOSSや一部のエネミーだけに搭載されてる強化バフ、要はスーパー○イヤ人になったってこと】
【g:BOSS戦が一方的にならないようにするためのバランサーシステムなんだけど、たまに一発大きなカウンター入れた時に出ちゃうんだよな】
「陸豚王三世のステータスを確認しました。狂化しています」
基本的に外部オペレーターの操作するアバターは完全無敵であり、エネミーたちからも認識されることはない。
一瀬副会長の操作する棒付きカメラを持った天使が俺と陸豚王三世の周囲を飛び回り、向かい合う俺と陸豚王三世をフレームに納めた。
「もしかして……角煮先輩は一人で倒すつもりですかッ?」
「どうやらそのようです。オクトもこの戦闘の行く末を、角煮先輩に委ねたようです」
【g:は?】
【g:勝てるわけないだろ】
【g:でも傲慢で能力吸えばワンチャン?】
【g:使ったら最後、一発でもカスってドットダメージ受けた瞬間に攻撃力ゼロになって詰む。だからどれだけ強くても、ジャッジメントシリーズも七罪スキルも誰も使わない】
【g:その通り】
【g:誰も使いこなせない】
「狂化ね——俺は常々思っていたんだ。このメビウスってVRH&Sのコツは、どんなに醜悪で狂気に満ちたエネミーを前にしても恐れず、どんなにモコモコでフワフワなエネミーを見てもモフりたくなる感情を消し去る。そんな無の感情こそ必要だってな。斬って斬って斬りまくる——そんな殺戮機械こそが唯一の勝者になれる」
陸豚王三世には俺の呟きなど何一つ聞こえていないだろう。自分を見上げる俺の目が気に食わないのか、身を屈めて目と鼻の先で大口を開き、汚らしいボロボロの牙とヨダレを撒き散らせて一際甲高い咆哮を発した。
「どうせ死んでもリスタートするだけ——失うものはせいぜいこの大鎌くらいだ」
陸豚王三世が鋼鉄のメイスを振りかぶり、俺の頭上めがけて振り下ろす一撃を半身に構えて躱し、即座にカラミティーを半回転さして陸豚王三世の下顎から鼻先までを石突で貫いた。
「ギャフゥゥ!」
奇声にも悲鳴にもならない陸豚王三世の叫び声を黙らせ——。
「遅いねぇ——甘っちょろいねぇ——お前の振るう死の鎌なんてその程度だ。だから——その狂気を俺によこせ——《傲慢》!!」
【g:つ、使ったぁぁぁー!】
【g:マジかよ使っちゃうのかよ!】
【ヨイチ:あの距離で振り下ろし見切るのかよ、どんな目してんだ】
「大逆転を狙った角煮先輩の《傲慢》! ですが、一ドットでもHPが減れば攻撃力ゼロのペナルティー!」
「逆に言えば、一ドットも減らなければ狂化した陸豚王三世の身体能力を没収し、圧倒的な能力差でHPを消し飛ばすことも可能なはずです」
「ですが……そんなこと本当にできますか?」
「私には判りません……けれど、オクトから聞いた彼の話が本当なら……」
「話……それは一体?」
「あれです」
遅い——遅い遅い遅い遅い!
「遅すぎるぞっ!」
身体能力を没収された陸豚王三世は、駄々をこねる子供の如く無様で滑稽な攻撃しか繰り出せなくなっていた。
奴にとって渾身の一振りはスローモーションのように動き、振り下ろされる鋼鉄のメイスについた凹みの一つ一つすらクッキリと見えるほどに遅い。
もう見慣れた《アサルトチャージ》の前兆も大きな隙の塊にしか見えない。膝裏にカラミティーの曲線刃を引っ掛け、闘技場の中心へと駆け出す直前に進行方向を背後の壁面へと方向転換させて激突させる。
すでに跳ね返ることも出来なくなった陸豚王三世は膝から崩れ落ちて壁面にへばり付き、その無防備な背後を滅多斬りにして《ゴーストステップ》を発動させる。
ほんの僅かな腕の動きだけで察知した振り払うような横振りを《ゴーストステップ》の完全無敵で回避し、眼を見開いて驚愕する陸豚王三世の巨躯を両断した。
「あ、当たらないッ! 陸豚王三世の猛攻が全て空振り、角煮先輩のカウンターがどんどん決まっていく〜ッ! リンさん、これは一体何が起こっているのですかッ?!」
「……タキサイキア現象というのを知っていますか?」
「タキサイ……なんですかそれ?」
「自身や周囲にとても危機的な状況、それも命の危険性に直結するほどの状況が起こった時に、周囲の時間の流れがスローモーションのように感じる現象のことです。医学的には脳の活動が活発化し、身体能力の一部を一時的に強化し、逆に低下させることによって危機に備える現象とも言われています」
「それ、聞いたことありますッ!」
「メビウスへ仮想世界転移している最中は、プレイヤーの身体は脳だけが活動している状態に近づきます。脳の活動が活発化すれば、高速化された身体への意思伝達速度はアバター操作の伝達速度向上に直結し、アバターから送られてくる情報を脳が処理する速度も同様に向上します」
「つ、つまり……?」
「角煮先輩はとある体験によって、このタキサイキア現象が発生しやすい体質になっています。これはいわば生命体としてのステータスブースト、バイオブーストの一種なのです——今の彼の目には、陸豚王三世の挙動一つ一つが鈍足なスローモーションに見えているはずです」
「す、すごい……」
陸豚王三世の猛攻を躱しては斬り刻み、エネミースキルの発動を見切れば《ゴーストステップ》と方向転換で無効化する。
そしてまた斬り刻む——その繰り返しの中で、川のせせらぎのようにゆっくりと流れていくコメントが視界の隅に見える。
一瀬副会長たちの話も聞こえているが、言葉としては認識できていない。音がゆっくりと流れて聞き取りにくいからだ。しかし、その内容だけは認識できていた。
手のひらを返すように驚愕し、草を生やし、風呂から帰ってくるコメントが流れていくのも見えた。
そして、俺をこのゲームに誘った鵺耶ちゃんの真意を知った気がした。あの日——車のフロント座席をすり潰していくトラックのことを今でも鮮明に覚えている。
飛び散る破片に、鮮血と肌色の何か——あの瞬間に生き残ったことを、俺は奇跡などと思ったことは一度もない。
どれだけ周囲が奇跡だ! と一縷の希望に縋ろうとも、あの時に起こったことは”必然”の結果でしかない。
もしも奇跡なんてものが存在し、それによって誰かが救われると言うのなら——。
「今、俺を救えっ! 《暴食》!!」
陸豚王三世の残りHPは《暴食》で捕食できるか否かのギリギリ付近だった。だが、このタキサイキア現象ってやつは相当に脳への負担を強いるようだ。
視界上には、俺の本当の身体に異常が発生している警告マークが表示されている。このままバイオブーストを続ければ、強制ログアウトが実行されて敗北判定が出てしまう。
コンマ一秒でも早く、陸豚王三世を撃破しなくてはならない!
中空を蛇行する蛇が鎌首をあげ、頭部が巨大化して部陸豚王三世を一飲みにすべく喰らいついた。
「ガァァァァァァァ!!」
だが、陸豚王三世は鋼鉄のメイスを手放し、両手で巨大化した蛇の顎門を抑えて飲み込まれないように抗う。
無理か——?
一進一退の状況が僅かに続き、喰らいつく蛇から力が抜けていくのを感じるのと同時に——視界を横切る一本の矢が見えた。
想定外の場所から放たれたそれはゆっくりと回転しながら飛翔し、真っ直ぐに陸豚王三世の喉元を捉え、減衰し切った最小ダメージ——1を与えて僅かに突き刺さった。
その瞬間、陸豚王三世の表情が狂気から悲哀へと変わった気がした——が、蛇の顎門に飲み込まれて本当に変わったのかは判らない。
陸豚王三世を飲み込んだ蛇はやっと捕食できたことを歓喜するかのように蛇行し、その体をどこまでも伸ばして闘技場の天井高く舞い上がった。
そして、ゆっくりと蛇の体を通して大きな膨らみが降りてきて、カラミティージャッジメントを通して俺の体に吸収された。